壱 花舞う都

 ほのかに輝く花片はなびらが、そこかしこで舞っている。

 男は闇に沈む森をひた走っていた。

 小枝がまとうものを引っかき、肌を裂く。長雨に地面はぬかるみ、足を動かすたびに泥が跳ねた。伸ばし放題の髪はもつれ、汗の浮いた肌はうす汚れている。

 男が駆けるのは、とうに人の手を離れた道だった。すでに道と呼べるものではなく、足元には草が覆い茂っている。常ならば避けて通るその場へ足を踏み入れたのは、迫り来る追っ手たちから身を隠すためだった。

 思えば、今日は朝から不調だった。十年に一度の稼ぎ時だというのにめぼしい成果を挙げられず、仲間ともはぐれてしまった。

 逃げ帰る事など、この数年、めったになかった。仲間たちは、腕が鈍ったと笑うのだろうか。それとも――

 嫌な予感を払うように頭を振る。

 茂みをかき分ける手が宙を掻いた。ひやりとした空気が掌をなでる。隠れ家はこの空白の先、抉れたような岩々が織りなす洞窟だ。

 とうとつに視界が開けた。茂みからまろび出た男は荒い息を整え、顔を上げ――目を見開く。

 闇の中に、一人の少女が姿を溶け込ませていた。

 衣や袴の裾からすらりと伸びる手足は細く、夜風に流れる髪は月を宿したように輝いている。耳元でさらりと揺れる銀鎖の飾りには、桜の文様が彫り込まれていた。

 少女の瞼がゆるりと持ち上がる。

 向けられた面は日の光を知らないかのように白く、繊細なつくりをしていた。その中で一際目を引くのは、深い森の緑を思わせる萌葱の瞳だ。つくりものめいた容姿に、そのまなざしが息を吹き込んでいる。

 少女は瞳をまたたかせ、くちびるに笑みを浮かべた。誘われるように足を踏み出した男へと、彼女は反対の手に持っていたものを放る。

 そうして。

 ゆるり、と。

 仲間の首を受け止めた男へ、足を向けた。 





 もう日が沈むというのに、目の前に広がる通りはずいぶんと賑わっている。

 外套からこぼれ落ちた髪のひと筋を見下ろして、りんはひとつ嘆息した。

 さらさらと風に遊ばれる髪は、長旅のせいかややくすんでいるように見える。衣や袴、脛巾はばきも土埃で汚れ、くたびれていた。

 下ろしていた袋を背負い直し、長い髪を外套とひとつになった頭巾の中に押し込む。〈桜ノ国さくらのこく〉から二十日あまりを経てたどり着いたこの〈桜ノ関さくらのせき〉は、皇都〈月ノ都つきのと〉へと至る、最後の関だった。

 ようやく検閲を終え、凛は〈月ノ都〉に足を踏み入れる。

 目の前に広がる大通りには屋台がずらりと並び、客を呼び込む声がひっきりなしに響いていた。頭上には花を模した提灯が下げられ、だいだい色の明かりを灯している。

 朽葉くちば色の外套が風をはらみ、提灯の中で炎が揺らめいた。ふわりと漂ったよい匂いに、凛は顔を上げる。迷う彼女の背を押したのは、きゅう、とささやかな自己主張をした腹の音だった。

 さっと頬を赤らめ、周囲の様子をうかがう。

 今日は昼過ぎに到着する予定だったから、朝方に宿場町を出てから、ほぼ休憩を挟まずにここまで来た。しかし思いがけず〈桜ノ関〉で長時間留め置かれてしまったため、昼餉の機会を逃してしまったのである。

 ふらりと歩み寄った屋台では、木と竹で編まれた籠が何段も積み上げられていた。籠の下には釜と簡易式の竈が置いてある。

「おや旅人さん、いらっしゃい」

 首を傾げた凛を見て、店主らしき女性が声をかけてくる。

「こんにちは」

 女性は外套を被ったまま頭を下げた凛をいぶかしげに眺めたが、声で相手が若い娘だと理解したのだろう。頭巾を下ろそうとした凛を目線で止め、そのままでよいと首を振った。

「これ、何ですか?」

 もくもくと湯気の立つ籠へ顔を向け、凛は中に並べられていた白く丸っぽい物体を指差す。蒸し物だということは分かるが、初めて見るものだった。

「知らないの?」

 凛の問いに、女性が驚いたように目を瞠る。

「はい」

 この〈花ノ国かのこく〉はすめらぎが治める〈月ノ都〉と四つの領国からなり、凛の故郷である〈桜ノ国〉は国土の東端に位置している。海原に突き出た半島であるためか他の領国の文化は入って来ず、独特の文化が発展した地域だった。その分、食文化も他の地域に比べると特殊だ。

「〈桜ノ国〉にはなかったので……」

「ああ、なるほど」

 女性は納得したように頷き、「マントウよ」と笑う。ついでに凛の掌を取り、「饅頭」と字を書いてくれた。〈桜ノ国〉にも同じ字を書く菓子があるが、それとは違うもので、西国から伝わってきた軽食らしい。甘いものから野菜や肉、卵を挟んだものなど、多くの種類があるそうだ。

「お一ついかが?」

 その言葉にしばし迷い、おすすめだという白い饅頭を一つ買ってみる。

 懐紙に包まれた饅頭を指先でつつき、凛はそれを一口大に千切って口に入れた。

 生地はふんわりとして厚く、口溶けもなめらかな、素朴な味の食べ物だ。もちもちとした食感とほのかな甘みに、知らず口元が綻ぶ。

「この時期に〈桜ノ国〉から来たってこと事は、やっぱり〈花灯はなあかり〉を見に来たの?」

「はい。こちらで暮らしている姉が、ぜひ遊びに来い、と」

 口の中のものを呑み込んでから答える。祭に合わせて〈月ノ都〉にいらっしゃい、と彼女から文を貰ったのは、一月前の事だ。

 〈花ノ国〉では、十年に一度、三つの月が全て昇らない夜が訪れる。地上が闇に呑まれる夜、心までも闇に呑まれぬように篝火を焚きいて騒ぎ立てる〈花灯り〉は、その際に行われる祭りだった。

 最初は遠慮しようかと考えていたのだが、故郷を離れた姉に会える機会は多くないし、強く請われて――というよりも彼女の上司に滞在先まで手配されてしまったので、無下に断ることもできない。

 勤め先で上司に相談したところ「頼むから行ってくれ」と懇願されてしまったので、応じる事にしたのだった。

「いいじゃないか」

 女性は楽しそうに目を細める。

「〈月ノ都〉は皇都だけあって派手にやるし、ほら、今の陛下が即位してから初めての祭だろう? 気合いが入っているのさ。

 当日は陛下が薪に火を放って、それを合図に都中で明かりを灯す。夜中になると月花つきはなが降ってくるんだけど、それも本当に綺麗で――ああ、月花は分かる?」

「はい」

 こくりと頷く。

 月の満ち欠けの影響か、〈花灯り〉が近づくと、〈花ノ国〉は野の花、花木が季節を問わずに咲き乱れる。その中でも月花は、〈花灯り〉の一夜、〈月ノ都〉の周辺でしか咲かない花だった。

 三つの月が昇らない代わりに地上を照らしてくれる、幻のような月の花。自ら黄金に輝くその花は、〈花灯り〉の間、人々を闇から守るために咲くのだという。

「ところで」

 彼女はふと周囲の様子をうかがい、声を潜める。

「〈桜ノ関〉の――あれは何があったんだい?」

 その言葉に、凛は背後を顧みた。

 閉門の刻はとうに過ぎたというのに、〈桜ノ関〉にはいまだに開かれたままであり、人がひしめいていた。関守たちが忙しそうに駆け回っている上、皇宮から派遣されたらしき武官たちまでもが右往左往している。

「……えっと」

 言葉を詰まらせる。

「街道を荒らしていた賊が、捕まったらしくて」

「ええ?」

 ぽそぽそと呟くと、女性はあからさまに顔をしかめた。

「また護送されて来たのか」

 苦々しげに吐き捨てられた言葉に、凛は顔を上げる。

「……多いんですか?」

「ああ。〈花灯り〉が近づいている分、旅人も多くなるからね。奴らにとったらなんだろうさ。

 ついこの間も〈裏葉ノ関うらはのせき〉に賊が護送されて来たし、〈椿ノ関つばきのせき〉では捕り物があったよ」

「それは……」

 頭巾の影で眉をひそめる。穏やかではない。

「あんたは大丈夫だった?」

「はい、道中は外套を被っていましたし、〈桜ノ関〉までは知人と一緒に来ましたから」

「それならいいけど……」

 心配そうな女性に頷きつつ、関へと視線をやる。〈桜ノ関〉はようやく落ち着きを取り戻したらしく、関守たちがやれやれといった表情で門を閉ざしていた。

 その様を眺めながら饅頭を頬張っていた凛は、ふと我に帰る。

 姉には今日の昼過ぎに着くと文を送っていたはずだ。もう日も沈んでいる。つい話し込んでしまったが、のんびりとしている場合ではなかった。

「姉が待っているので、そろそろ……」

 最後の一口を吞み込んで暇を告げると、女性がそうだった、と声を上げる。

「引き留めてごめんよ」

「いえ」

 ごちそうさまでした、と頭を下げ、凛は屋台を後にする。ふわりと宙を舞う花片に誘われて顔を上げると、紺碧の空にほの白い月たちがぼうと浮き上がっていた。

 口元に残っていた笑みを消し、つと瞳を細める。

 過世月すぐよづき現月うつつづきしか浮かんでいない空は、どこかもの寂しく感じられた。一番大きな行方月ゆくえづきが見当たらないせいだろうか、常よりも闇が深い。

 吸い込まれそうな闇から無理矢理に視線を引き剥がし、通りへと戻す。

 目の前を駆けていく子どもは晴れ着を身にまとい、透き通った飴細工や菓子を手にしていた。年頃の娘たちは髪を結い、簪や耳飾り、首飾りを揺らめかせている。翻る裳や衣には花の刺繍が施され、さざめきながら歩を進めるたびにその場が華やぐようだった。

 〈桜ノ国〉やその隣の〈裏葉ノ国うらはのこく〉ではほとんど見られない西国風の衣をまとった人々は、〈椿ノ国つばきのこく〉や〈竜胆ノ国りんどうのこく〉の者なのだろうか。あわい色彩の髪や瞳が多い〈桜ノ国〉とは違い、鮮やかな色彩が行き交う様は奇妙な感じだ。

「……変わらない」

 ぽつりと呟き、爪先を見つめる。

 こつん、と肩に何かが当たったのはその時だった。

 無意識に足を引くと、今度は背後から来た男にぶつかる。

「すみま、……」

「気をつけろ!」

 謝る前に怒鳴られ、手荒く突き飛ばされる。

「おっと」

 よろめいた凛が体勢を整えるよりも早く、とん、と背中に軽い衝撃が走った。一拍おいて伝わった温もりに、誰かが背を支えてくれたのだと理解する。

 よほど急いでいたのだろうか、ぶつかった男は忌々しげな顔で凛を睨みつけると、舌打ちをして去っていった。

「大丈夫か?」

 ぼんやりと男を見送っていると、背後から声をかけられる。

「悪い、俺がよそ見していたからだな」

「いえ、わたしこそ……」

 首を振って、凛は自分を支えてくれた相手を振り返った。

「すみま――」

 その瞬間、ふつりと、言葉が途切れる。

 心の臓が、どくりと音をたてた。


 目の前に、紅い青年がいる。


 年の頃は、十六の凛よりもいくらか上だろう。背丈は凛と拳一つ分ほどしか違わないので、男性にしては小柄だ。

 彼は黒地に紅色の刺繍が施された衣と袴を身につけ、腰には剣を佩いていた。腕に抱えている濃紺の布地は、外套だろう。剣を帯びている上に草履ではなく長靴ちょうかをはいているところを見ると、〈竜胆ノ国〉か〈椿ノ国〉の者か。

 襟足で切り揃えられた髪は深みのある紅で、雪の中で花開く椿を彷彿とさせた。ゆるいくせのある髪は、提灯の明かりを受けて複雑な陰影を描いている。

「大丈夫か?」

 微動だにしない凛を心配したのか、青年が身を屈める。花とも菓子ともつかぬ匂いが鼻先をかすめた。肺腑にまで沁み渡るような甘さに、頭の芯がくらりと揺れる。

「おい、――」

 間近で顔を覗き込まれ、凛は息を詰めた。美しさよりも精悍さを感じさせるおもざしの中で、紅玉のような瞳がひときわ輝いている。

 その途端に、視界がぼやけた。

 透明な雫が頬を伝い、ぱたりと地に落ちる。

 身体の底から喜びが湧き上がり、すぐに恐怖と悲しみに塗りつぶされた。

「――――っ」

 震える唇が、意思とは関係なく言葉を紡ぐ。


 ――――、と。


「……え、おい、どうした、本当に大丈夫か!?」

 目の前で、青年が慌てふためいていた。大丈夫だと応えようとするが、言葉にならない。

 胸の奥が熱くなって、しかし同時に刃物を突き立てられたように痛んだ。


 ――逃げなくては。


 その言葉だけが、頭の中ではっきりと鳴り響く。

 逃げなくては。

 彼から逃げなくては。

 さもなくば――

「あ、おい!」

 目元を袖でぬぐい、凛は踵を返した。呼び止める青年の声を無視し、人波に飛び込む。

 駆け出した拍子に頭巾が肩に落ち、押し込めていた髪があらわになった。広がった髪が宙を泳ぎ、霞のように広がる。

 様々な感情が胸の中で渦巻き、ある思いを浮き彫りにした。

 嬉しい。悲しい。愛しい。憎い。

 そして、――恐ろしい。

 青年の視界から逃れるように路地に逃げ込み、その場にずるずると座り込む。

 甘い甘い匂いが肺腑にまで染み込んでしまったような気がして、ひどく厭わしかった。

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花結ひ さいふぁ @caihua

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