壱 花舞う都
一
ほのかに輝く
男は闇に沈む森をひた走っていた。
小枝がまとうものを引っかき、肌を裂く。長雨に地面はぬかるみ、足を動かすたびに泥が跳ねた。伸ばし放題の髪はもつれ、汗の浮いた肌はうす汚れている。
男が駆けるのは、とうに人の手を離れた道だった。すでに道と呼べるものではなく、足元には草が覆い茂っている。常ならば避けて通るその場へ足を踏み入れたのは、迫り来る追っ手たちから身を隠すためだった。
思えば、今日は朝から不調だった。十年に一度の稼ぎ時だというのにめぼしい成果を挙げられず、仲間ともはぐれてしまった。
逃げ帰る事など、この数年、めったになかった。仲間たちは、腕が鈍ったと笑うのだろうか。それとも――
嫌な予感を払うように頭を振る。
茂みをかき分ける手が宙を掻いた。ひやりとした空気が掌をなでる。隠れ家はこの空白の先、抉れたような岩々が織りなす洞窟だ。
とうとつに視界が開けた。茂みからまろび出た男は荒い息を整え、顔を上げ――目を見開く。
闇の中に、一人の少女が姿を溶け込ませていた。
衣や袴の裾からすらりと伸びる手足は細く、夜風に流れる髪は月を宿したように輝いている。耳元でさらりと揺れる銀鎖の飾りには、桜の文様が彫り込まれていた。
少女の瞼がゆるりと持ち上がる。
向けられた面は日の光を知らないかのように白く、繊細なつくりをしていた。その中で一際目を引くのは、深い森の緑を思わせる萌葱の瞳だ。つくりものめいた容姿に、そのまなざしが息を吹き込んでいる。
少女は瞳をまたたかせ、くちびるに笑みを浮かべた。誘われるように足を踏み出した男へと、彼女は反対の手に持っていたものを放る。
そうして。
ゆるり、と。
仲間の首を受け止めた男へ、足を向けた。
*
もう日が沈むというのに、目の前に広がる通りはずいぶんと賑わっている。
外套からこぼれ落ちた髪のひと筋を見下ろして、
さらさらと風に遊ばれる髪は、長旅のせいかややくすんでいるように見える。衣や袴、
下ろしていた袋を背負い直し、長い髪を外套とひとつになった頭巾の中に押し込む。〈
ようやく検閲を終え、凛は〈月ノ都〉に足を踏み入れる。
目の前に広がる大通りには屋台がずらりと並び、客を呼び込む声がひっきりなしに響いていた。頭上には花を模した提灯が下げられ、だいだい色の明かりを灯している。
さっと頬を赤らめ、周囲の様子をうかがう。
今日は昼過ぎに到着する予定だったから、朝方に宿場町を出てから、ほぼ休憩を挟まずにここまで来た。しかし思いがけず〈桜ノ関〉で長時間留め置かれてしまったため、昼餉の機会を逃してしまったのである。
ふらりと歩み寄った屋台では、木と竹で編まれた籠が何段も積み上げられていた。籠の下には釜と簡易式の竈が置いてある。
「おや旅人さん、いらっしゃい」
首を傾げた凛を見て、店主らしき女性が声をかけてくる。
「こんにちは」
女性は外套を被ったまま頭を下げた凛をいぶかしげに眺めたが、声で相手が若い娘だと理解したのだろう。頭巾を下ろそうとした凛を目線で止め、そのままでよいと首を振った。
「これ、何ですか?」
もくもくと湯気の立つ籠へ顔を向け、凛は中に並べられていた白く丸っぽい物体を指差す。蒸し物だということは分かるが、初めて見るものだった。
「知らないの?」
凛の問いに、女性が驚いたように目を瞠る。
「はい」
この〈
「〈桜ノ国〉にはなかったので……」
「ああ、なるほど」
女性は納得したように頷き、「マントウよ」と笑う。ついでに凛の掌を取り、「饅頭」と字を書いてくれた。〈桜ノ国〉にも同じ字を書く菓子があるが、それとは違うもので、西国から伝わってきた軽食らしい。甘いものから野菜や肉、卵を挟んだものなど、多くの種類があるそうだ。
「お一ついかが?」
その言葉にしばし迷い、おすすめだという白い饅頭を一つ買ってみる。
懐紙に包まれた饅頭を指先でつつき、凛はそれを一口大に千切って口に入れた。
生地はふんわりとして厚く、口溶けもなめらかな、素朴な味の食べ物だ。もちもちとした食感とほのかな甘みに、知らず口元が綻ぶ。
「この時期に〈桜ノ国〉から来たってこと事は、やっぱり〈
「はい。こちらで暮らしている姉が、ぜひ遊びに来い、と」
口の中のものを呑み込んでから答える。祭に合わせて〈月ノ都〉にいらっしゃい、と彼女から文を貰ったのは、一月前の事だ。
〈花ノ国〉では、十年に一度、三つの月が全て昇らない夜が訪れる。地上が闇に呑まれる夜、心までも闇に呑まれぬように篝火を焚きいて騒ぎ立てる〈花灯り〉は、その際に行われる祭りだった。
最初は遠慮しようかと考えていたのだが、故郷を離れた姉に会える機会は多くないし、強く請われて――というよりも彼女の上司に滞在先まで手配されてしまったので、無下に断ることもできない。
勤め先で上司に相談したところ「頼むから行ってくれ」と懇願されてしまったので、応じる事にしたのだった。
「いいじゃないか」
女性は楽しそうに目を細める。
「〈月ノ都〉は皇都だけあって派手にやるし、ほら、今の陛下が即位してから初めての祭だろう? 気合いが入っているのさ。
当日は陛下が薪に火を放って、それを合図に都中で明かりを灯す。夜中になると
「はい」
こくりと頷く。
月の満ち欠けの影響か、〈花灯り〉が近づくと、〈花ノ国〉は野の花、花木が季節を問わずに咲き乱れる。その中でも月花は、〈花灯り〉の一夜、〈月ノ都〉の周辺でしか咲かない花だった。
三つの月が昇らない代わりに地上を照らしてくれる、幻のような月の花。自ら黄金に輝くその花は、〈花灯り〉の間、人々を闇から守るために咲くのだという。
「ところで」
彼女はふと周囲の様子をうかがい、声を潜める。
「〈桜ノ関〉の――あれは何があったんだい?」
その言葉に、凛は背後を顧みた。
閉門の刻はとうに過ぎたというのに、〈桜ノ関〉にはいまだに開かれたままであり、人がひしめいていた。関守たちが忙しそうに駆け回っている上、皇宮から派遣されたらしき武官たちまでもが右往左往している。
「……えっと」
言葉を詰まらせる。
「街道を荒らしていた賊が、捕まったらしくて」
「ええ?」
ぽそぽそと呟くと、女性はあからさまに顔をしかめた。
「また護送されて来たのか」
苦々しげに吐き捨てられた言葉に、凛は顔を上げる。
「……多いんですか?」
「ああ。〈花灯り〉が近づいている分、旅人も多くなるからね。奴らにとったら稼ぎ時なんだろうさ。
ついこの間も〈
「それは……」
頭巾の影で眉をひそめる。穏やかではない。
「あんたは大丈夫だった?」
「はい、道中は外套を被っていましたし、〈桜ノ関〉までは知人と一緒に来ましたから」
「それならいいけど……」
心配そうな女性に頷きつつ、関へと視線をやる。〈桜ノ関〉はようやく落ち着きを取り戻したらしく、関守たちがやれやれといった表情で門を閉ざしていた。
その様を眺めながら饅頭を頬張っていた凛は、ふと我に帰る。
姉には今日の昼過ぎに着くと文を送っていたはずだ。もう日も沈んでいる。つい話し込んでしまったが、のんびりとしている場合ではなかった。
「姉が待っているので、そろそろ……」
最後の一口を吞み込んで暇を告げると、女性がそうだった、と声を上げる。
「引き留めてごめんよ」
「いえ」
ごちそうさまでした、と頭を下げ、凛は屋台を後にする。ふわりと宙を舞う花片に誘われて顔を上げると、紺碧の空にほの白い月たちがぼうと浮き上がっていた。
口元に残っていた笑みを消し、つと瞳を細める。
吸い込まれそうな闇から無理矢理に視線を引き剥がし、通りへと戻す。
目の前を駆けていく子どもは晴れ着を身にまとい、透き通った飴細工や菓子を手にしていた。年頃の娘たちは髪を結い、簪や耳飾り、首飾りを揺らめかせている。翻る裳や衣には花の刺繍が施され、さざめきながら歩を進めるたびにその場が華やぐようだった。
〈桜ノ国〉やその隣の〈
「……変わらない」
ぽつりと呟き、爪先を見つめる。
こつん、と肩に何かが当たったのはその時だった。
無意識に足を引くと、今度は背後から来た男にぶつかる。
「すみま、……」
「気をつけろ!」
謝る前に怒鳴られ、手荒く突き飛ばされる。
「おっと」
よろめいた凛が体勢を整えるよりも早く、とん、と背中に軽い衝撃が走った。一拍おいて伝わった温もりに、誰かが背を支えてくれたのだと理解する。
よほど急いでいたのだろうか、ぶつかった男は忌々しげな顔で凛を睨みつけると、舌打ちをして去っていった。
「大丈夫か?」
ぼんやりと男を見送っていると、背後から声をかけられる。
「悪い、俺がよそ見していたからだな」
「いえ、わたしこそ……」
首を振って、凛は自分を支えてくれた相手を振り返った。
「すみま――」
その瞬間、ふつりと、言葉が途切れる。
心の臓が、どくりと音をたてた。
目の前に、紅い青年がいる。
年の頃は、十六の凛よりもいくらか上だろう。背丈は凛と拳一つ分ほどしか違わないので、男性にしては小柄だ。
彼は黒地に紅色の刺繍が施された衣と袴を身につけ、腰には剣を佩いていた。腕に抱えている濃紺の布地は、外套だろう。剣を帯びている上に草履ではなく
襟足で切り揃えられた髪は深みのある紅で、雪の中で花開く椿を彷彿とさせた。ゆるいくせのある髪は、提灯の明かりを受けて複雑な陰影を描いている。
「大丈夫か?」
微動だにしない凛を心配したのか、青年が身を屈める。花とも菓子ともつかぬ匂いが鼻先をかすめた。肺腑にまで沁み渡るような甘さに、頭の芯がくらりと揺れる。
「おい、――」
間近で顔を覗き込まれ、凛は息を詰めた。美しさよりも精悍さを感じさせるおもざしの中で、紅玉のような瞳がひときわ輝いている。
その途端に、視界がぼやけた。
透明な雫が頬を伝い、ぱたりと地に落ちる。
身体の底から喜びが湧き上がり、すぐに恐怖と悲しみに塗りつぶされた。
「――――っ」
震える唇が、意思とは関係なく言葉を紡ぐ。
――――見つけた、と。
「……え、おい、どうした、本当に大丈夫か!?」
目の前で、青年が慌てふためいていた。大丈夫だと応えようとするが、言葉にならない。
胸の奥が熱くなって、しかし同時に刃物を突き立てられたように痛んだ。
――逃げなくては。
その言葉だけが、頭の中ではっきりと鳴り響く。
逃げなくては。
彼から逃げなくては。
さもなくば――
「あ、おい!」
目元を袖でぬぐい、凛は踵を返した。呼び止める青年の声を無視し、人波に飛び込む。
駆け出した拍子に頭巾が肩に落ち、押し込めていた髪があらわになった。広がった髪が宙を泳ぎ、霞のように広がる。
様々な感情が胸の中で渦巻き、ある思いを浮き彫りにした。
嬉しい。悲しい。愛しい。憎い。
そして、――恐ろしい。
青年の視界から逃れるように路地に逃げ込み、その場にずるずると座り込む。
甘い甘い匂いが肺腑にまで染み込んでしまったような気がして、ひどく厭わしかった。
花結ひ さいふぁ @caihua
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