第二章 不穏の影

「中は外観程におんぼろではないのですね。綺麗にされているようですし、手入れが行き届いています。ギャップがあり過ぎますが……」

 寮の内装は外装と違い、隅々まで埃が落ちていないほど丁寧に掃除されていた。調度品も綺麗に整えられている。設備の補強も完璧だ。

 ただ、気になっているのはその調度品の配置。明らかに死角を生み出さないように配置されている。偶然なのか、必然なのかは分からないのだが……。

 けれども、その程度では警鐘を鳴らすような要素にはなりえない。大体、私が住んでいた場所もこの程度の事を勝手に母親がやっていたのだ。

 気を抜かないように慎重になりながらゆっくりと広間へと辿り着く。

 前方には二階へ続く階段。左右には長い廊下。時間的な物なのか環境的な物なのか、廊下には日差しが差し込んでおらず、薄暗く不気味さを漂わせている。

 その廊下からも二階からも生活音がしない。人の気配が感じられないのだ。

 警鐘は単なる気のせいだったのだろうか。そう、私が納得しようとした時、背後から何かに襲われる。気を抜いた瞬間を狙われた為、私も即座に対応できなかった。

 首筋を何か生暖かい物が這ったかと思うと、右耳が何かに包み込まれる。しかも、湿ったナニカが右耳近くを這い回り、軽く圧力をかけられる。

 初めての感触に気味が悪くなった私は思わず、大声をあげて叫んでしまう。

「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 その叫び声が聞こえたのか、先程まで人の気配すらなかった寮内に足音が響き渡る。その足音は上の階から此方へと近付いて来ると、階段辺りでばったりとやんだ。

「おい、なにがあっ――――。って、寮長……あんた何やってるんだ!」

 階段を駆け下り寮長と呼ばれた人物を私から引き剥がしたのは食堂であった先輩だった。

 目の前に広がる意味不明な状況に呆れ果て、先輩は頭に手を付き、盛大に溜息を吐く。

 当然だ。叫び声が聞こえ、急いで駆け付けたら耳を寮長に甘噛みされる入寮生が目に入れば、ため息の一つも吐きたくなるだろう。

「やはり、心配して早めに寮の方へと戻っておいて正解だったか。――あんたな。毎回毎回、新しい寮生が入る度に大騒ぎを引き起こすのをやめる事は出来ないのかよ」

 しかし、寮長は自分の楽しみを邪魔された事が不服らしく、頬を膨らませると子供のように不貞腐れると先輩をじっと睨み付ける。

「いいじゃない! 久しぶりの入寮者なのよ! それに、寮長とは崇高なる職業であり、寮内の中では絶対的な支配者、そう皇帝なの! この寮で私がカラスは白いと言えば、そのカラスは……痛いよ! 私の頭をそんな古いテレビみたいに叩かないでよ! 親父にだって殴られた事ないんだぞ!」

 そこにいたのは金糸のように煌びやかな髪に白い肌の街を歩けば誰でも振り返ってしまうような美貌の女性。しかし、その服装が仕事のし易さを意識してなのか体操服という理解不能なファッションセンスと子供のような態度で全てが台無しだ。

 そんな寮長に対し、先輩は頬を引き攣らせると容赦なく斜め四十五度の角度から何度も何度も容赦なくチョップを振り下ろす。まるで、古いテレビを直すように、だ。

 けれども、分かってはいたことだがその程度の行為で寮長は止まらない。逆にエンジンに熱が入ったのか、更なるヒートアップをしてしまう。私にはもう着いていけない……。

「あのね。いくら、私が温厚だって堪忍袋というものが――」

「そうか。だが、それはこっちのセリフだ。それに、その服装はなんだ? いつもはジャージの癖にどうして今日に限って……まて、おい。――――――その体操服、俺のだろうが!どうして、お前が俺の体操服を勝手に着てやがるんだ!」

 どうやら、寮長が来ていた体操服は先輩のものだったらしい。胸には刺繍で蘭堂という文字が入れられていた。恐らく、これが先輩の名前なのだろう。

 ただ、明らかに無理矢理着ている。寮長の胸のサイズが明らかに二回りほど上なのだ。

 そんな二つの実りに実った二房の胸を強調するように張ると寮長はこう断言する。

「だって、第一印象は大事じゃない。インパクトを求めてのよ」

 その言葉に蘭堂の額に青筋が走る。あぁ、これが堪忍袋の緒が切れるという事なのだろう。まるで、流れる動作で寮長の背後に回ると無言で頸動脈を締め上げる。

「そうか。なら、俺も容赦なんて必要ないよな」

 ジタバタと逃れようとする寮長を容赦なく落とすと蘭堂は深いため息を吐いた。

 そして、こちらに向き直ると一人現実逃避していた仁美先生に対し、頭を下げる。

「誠に申し訳ありません。この馬鹿が多大なご迷惑をおかけしてしまったようで……後の事は俺が責任をもって引き受けさせていただきますのでお引き取りを頂いて結構ですよ」

 蘭堂も気を利かせてそう仁美先生に提案したのだろう。その言葉に仁美先生も目を輝かせるのだが、少し考え込むと恥ずかしそうに彼女から目を逸らした。苦笑いで。

「その申し出はありがたいのだけど、もしも教頭にそのことがばれたらタダ働き確定になるから……仕事だけは真面目にしないと! なんて、ね」

 その返答に蘭堂は小さく頷くと私に対し、そっと手を差し伸べる。

「ランチタイムぶりだな。そういえば、自己紹介がまだだったな。この寮に住む二年、生徒会副会長の蘭堂綴だ。昼間も言ったが、君についてはいろいろと聞いている。何か困ったことがあれば何でも相談してくれて構わない。力になろう。よろしくな」

「はぁ、よろしくお願いします……」

 私は蘭堂の手を握り返すと固く握手をする。

 その握った蘭堂の手は女性のモノとは思えない。ごつごつとした力強さがあった。それは紛れもなく、彼女の関わる過酷な仕事。ガードによるものだろう。

 柔らかさはまるでなく、鍛錬により豆が潰れ固くなった武芸者の手そのもの。

 私がそんなことを考えていると、いつの間にか蘭堂は先程頸動脈を絞めて落とした寮長の紹介を始めていた。敬う心など欠片もない。淡々とした口調で。

「それで、この伸びているバカがカルラ ハルドヴォヒだ。……まぁ、本名より寮長と呼ばれているから寮長で構わないだろ。ここの管理人だから上手く使え。基本的には悪い人ではないからな。……基本的には。……ただ、本当に相談する時は一人で行く事は出来る限り避ける事だけは奨めておく。さっきみたいな目に会いたくなければ、だが」

「酷い! 私のセリフを全部取るだけに留まらず、変な事まで吹き込んだわね!」

 いつの間に復活していたのか寮長は涙ぐみながら蘭堂の足にしがみ付き訴える。

 しかし、蘭堂はソレに対して眉を吊り上げると降り解き、寮長を蹴飛ばした。

「毎度毎度、同じ手に引っかかるか! あんたの泣き真似なんてもう見飽きたんだよ! 真面目に仕事しろ、仕事を! 誰のせいで俺がわざわざこんな事していると思ってるんだ!」

「そんなの決まってるじゃない。わ・た・し・の・せ・い!」

 何やら愉し気に笑いながら断言し、他人をおちょくるその寮長の姿になぜか母親の姿をダブらせてしまう。何より、この手の相手は扱い辛い。そのことはこれまでの経験で心底身に染みているだけに私は蘭堂に心底同情した。なにせ、怒るだけ無駄なのだ。

「あぁそうだよ! 事ある事に寮生にセクハラしやがって、みんな迷惑してるんだよ!」

「ただのスキンシップじゃない。もしかして、――そう、そうなのね。そんなにして欲しかったなら言いえばいいのに! 綴ちゃんは実は着痩せするタイプで、さらしでそのたわわに実った豊満な果実を押し潰してるの私、知ってるのよ! これで口調が女らしかったらバッチ来いなんだけどね……」

 手をワキワキさせながら蘭堂にダイブしようとするのだが、蘭堂に頭を掴まれてしまう。

 ミシミシという音に私は頭を抱えると横にいる仁美先生へと視線を移す。

 内心では早く部屋へと案内してほしい。欲しいのだが、話に割り込むとこちらまで飛び火してくることは目に見えている。その為、私は無言の傍観者を決め込み、仁美先生にこの状況を打開してほしいのだが――。期待するだけ無駄だろう。

 そう思っていたのだが、この状況を流石に不味いと考えたのだろう。仁美先生は勇気を振り絞ると二人の間へと果敢に飛び込み、争いを止めるのだった。

「あの……二人とも? フィアナさんが完全に置いてけぼりになってるし、時間が時間だからそろそろ本題の方に戻って貰っちゃダメかな? 私も仕事があるから……」

 普段はダメ人間の塊である仁美先生の真っ当な指摘に寮長は頬を紅く染め上げる。

 そして、仕切り直すために胸の前で手を大きく叩くと寮長は私へと笑いかけた。

「色々と無駄話が長くなってしまったけど、これからよろしくね。それで、この寮の簡単な規則の説明だけど、私がほ……冗談よ! 冗談! 規則は一つ。『来る者は拒まず』これだけよ。だから、色々と詮索は無し。この寮の人間である以上は、ね」

 蘭堂の睨みに若干不満げな表情をしながらも、寮長は自分のペースを崩すことはなく更に言葉を続ける。恐らく、この言葉も私の事を知っていると暗に告げているのだろう。

「まだ、ここの寮長になって三年と若輩者だけど精一杯、期待には応えるつもりだから何か困ったことがあれば相談しなさい。――因みに、三年前まで何をしていたのかはヒミツよ? 女性は秘密というベールに包まれてこそ輝くものなんだから!」

「まぁ、足りない事を補足するならこの寮の近辺では絶対に問題は起こすなよ。問題を起こせば般若が飛んでくるからな。まぁ、お前なら大丈夫だろうが」

 寮長の態度に呆れながらも私に寮での生活の規則を補足していく。

 しかし、般若が飛んでくるとはどういう事なのだろうか? 理解はできないが、私としても問題を起こして周囲の注目を集めたくないだけにすることはないと思いたい。

 それよりも、問題は――寮の部屋はどうなっているのだろうか? それが重要だ。

「はぁ、般若ですか。一応、覚えておきます。ところで、私の部屋は相部屋ですか?」

 私は寮の規則を胸に刻みながら、ふと疑問に感じた事を口にする。

 すると、その私の問いに対し待っていましたと言わんばかりに寮長は胸の谷間から一枚の紙を取り出すと、生温かいソレを私へと手渡ししてきた。

 理解に苦しむその行動と、寮の案内図から仄かに香る汗と柑橘系の香水。その香りに私は顔を真っ赤に染め上げると立ち尽くしてしまう。

 一方、仁美先生は何やら自分の無い胸をしきりに撫で下ろしながら、寮長の胸元を恨めしそうにチラチラと盗み見する。恨めしそうに。

 そんな私達の様子に蘭堂は寮長の肩を掴んだ。それから、慣れた動きで自身の近くに引き寄せるとそのまま寮長の頭を締め上げる。

「あんたはどっからモノを取り出しているんだよ! 普通にポケットから取り出せよ!」

「えっと、ね! そこにある二階の一番端の部屋が貴方の部屋よ。しかも、今は一人部屋」

 締め上げられる苦しみから必死に逃れようと足掻きながらも、私へ部屋の場所を告げる。

 一人部屋。それはいいのだが、――『今は』とはどういう意味なのだろうか?

 蘭堂もその言葉に何かを感じ取ったのか、締め上げる手を止める。だが、どうやらそれは許した訳ではなく、手の位置を首へと移動させると柔道の絞め技へと移行する。

「おい……。その部屋は長期外泊しているアイツの部屋だろうが! 鍵は外泊中のアイツの手元でこっちにはない。どうやって、こいつをあの部屋に割り振るつもりなんだよ!」

 すると、気管を締め上げられて顔を真っ青にしている寮長は瀕死の状態でポケットから一本の針金を取り出すと私の手へ握らせる。どう見ても、鍵ではない。

「あの、この針金は?」

 いきなり針金を渡されても私の頭では当然、理解など出来る筈もなく首を傾ける。

 そんな私の様子に苦しみから解放された寮長は「鍵よ……。一応、部屋主には話は通しておいたから大丈夫」と、肩で息をしながら言い切った。

「お前……鍵がどういうモノだか解っているのか? それは鍵じゃなくてピッキング……針金だろうが! バカも休み休み言え! それに、アイツにいつ連絡を取ったんだよ!」

「仕方ないじゃない。他に入れれる部屋がないんだもの。別に他の部屋でもいいのなら、いいのよ? でも、それだと色々と問題があるでしょう? なら、選べる選択肢は私の部屋に住まわせるくらいなのよね。でも、それはそれで問題があるでしょ?」

 寮長の言葉に蘭堂は言葉を呑み込むとなぜか、その言葉に納得してしまう。

 だが、私としてはこんな寮長と同じ部屋に住まわせられるなど死んでも御免だ。

「謹んでご遠慮させて頂きます。貞操の危機を感じるので……」

「酷い疑われようね……。大切な寮生にそんな真似はしないわよ。……するにしても、美人になる為のお手伝いを……嘘よ、嘘! 蘭堂さん、そろそろ洒落にならなくなってきたから、その振り上げた拳を下ろして……って、違うわよ! あたしの頭じゃないから!」

 今にも頭に振り下ろされそうな蘭堂の拳に寮長は苦笑いを浮かべながらと必死に思いとどまるよう、懇願するのだが、そんな想いなど彼女の耳に届く筈もなく寮長の頭には見事なまでのたんこぶが出来上がっていた。

 その相変わらずの流れにもうどうにでもなれと思ったのか、仁美先生も苦笑いを浮かべるばかりで間に入って止めるようなことはしない。

 ただただ、頭を押さえて半泣きになっている寮長の姿を眺めていた。

「まぁ、気を取り直して……行ってみよー!」

 あれだけ痛い目を見ても懲りていないのか、復活した寮長は妙に高いテンションで私の部屋へと移動を始める。私はその姿に戸惑いを覚えながらも、後に続くのだった。

 着いた部屋は二階奥。その部屋の扉の前で片足を着くと寮長は先程取り出した針金を使い、慣れた手つきでピッキングを開始する。

 てっきり、冗談だと思っていた鍵開けを手早く行って見せる寮長の姿に私はこの寮に対する違和感が膨れ上がってしまう。

 色々とおかし過ぎるのだ。人間性はこの際無視するとしても、だ。

 例えば、ここまで蘭堂先輩以外の寮生とすれ違う事すらしていない。

 確かに今の時間帯だ。部活に勤しんでいると言われればそれまでだろう。だが、それにしても蘭堂先輩以外にも寮に帰って来ていてもおかしくはない筈。しかし、目の前の二人以外に寮に人間がいる気配はしない。不気味なほどに静まり返っている。

 私がこの寮に対し、様々な懸念を抱いていると、その様子に気付いたのか蘭堂が私だけに聞こえるように耳元でこう告げた。

「今、この寮に入寮しているのはお前を入れて十名。その内、仕事で大概いないのと、体が弱くて部屋からほとんど出て来ない奴が一人ずついる。この部屋は前者の奴の部屋だから、ルームメイトの紹介はまだ先になる」

「勝手にルームメイトにされた挙句、鍵をこじ開けられる方は災難ですね」

「一応、お前の事も奴には通してるだろ。まぁ、気にする必要はない筈だ。それより、この時間帯は実質、寮長以外には誰もいない事が多い。紹介できる奴らは明日の朝にでも紹介するさ。集まれば――の話にはなるがな」

 その言葉に一応、この寮には他にも人が住んでいる事を知り私はほっと胸を撫で下ろすのだが、ここにきてとんでもない問題を発見してしまった。

 この部屋、鍵がないのである。どうやって、出入りしろというのだろうか?

 鍵をかけずに生活するのは女装している人間からすれば辛い。非常に辛い。

 確かにピッキングは不可能ではない。だが、明らかにお嬢様がそれをやるのはおかしい。

「あの……私は毎回、部屋から出る度に寮長にピッキングして頂かないとならないのでしょうか? 寮長の手が離せない時もあるでしょうし……それって不味いんじゃ」

 恐る恐る私は寮長に尋ねると、鍵を開け終わった寮長は少し悩み始める。

 この様子、最初から何も考えていなかったらしい。ここでやっていけるのだろうか?

「この鍵だと相当な技術が必要だから……あなたには無理でしょうね。だから、一月程は辛抱して貰いたいかな? そうすれば、鍵も付け替えられるだろうし」

「おい、その間どうするのかって話だろうが……。確かに鍵を壊すわけにもいかないだろうし、やっぱり別の部屋を探すか。アンタのいない時だってあるだろうしな」

 住むにしても、鍵がない。施錠技術も使えない以上、鍵は常に開いたまま。

 私にとって非常に住み辛い環境であるのは間違いない。それは私の事をよく知っている蘭堂先輩は理解しているらしく、考え込むがどうやら他に案が出ないらしい。

「蘭堂の部屋は貴女の職務上、問題がある。この寮に住んでいる他のメンツは貴女も知っている通り、無理。となれば、やっぱりここが一番安全なのよね。それとも、追い出す?」

 鍵が届くまでの一月の間、他に住まわせる場所がない。

 寮長のその指摘と真剣なまなざしに蘭堂も押し黙ってしまう。

「まぁ、時期が時期だしなるべく早くどうにかするわ。ルームメイトが鍵を送ってくれるように話をつければもっと早いだろうし、今は我慢して貰うしかないわ」

 ここにはいないルームメイトは鍵を持ているのだ。その姿が見えないルームメイトの鍵が手に入れば確かにこの問題は解決する。つまり、それまで私が耐えればいいだけだ。

 私が鍵の件に納得した事を寮長は確認すると、私を部屋の中へと案内する。

「まずは――ようこそ! 卯月寮へ! まぁ、入寮者は数えるほどしかいないし、古いし。設備も微妙だけどこれからよろしくね? アルケさん」

 フィアナは卯月寮の一員と認められた事に「はい」と、寮長に対して力強く返答した。

「それで、お風呂の話なんだけど……大浴場をみんな使うけどあなたはどうする? 各部屋に一応、小型のユニットバスが設置されているけど、殆んどの子が大浴場を利用するわよ? って、それは聞くまでもなかったわよね」

 確かに私としても大浴場という広いお風呂に興味がないわけではない。

 だが、私は正真正銘の男だ。私の事情を知らない人間と出くわす可能性もある。

 つまり、いくら人数が少ないこの寮と言えど、大浴場への突撃は自殺行為以外の何物でもないのだ。残念だが、寮長の言う通り、答えは決まっていた。

 その話に私は少しだけ大浴場に興味が湧いた。

「はい、さすがに恥ずかしいので一人部屋のお風呂を使わせて頂こうと思います」

 私は自身の身の安全と隣に仁美先生がいる事を考え、無難な回答をする。

 だが、その回答は寮長にとって面白くないものだったらしく、寮長は口を尖らせていた。

「せっかく、その雪のように白い肌と銀髪のコラボレーションを堪能するチャンスだったのに……蘭堂さんなんて、さらしで自身の女性としての魅力を潰してるのよ? プロポーションはいいのに表情は硬いわ、口調は男臭いわで本当にもったいない……」

 答えを分かっていた筈なのに、いつもの調子で寮長が茶化す姿に蘭堂も呆れ果てる。

「おい、心の声が全部洩れてるぞ……」

 蘭堂は頭を抱えながら、そう呟くと更にこう続けた。

「それに、さっきから寮長は言いたい放題言っているが別に口調なんてどうでもいいだろ? それに、こんな脂肪の塊。重いわ。肩は凝るわで邪魔以外の何物でもないぞ?」

「し、脂肪のかた、塊……貴方にペッタンコの気持ちが解るの? それは、持たざる者に対する冒涜だわ! まな板、洗濯板、絶壁、ツルぺタ、ペッタンコ、幼児体型、貧乳……そう呼ばれる人達の気持ちが貴方に理解できるの。 ねぇ、アルケさん! 仁美先生!」

 私としてはそんなに熱く胸について語られても反応に困ってしまう。なにせ、中身が男なのだ。だからこそ、軽く笑みを浮かべて流したかったのだが、その熱弁に隣に立っていた仁美先生は泣きながら何度も頷き始める。

「持つべきものの暴言を許すなんて良くないわよね!」

 寮長と仁美先生は互いに友情を確認するように固い握手をし、私の方を向く。

 だが、私は見た目は女装しているが中身は男だ。もともと、その手の話題にあまり興味をもっていなかっただけに蚊帳の外。その視線が凄く痛い。

 なにより、どちらに着いても碌な目にあわない事は目に見えているだけに私は無理矢理笑顔を作りながら、その流れを完全に無視するのだった。

「どうでもいいです。それより、そろそろ荷解きを始めていいですか? ここに来るまでに相当な時間を費やしてますし、無駄話が続けば明日に縺れ込みかねませんから」

「面白くないわね。それだと、弄りがいがないじゃない。けど、そんな明日に縺れ込むほどの荷物なんて届いていたかしら? 確か――――」

 寮長のその言葉に私は固まってしまう。

 そうなのだ。よく考えれば、ここに来るまでの間で荷物を自分でまとめた記憶がない。

 つまり、荷物はすべて母親が用意したという事だ。常識が欠片もない母親が、だ。

 扉の先。私の部屋になるその中央にこじんまりとした段ボールが一箱。

 明らかに小さすぎる。どう見ても必要最低限以下のモノしか入らない。

 その光景に周りも言葉を失うのだが、そんな空気を崩したのは外野からの声だった。

「蘭堂副会長、生徒会長が探してましたよ! 仕事が終わらないから手伝ってほしいって」

 蘭堂先輩の知り合いらしき二年の言葉に蘭堂は疲れ切った表情で苦笑いを浮かべる。

「あのバカ。今日は手伝えないと言っていたんだがな。悪い。この埋め合わせはそのうちに。あっちを片付けないと余計な問題が発生しかねないからな」

 どうやら、蘭堂先輩は苦労人気質らしい。大きなため息を吐き、私にそう告げると寮長にこれ以上はふざけないようにと釘を刺すと大急ぎでこの場を後にするのだった。

 残された寮長と仁美先生は互いに顔を見合わせて視線で何かをやりとりする。

 なんだろう。物凄い方向で勘違いをされている気がするのだが、気のせいだろうか?

「もしかして、業者の手違いで荷物が別の所に行ったりした?」

 そうであったなら、どれだけよかったのだろうか。そう私は思う。

 本来、寮に入るならばそれなりの荷物がある。段ボールで部屋が埋め尽くされる事も珍しい事ではない筈だ。その為、この部屋に小さい段ボールが一箱は明らかに異質。

 だが、残念なことにこれは恐らく間違っていないのだ。これだけしか送られていない。

「確かに珍しいわね。ここで働いて業者のミスで段ボールが一箱だけ届くなんて初めてだわ。…………どうしたらいいのかしら? でも、見つかったところで受け取るのに……」

 言いたいことは十分わかるのだが、現実を知っている私はどう反応していいのか困り果ててしまう。変に勘違いされているだけに上手い言葉が見つからないのだ。

「……多分、これで荷物は全部だと思います。私の母親は少し変わってて、必要最低限を生活できる必要最低限だと本気で思っているらしく――」

 もう、どうにでもなれと私はありのままの事実を告げるのだが、その言葉に二人は制止する。まるで、時が止まったかのように微動だりしない。

 やはり、あの母親は色んな意味で常識がなかったのかと実感していると、いきなり寮長に両肩を掴まれると真剣な眼差しでじっと見つめられる。

「鳶が鷹を生んだって事かしら? まぁ、何か必要な物があれば出来る限りの範囲で用意するから相談して頂戴。それから、寮の朝食は七時。夕食は八時に一階の食堂に集合なんだけど……この寮の人間はまともに守らないからオールフリーよ」

「は、はい。……あの、厚意はうれしいのですが、寮長に貸しを作ると後で何を要求されるか分からないのでご遠慮します。それに、そういう生活には慣れてますから」

「いい子ですね。それに、とても苦労したみたいで……先生も応援してます。でも、本当に困ったことがあれば頼ってくださいね。お金の絡まない範囲で頑張りますから」

 私の中の常識が色々と崩壊していく音を聞きながら、二人に応援の言葉をかけられる。

 そして、二人が本来の仕事へ戻ると私はその小さな段ボールを開けた。

 出て来たのは本当に生活する上で必要最低限の下着、歯磨き、洗面具、私服数着、寝間着数着。特殊なものと言えば、股間を誤魔化す器具と数本の替えのナイフくらいだろう。

 本当に必要最低限しか送られていないため、荷解きは数分で終わってしまう。

 だが、それにも関わらず何故だろう。その荷解きが終わるとどっと疲れに見舞われる。

「怒涛の一日でしたね。これが当たり前というものなのでしょうか」

 当たり前が当たり前ではなくなる。

 どちらが日常でどちらが非日常なのか。曖昧な線引きだ。

 私は念の為、部屋の中に何か仕掛けられていないか。誰かが物色した形跡がないかを入念に調べ上げる。だが、特に怪しい場所は見受けられない。

 私はその安全確認が済むと、ホッと胸を撫で下ろす。すると、緊張感が抜けたのか私はゆっくりとベッドへと倒れこんでしまうのだった。


「あれ、もう朝。――って、夕食は! 今、何時だよ!」

 時計を確認すると朝の五時。夕食の時間はとうの昔に過ぎており、窓の外からは朝を告げる鳥の鳴き声が響き渡り、朝日が差し込んでいた。

 私は軽く背伸びをし、頭を切り替えると昨日はお風呂にも入っていなかったことを思い出し、まどろみの中をさまよっている頭を覚醒させるため、軽くシャワーを浴びる。

「朝食は確か、七時。まだ二時間もあるか。どうやって時間を潰そう」

 昨日の出来事から考えるにこの学校が見た目通りのただのお嬢様学校では無い事は薄々ではあるが勘付いている。裏で色々とありそうなこともだ。

 だとするなら、やっぱりここは身体を整える必要があるのだろう。

 私はそう結論付けると、トレーニングを行うために玄関へと向かおうとするのだが、その途中で背後から声をかけられる。。

「あら、昨日はよく眠れた? 夕食を忘れるほど疲れていたみたいだけど」

 その声に振り向くとそこには寮長がいた。だが、なぜだろう。警戒を緩められない。

 昨日の出来事もあるが、そこまで苦手意識をもっていたのか。そう自分の中で結論付けると私は苦笑いを浮かべながらこう返答した。

「すいません。……やっぱり、初日という事もあって色々と疲れていたみたいです」

 寮長の手には箒。恐らく、掃除の途中で心配してわざわざ声をかけてくれたのだろう。

 私は頭を下げてお礼を言うのだが、そんな私の姿に寮長はクスリと微笑むと私のおでこにデコピンをする。そして、窘めるように私にこう告げる。

「そんなにかしこまらないでちょうだい。ここにいる間、私たちは家族みたいなものなんだから。それとも、私じゃ不満かしら?」

「いや、そういう訳では……。その、そういうのがちょっと苦手で……」

 私は寮長の言葉に額を押さえ、目を逸らしながらそう告げる。

 視線の先には寮長の手。これで見るのは二度目だが、なんだろう。違和感を覚える。

「――――昨日と何か違う? いや、そんな筈は」

 私から漏れたわずかな言葉に寮長の表情が一瞬だけ険しくなったように見えた。

 しかし、気のせいだったのか次の瞬間には元の笑顔に戻っており、私は自分の中で気のせいだったと結論付ける。周りを信用できず、警戒しているだけだ、と。

「まぁ、なんであれ悩みがあれば何でも言ってね。それじゃ、まだ残りの仕事があるからそろそろ仕事に戻らせてもらいます」

 私は寮長の言葉に考えが顔に出ていた事に気付くと恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染め上げてしまう。そして、逃げるように私は寮の外へと走り出すのだった。


 ――その後ろ姿を目で追いかける。リリアン=アルケが寮の外へと出た事を確認すると寮長は頬を釣り上げて妖美な笑みを浮かべる。

「危ない危ない。まさか、私の事に気付きかけるとはね。でも、詰めが甘い」

 警戒された時はまさかとは思ったが、そこで気を抜くとはまだまだなようだ。

 この『仕事』にはイレギュラーが付き物だが、ここまで別格のイレギュラーは初めてだ。

 裏に深く関わっている人間ならいざ知らず、相手はただのお嬢様。そんな人間を相手にここまで精神的に追い込まれたのはこれが訓練時を除けば初めてだ。

「貴女はどう思う? そうよね。不確定要素は――排除」

 そう呟いていると、廊下の端から寮長が歩いてくるのが目に入る。

 その寮長がもう一人の寮長に気付く頃には寮長は跡形もなく消え去り、入れ替わるように寮を出た筈のリリアン=アルケがそこに立っていた。

「あら、昨日はよく眠れたかしら?」

 その言葉にリリアン=アルケは先程、行われた会話を再演し、その場を通り過ぎようとする。だが、その前進を寮長は手に持っていた箒で阻んだ。

「そう、それは良かった。ところで――いや、なんでもないわ。気にしないでちょうだい」

 寮長はリリアン=アルケにそう告げると何事もなかったかのように食堂へと向かう。

 残されたリリアン=アルケは澄ました顔をしていたが、内心は恐怖に震えていた。

 寮長があの一瞬に発した重圧は一般人のソレではない。明らかに――。

「面白い。面白くなってきたじゃない」

 予想外の出来事。想定外の事態。その現実にリリアン=アルケは頬を釣り上げて笑う。その歪んだ笑みを浮かべながら、楽し気に歌う。

「可愛い可愛い仔猫さん……。貴女は一体、何者なのかしら? 私に生というものを教えてくれるのかしら? それとも――その苦悶で私を楽しませるのかしら」

 その言葉が廊下の空気に溶け込んでしまう頃には廊下には誰一人として存在しておらず、近場のカーテンが吹き込む風によって静かに揺れるだけだった。

 そこにいた筈のリリアン=アルケはまるで『亡霊』のように溶けて消えていた。

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クリムゾンプラン~安心できない学院生活~ 浅田湊 @asadaminato

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