反芻
冷戦はまだ解除しない。
家に帰った僕は黙って部屋に入った。
母親が階段を上る僕を下から見ていた気がしたけど、気付かないことにした。
高揚する気持ちと一緒にベッドに倒れこんだ。真希と過ごした時間を反芻して、幸せな気持ちが溢れ出るのを楽しむ。
真希と話してわかったことがいくつかあった。
その中でも今一番実感しているのは、 「恋」という病の厄介さと、苦しさと、そして中毒性だ。こんな辛くて幸せな気持ち、僕のような弱い人間には辞められそうにない。
そして真希は、自分という深く暗い海に溺れる僕にいともあっさりと答えを与えてくれた。
悔しいけど、マスターの助言は実に的確なものだったのだ。
突然、眠気が襲う。そういえばここ数日ろくに眠れていなかった。夕飯も、風呂も、全部を捨て置いて。僕はそのまま心地良い眠りに身を委ねた。
夢の中で二人の女性が現れた。母と、真希だ。母は兄を見ている。真希は先輩を見ている。二人を僕は恨めしく見つめている。
声をかければ届くかもしれないのに。こちらを向いてくれないと、ずっとずっと黙って睨んでいた。
『いじけてるだけか』
マスターの言葉が聞こえる。認めたくないけど、その通りだと今は思う。何をしても到底叶わないことだと思っていた。本当はどうしても欲しくて欲しくて堪らないくせに、諦めという言い訳染みた感情で自分を覆い隠していた。
そうしなければ、いつか無理矢理彼女らを掴んで乱暴にこちらを向かせてしまいそうで。
僕は酷く傲慢で、貪欲で、愚かだから。
蓋をして、僕に得られるものは何もなかったと言い聞かせて抑え込みたかった。
でもそんなことで抑え込める程、僕の中のそれらは弱いものではないんだ。きっといつか、爆発して、暴走してしまう日が来る。
だから、僕は、向き合うしかないんだ。制御するしかないんだ。
朝早く、父も母も目覚める前に家を出た。制服は着ていない。私服に財布とケータイ、ハンカチだけを持ち、制服と鞄はクローゼットの奥深くにしまった。理解ある両親は僕の部屋を無闇には漁らない。これで、居ないけど学校には行ったのだろうと判断してくれるだろう。最高に迷惑をかけると言うことはわかっていたけれど、僕は溢れ出す衝動に勝てなかった。
始発を待って電車で数駅移動し、見知らぬ喫茶店でモーニングを頼んだ。どうにもそわそわしてしまうので、途中で学校には具合が悪く今日は休むと連絡した。多分産まれて初めてのズル休みだと思う。無断欠席できない辺りに僕の肝の小ささが伺える。皆勤賞を狙っていたことを思い出したが、もはやそんなことは今の僕にとっては些細な問題だ。慎司と真希にも根回ししておくべきか考えたが、こちらは敢えて連絡しないことにした。
モーニングを食べた後、また電車に乗り込んだ。都市部に向かう電車の反対方向だ。とても空いていた。高校は徒歩圏内のため、電車に乗ることは滅多にないのだが、朝からガラガラの車両に乗り込んだことに僕は何となくワクワクしていた。
最初は窓の外を眺めていたが、段々気持ちの昂りも収まって少しウトウトしたり、また起きたりを繰り返していた。そうしているうちにやがて終点に辿り着いた。
「海だ」
ホームに降りたって、一人、僕は呟いた。海自体は珍しいものというわけではなかったけれど、なんだか今日の海は特別なものに見えた。
こんなところまで、何をしにきたんだ?
誰も訊いてくれる人は居ないので、僕は自分に問い掛ける。
「何もしたくないから、ここに来たんだ」
僕は答えて、改札を出た。
駅を出て少し歩くと、海の見える広場のようなところに出た。ベンチを見つけて腰掛け、暫く僕は海を眺める。
色々なことを思い出していた。
ここ数日のことを整理するにはとても有意義な時間だった。
深刻な顔ばかりしていると顔が錆び付くと父は言っていた。このところの僕はきっと錆び初めていたのだろうと思う。
「大いに悩め。高校生は、それが仕事だ」
僕は父の言葉を口に出してみた。
「手放すならちゃんと手放せ。手放さないなら、ちゃんと掴んでろ」
続けて口に出す。
手放すか、ちゃんと掴むか。
今決めるべきなんだろうと、思う。
「うぇー…うー…うあぁーん!」
突然聞こえてきた泣き声に、僕は声のした方を向いた。
小さな男の子が地面に座り込んで泣いていた。僕は慌てて近寄り、男の子の前にしゃがみこむ。
「どうしたの?」
なるべく優しく声をかけながら男の子を観察すると、膝に擦り傷があることに気付いた。
「ああ、転んだのかな」
男の子は泣き止まないままに頷く。辺りを見渡した。良かった。水道がある。
「ちょっと待っててね」
水道に走り、ハンカチを濡らして固く絞った。すぐに男の子の元に戻る。
「お待たせ。ちゃんと綺麗にしようね。しみるかもしれないけど、頑張れるかな」
男の子は困った顔をした。しみるという言葉に警戒しているのだろう。
「たっくん?大丈夫?」
不意に、男の子と同じ年くらいの女の子が駆け寄ってきた。男の子は慌てて眼を拭う。
「たっくん、て言うんだね。さぁ、頑張れるかな、たっくん」
僕は呼ばれた名前を言い、もう一度声をかける。
男の子は無言で頷いた。
僕はなるべく優しく傷口を拭いてあげた。幸い酷い怪我ではなさそうだ。血もそんなに出てはいなかった。
「たっくんころんだの?ごめんね、さゆがさきにいったからあわてちゃったのね」
女の子は男の子を覗きこみ、言う。
「べつに。このくらいへいき」
男の子は眼もあわせずに言い放つ。
「はい。とりあえず綺麗にしたよ。家はこの近くかな?」
「すぐそこ」
男の子が指さす方を見ると、すぐそこにマンションがあった。なるほど、あそこの住人なのだろう。
「念のため、おうちで消毒してもらうと良いよ。ついていこうか?」
「だいじょうぶ」
「おにいさん、ありがとう。さゆがつれてくね。たっくんも、ありがとうは?」
「…ありがとう」
「どういたしまして」
僕は二人に笑って言うと、立ち上がった。女の子は男の子の手をとる。二人は小走りにマンションの方へ向かっていた。また転ばないかとヒヤヒヤしたので、マンションの入り口に二人が辿り着くまで、遠巻きに見守る。
マンションに入っていくのを見届けてから、僕は息を一つ吐いた。
「男って、いくつであっても意地っ張りなんだな」
彼が慌てて眼を拭った時の顔を思い出しながら、僕はそんなことを呟いた。
僕はもう少しだけ海を見て、町をブラブラと歩き、陽が暮れる頃に自分の街へ戻った。
「いらっしゃー……」
「こんにちは、マスター」
そのまま僕はサカモトに行った。マスターは僕の顔を見て眼を丸くした。
「おい不良坊主」
「はいはい、アイスコーヒーひとつね」
カウンターに腰掛け、マスターの言葉を流す。
「てめぇ…学校サボりやがったな。ついさっき慎司に休んだってきいたとこだぞ。何暢気にしてんだ、今すぐ家に連絡すんぞ」
「そこなんだけどさ、マスター」
凄むマスターに臆することなく、僕は言う。
「マスターの宿題をやってたらこうなっちゃったんだよ。だからマスター、共犯者として片棒担いでくれるかな」
「あぁ?」
「今日、泊めてよ」
僕のお願いに、マスターは訝しげな顔をした。
サカモトの電話が鳴った。
「はい、喫茶サカモトです。…ああ、お前か。…あ?……」
マスターは電話をとり、応えながら僕をちらりと見た。
僕はニコニコと見つめ返す。
「居ねえよ。心配すんなよ、只のガキのつまんねぇ反抗だろ」
電話は、僕が思った通りの相手のようだ。
「…ただな、伝言は預かってる。『無断外泊でもして親を困らせたらどうだ』と煽ったのは父さんでしょ、一晩で勘弁してあげるから騒がず待っててよ…だ、そうだ」
マスターはため息をついて、続けた。
「立派なくそガキに育てやがって」
僕は噴き出しそうになるのを堪えるのが大変だった。
やっぱり完全に黙ってられないのは自分でも少し呆れたが、学校やら警察やらに連絡されると厄介だ。両親のことだ、今まで絶対こんなことしない僕が、しかもここ数日のあの様子で、黙って居なくなったらきっと余計な想像を膨らませながら心配するに違いない。ことを荒立てないための予防策だ。
「ん」
「ありがとう」
マスターは電話を切ってから、アイスコーヒーをいれてくれた。
「ったく、お前のオヤジに俺が後で怒られるんだぞ。とりあえずは納得して切ったけど」
「ごめんね、出世払いにしといて」
「で?あの宿題やってて辿り着いたのがこの奇行だと?」
「うん。ちゃんと答えが出たんだよ」
「ほお?じゃあ答え合わせといこうか」
「一番悲しんでいたのは、僕だ」
マスターを見上げて、僕は言った。
「両親はもちろん悲しかったし落胆したと思う。そんなこと、僕だってわかっていた。それをやって自分のどうしようもなさに悲しむ自分に酔っていただけだ」
「高校生のガキにしちゃ、立派で冷静な分析どうも」
ふん、と鼻で笑ってマスターが言う。
「真希と話してわかった。僕はどうしようもなく貪欲で、傲慢だった。あんなことをしておさまるような大人しい人間じゃなかった」
マスターは缶ビールを出して、蓋を開ける。店はとっくに『CLOSE』の札をかけていた。
「だから、今度こそ全部答えが出たよ。僕は何も諦められない。今日はその整理をすることと、ついでにささやかな反抗で、少し好き勝手にしてみた」
「少しなもんか、この馬鹿」
言いながら、マスターは缶を掲げる。僕はコーヒーを掲げる。
「まぁ良い。その上で出た答えなら何であっても俺は文句ねぇよ。きっと、お前の両親もな」
そして僕はそのままマスターと乾杯をした。
いつのまにか慎司もやってきて、学校にいなかったことや、病欠と聞いて心配したことで怒られたりしながら、三人で下らない話をして、夜遅くまで楽しんだ。
そういえば、驚きの事実が二つ判明した。一つは慎司が有紗を好きだということ。実の父親の前でうっかり発覚させてしまって、恥ずかしさで悶えていた。そしてヤケクソ気味に慎司に言われた。
「早く真希ちゃん口説いて、そしたら有紗ちゃんと四人でどっか遊びに行けるように誘ってくれよ」
この言葉で発覚したのが二つ目だ。つまり、慎司は僕が真希を好きなことをとっくの昔に気付いていたのだという。僕より早く気付いていたことになる。
本当に僕は、自分が思っている以上にわかりやすい人間のようだ。
二人ともそのことでマスターに散々からかわれ、逃げるように慎司の部屋に逃げ込んで、布団に潜り込んだ後、言葉をいくつも交わさないうちに夢の中に落ちていった。
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