白旗

 マスターと別れて家に帰ると、両親には特に何も言わずに部屋に籠った。

 翌日、黙って朝食を食べ、黙って家を出て、塾に行って、黙って家に帰り、黙って夕飯を食べ、勝手に風呂に入り、さっさと寝た。

 母は何か言いたそうにしたり、実際に何か話しかけてくるが、僕はその度に「うん」「そう」と気のない返事を返していた。父は何も言わないし眼も合わせなかった。

 かくして僕は、約十七年間の人生で初めて、家庭内で、いわゆる「冷戦状態」を作り上げていた。

 それでも母は食事を作ってくれるし洗濯もしてくれるし、風呂も、弁当も、何ひとつ欠かさずに僕に提供してくれた。そして僕と顔を合わせては寂しそうな顔をしたり、辛い顔をする。その度に僕も辛い気持ちになったし、なんて甘ったれた反抗なんだろうと、なんて身勝手なんだろうと、自分を責めた。

 だけど僕はもはや退くに退けない状態に陥っていた。何故かと問われても困る。何となく退こうにも足が動かないような、退いたらひどく情けない気持ちになりそうな、とにかく明確な理由なく退けずにいた。

 反抗している理由ならある。両親が僕の働きたいという意思を突っぱねたことだ。

 只、こんな辛い想いをしてまで抵抗するほどのことなのかは、正直わからずにいた。

 毎日毎日、そんな自分を心の中で罵倒しては、両親に対して憤りを感じ、そして罪悪感を感じ、複雑に絡まる心がそのうち堪えきれなくて爆発してバラバラになるんじゃないかと思った。

 冷戦の三日目。昼休みに僕は真希に声をかけた。

「今日、部活休みだったよね?」

「うん、そうだよ?どうしたの」

 教室を訪ねると、真希は大きな太陽のマークが書かれたプリンを味わっている最中だった。真希の大好物だ。

「ちょっと放課後、付き合ってくれないかな。うちの教室で待ってるから」

「いいよ」

 真希は少し不思議な顔をしながらも、あっさりとOKをくれた。


 最初はマスターの宿題に付き合う気はなかった。だけど情けないことに、僕はもう心のどこかで白旗をあげていて、何でも良いからこの状況を変えたいと思い、つい行動を起こしてしまった。


「やっほー、…あ、もう皆いないんだね」

 真希は放課後、約束通り教室を訪れた。もう誰も居ない教室をキョロキョロと見渡す。

「うちのクラスは皆帰るの早いんだ」

「ふーん。うちはクラスに残ってダラダラ話する人とか居るのに」

自分の席で本を読んでいた僕は、それを閉じて鞄にしまう。

「で?なになに、話って」

 真希は前の席に腰掛けて、僕の方を向いて前のめりで問いかけてきた。

 何だか既視感を感じて記憶を辿ると、慎司やマスターに僕の悩みを打ち明けた時のことが蘇った。どうやら僕から話を持ちかけるということは相当珍しいことのようだ。

「えっと」

 言いかけてふと気付く。僕は何を話そうとしたんだっけ?よくよく考えてみると、マスターは僕に「真希と二人で話せ」というオーダーしか出していない。一体何を話せというのだろう。この課題は不完全だ。マスターを恨めしく思う。同時にそれにすがるしかない自分も恨めしい。

 真希は続く言葉を不思議そうな顔で待っていた。まずい。何か話さなければ。

「元気?」

「…うん、超元気」

 言ってから真希はおかしそうに笑う。

「何それ」

「…えと、何だか自分のことで精一杯で、その、真希も色々あったのをすっかり忘れていてさ。…そういえば、大丈夫かなって」

 今度は脱力するように肩を落として、真希は呆れた声で言葉を返す。

「珍しく昴が話があるっていうから何があったのかと思ったのに。私の心配?ホント人が良すぎるよ」

「…そうでも、ないよ」

 真希の言葉に僕は苦く笑うしかなかった。僕が人が良いなんてとんでもない。親にあんな仕打ちをして、真希をとりあえず、で呼び出して。何をしているんだろう。

「そうかなあ?昴は昔から何でも自分のことを差し置いて、私のことを優先してくれたよ」

「そうだっけ」

 僕はそこで漸く真希の顔をまともに見る。ポニーテールは少し乱れて、耳の横の毛がほつれて垂れていた。もしかして走ってきてくれたんだろうか。楽しそうに微笑む笑顔は今の僕にはとんでもなく毒だった。多分僕は、真希の笑顔が好きなんだと思う。

 二人きりの空間がなんだかとてもひさしぶりに感じる。そのとてつもない心地良さに、僕はひさしぶりに「幸せ」だと感じた。

 一緒に居れば居るほど真希への気持ちが強くなる。自覚したらこんなにも進行が早いなんて、僕はなんと酷い病に罹ったんだろう。

「あ、でもね。一回だけ昴のワガママ聞いたこと、あるよ」

 真希は思い出した、と手を叩く。その音で僕は我に返る。

「そうなの?」

「うん。ほら、小学校に入ったくらいかな…私が有紗とよく遊ぶようになってさ」

 共通の友人であり、真希の親友でもあるその人の顔が浮かぶ。

「ある日ね、有紗のとこに遊びに行こうとしたら、昴が来て邪魔をしてきたの。僕と遊んでよ、って」

 僕は驚いた。そんなことをしたことがあったと、僕の中からはすぐには掘り出せずにいた。

「有紗と三人で遊ぼうっていっても駄目で。結局昴と二人で遊んだんだよね。有紗にはなんでこなかったの、って後で凄い怒られてさ」

「そうだったっけ…覚えてない」

「…あ、なんか思い返すと昴って意外とそういうとこあったかも。お気に入りの玩具とか、絵本とかもなんだかんだで独り占めしたがってた。あからさまじゃないから、あんまり喧嘩とかにはならなかった気はする。…私もお気に入りの友達だったのかな」

 なんてね、と真希は笑った。

 僕は、とても恥ずかしい気持ちになっていた。きっとその頃にはもう、僕の中で真希は特別だったんだろう。

 先日真希が「昴のことあんまりわからないかも」と言ったことを思い出す。なんて大嘘なんだろうと思った。

 もっとたくさん、真希と話したい。

 恥ずかしくて、逃げてしまいたい。

 僕の心の乱れはおさまるどころか増すばかりだったけど。

 僕は、たくさん話すことを選んだ。


「それは昴が悪い。圧倒的に昴が悪い」

 僕と真希は学校を出て、帰り道にあるアイスクリーム屋に寄った。僕は両親との冷戦状態について、少し真希に話をした。こんな子供じみた考えを開示することは恥ずかしかったけれど、話すことで多少の気晴らしになれば、と思った。

「おじさんもおばさんもかわいそう。おばさんの胃に穴が空いちゃう前に謝りなさい」

「…はい」

 諭すように言われて、僕は苦く笑みをこぼして返事をした。

「と言いたいとこだけどさ、昴の気持ちもわかるよ。駄目だってわかってるのに、ついつい反抗しちゃって謝るに謝れなくてさ、イヤになるよね」

「…わかるの?」

「わかるよ。私はお母さんと喧嘩なんてしょっちゅうしてるもん」

 みんなそんなもんだよね、と続けて、真希はチョコミントのアイスをスプーンで掬う。

「そういうものなのかな…」

 もしそうなのだとしたら、少しだけ心が軽くなる、と感じた。そうだったとして何の解決もしていないのだけど。多少救われる気持ちにはなった。

「でも、私からもこれだけは言いたいな」

「何?」

「進路については、もうちょっと真面目に考えなよ」

「え、なんだよそれ。僕は大いに真面目だよ」

 真希の言葉に、僕は言い返したが、

「真面目じゃなくて、ヤケクソっていうの。それは」

「…」

 すぐに僕は閉口する。

「…昴がそんな風に考えているなら、おじさんやおばさんも可哀想だと思うけどさ」

 真希は僕を見ている。

「昴自身も可哀想だよ」

「え?」

 僕は間抜けな声を出した。

「ヤケクソになって自分の気持ちを放り出して、可哀想。その上おじさんとおばさんを悲しませて心を痛めてるのに、それすら自分に放っておかれて、可哀想」

「僕が僕を放っておいているって?」

「そうだよ、自分がイヤになって、自分に罰を与えたくてヤケクソなことして、そんな自分が嫌悪して更にイヤになって…って。悪循環だよね」

「そんな、ことは…」

 僕は強くは言い返せなかった。真希の言っていることのすべてをすぐには理解できなかったが、何となく、納得するところもあった。

「…私も時々あるからわかるよ。まぁ、昴ほど深刻なことじゃないけど」

 真希は少し悲しそうに笑った。なんだか僕は申し訳ない気持ちになった。

「…」

「でも、そういう時に変に周りが強く言っても、すぐにはムリなんだよね。だから聞き流していいけどさ。私なりの考えだと思って受け止めといて」

「ありがとう」

 うまく言葉にできないことばかりだったので、僕はその一言に集約して、真希に返した。


 アイスクリームを食べた後、僕たちは家路を急いでいた。いつの間にか辺りは暗くなりつつあって、真希も僕も夕飯は家で済ます算段だったので、あまり遅くならずに帰ろうと判断したからだ。

 僕としては、もっともっと一緒に居たって構わないけど、今日突然誘った上にそこまで真希を振り回すのは申し訳なかった。

 あんな話を聞いた後で、妙な我儘を言うのが憚られたというのもある。

 それでも僕はとても満ち足りた気持ちになっていた。今日の真希との話は正直まだ整理しきれていないけど、何だか沢山のヒントを貰った気がする。白旗を上げた甲斐はあったと思う。

「じゃぁ、ここで」

 真希はいつもの曲がり角で立ち止まり、僕の方を見る。

「…真希」

「何?」

「先輩のこと、まだ好き?」

「え!?」

 真希は飛び上がるようにして驚いて、改めて僕を見た。

「…んー、わかんない。整理中、かな。もう望みはないなって思っているし、フられたことは吹っ切れてるんだ。でも長い片想いだったからさ。ちょっと心の整理が必要かな」

 照れくさそうに眼を伏せて、真希は答えた。

「そう」

 僕は真希を覗き込む様にして眼を合わせて、微笑んで見せた。

「どうしたの急に」

「僕も今、色々な気持ちを整理しなきゃいけなくて」

「…うん」

「整理がついたら、真希に言わなきゃいけないことがあるんだ。だから、それまでにさ」

 覗き込むのをやめて、姿勢を正して、僕は続ける。

「真希も先輩への気持ち、整理しておいて」

「…………え?…………え、え?」

 真希はその内容についてきっといくつかの推測を浮かべて、どれが合っているのか、僕がどういうつもりなのか、疑問と困惑と混乱でうまく言葉が発せない――という状態なのだろう。眼を見開いたまま、固まっている。

「じゃあ、今日は付き合ってくれてありがとう。また明日」

 混乱する真希を「気を付けてね、と言っても家はすぐそこだけど」と促してから、僕は自分の家に帰った。

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