第一章 編入

 目の前には荘厳な作りをした門、その向こうには緑に囲まれたいかにもお金持ちが通っていそうな美術的にも美しい静寂に包まれた校舎――。

「明らかに場違いだよな。俺――いや、私の存在って」

 これから通う事になるアルテミス学院の前。一応、言っておくが女子高である。

 その前に立つのは白銀の糸のように漉き取った銀色の髪に主張の少ない胸。女子高の制服を纏ったリリアン=アルケ。そう、私である。ここまで何一つおかしい話はない。

 待ち人を待つ間、何度も手鏡で自分の容姿を確認するが完全に女生徒だ。

 そう、女生徒にしか見えない。だが、中身は男である。但し、髪は自毛だ。

 しかも、先程の名前も偽名。本名はミリィ=シミルノーフ。ロシア出身の十七歳。

 日本でいえば高校二年に値するだろうが、色々あって高校一年生として編入する。そう、思い出したくもない事が色々とあり過ぎて……。あぁ、頭が痛い。

「出来る事ならここから逃げ出してしまいたいけど、他に行く当てはないし……ここまで来たら逃げられないわよね。本当は凄く嫌だけど」

 辺りで誰が見ているか分からない。口調には細心の注意を払う。

 見た目は完全な女性だが、実質は男。ばれたら完全な変質者である。人生の終わりだ。

「それにしても、待ち合わせの時間は当に過ぎてしまってるわよ……ね?」

 母親であるアリーサに指示された時刻の三十分前に待ち合わせ場所として指定されていた学校の校門前に到着して早――――一時間。

 その間、校門の横をリムジンが何台も通り過ぎるのだが、案内人らしい人間はおろか徒歩で校内へと入ろうとする学生の姿は見えない。まさか、場所を間違えたのだろうか。

 時間を過ぎても一向に迎えが来る気配はないどころか、近辺に人気はない。

 ただ、こちらを不審者と判断しているのかじっと監視カメラに見詰められているだけだ。

 確かに待ち人が来ないのだから、校内へと入り此方から出向くという方法も考えない事もなかった。だが、ここは私有地。許可なく無断で侵入して警察に通報されたりなんてしたら……考えただけでもおぞましい。――身体検査など絶対に嫌だ。

 だからこそ、こうして仕方なく待ち合わせ場所になっている校門に寄りかかって待っているのである。だが、そろそろ我慢の限界だ。どれだけ待たされればいい。

 気付けば、時間は更に三十分ほど進んだらしい。一限目の開始を告げるチャイムが辺りに鳴り響き、余韻を残しながら消えて行った。

「完全に忘れられているのでしょうか? いえ、あの人の提出した書類そのものの申請が通ってない可能性も捨てきれません。はぁ、どうすればいいのでしょうか……。いつまでもここにいたらそれこそ、不審者として通報されかねませんよ」

 今回の編入に関しても男であるミリィが偽の戸籍である女のリリアンとして申請してるのだ。どう考えても正規の方法ではない。裏工作をしているはずだ。

 その事が私の不安を余計に煽っているのである。母さんは普通の人が常識と呼ぶソレが存在していないのだ。安心できる要素は全くない。

 今回の事に関しても全く相談もなく、衣装の寸法すら取っていないにも関わらず寸分たがわぬ制服を用意していたりと本当に勝手すぎる人なのだ。何もかも全て事後報告。

 殆んど家にも帰ってこない上に……。

「あのーーーーすいません。リリアン=アルケさんで大丈夫ですよ、ね?」

 呼ばれた声に顔を上げるとそこには私を覗き込む姿。

 それはどこか幼い雰囲気を醸し出す縁の青い眼鏡をかけた女性だった。肩で息をしながら、相当急いできたのだろう。それでも、一時間ほど遅刻なのだが……。

「あのーーもしかして、間違ってましたか? でも、渡された書類では確か……」

 そこまで言われて初めて私は自分の事を呼ばれていたと気付く。当然だ。リリアンと名乗り始めてまだ数時間も経っていない。その名前に呼ばれ慣れていないのだ。

 唯一の救いは色々と考えていた為、他の誰かを呼ばれたのか辺りを見回さなかったことだろう。そんな事をしてしまえば、色々と怪しい人間になってしまっていた。

 目の前の女性は全く反応しない私にうんうんと唸っていたが、何かを閃くと懐から一枚の紙を取り出してそれをゆっくりと読み上げる。

「エ、エクスキューズミー? アーユー リリアン=アルケ?」

 どうやら、日本語がまだうまく聞き取れないと判断されたらしい。それを考慮してカンペを使いながらも英語でコミュニケーションを取ろうとしたようだ。

 凄まじいまでの片言。発音も滅茶苦茶で苦笑いを浮かべてしまう。これ、こちらが英語で返した場合、うまく意思疎通を取ることは可能なのだろうか?

「What's happend Ma'am??」

 リリアンはその先生らしき女性に対し、尊敬表現を用いた流暢な英語で返答する。すると、その女性は返答があった事にホッと胸を撫で下ろし、安心した表情を浮かべた。

「私はこれから貴方の担任になる葛城かつらぎ仁美ひとみっていいます。これから一年間よろしくおねがいしますね? リリアン=アルケさん」

 そう言い切った所で仁美先生は自分が日本語で自己紹介をしてしまった事に気が付き、慌てて用意していたカンペを覗き込む。だが、あまりの焦りに握りしめていたその紙は風に乗ってどこかに飛んで行き彼方へと消え去っていった。

 当然、その光景に呆然とする葛城先生なのだが、油の切れたブリキのロボットのようにゆっくりとこちらを振り向くと蒼白い顔で泣きそうになりながら再度自己紹介をする。

「マ、マイネーム イズ ヒトミ カツラギ……。えっと、私は貴方の担任ですってどうやって言えばいいんだっけ? カンペはどこか行っちゃうし……」

 カンペの為に用意していた紙は遥か彼方へと消え去ってしまい、仁美先生は何を話していいのか分からず、あたふたするばかりだ。全く話が先に進まない。

 最初は蒼白だった顔も次第に赤らみ、最後には泣き出しそうな表情を浮かべてしまう。

 予想外の展開に私も今更ながら日本語が話せると言い出し辛い。

 そうしていると、仁美先生は覚悟を決めたのか、嗚咽混じりに私にこう告げた。

「あの……アイム ノットスピーク イングリッシュ バット オンリージャパニーズ オケー? 英語しか話せないって言われたらどうしよう……他の先生は授業だし……」

 嗚咽混じりで上手く聞き取れないが恐らくは、『私は英語が話せません。日本語だけは話せます』と、言いたいのだろう。母親が言うには留学生も多いという話だったので英語が通じると思っていたのだが、まさかの事実である。

 書類では明らかに留学生の筈なのだが、どうして仁美先生に案内を頼んだのか。

 色々と気になってしまう事はあるのだが、それ以上にあまりに必死の仁美先生の様子に私は思わず、クスリと笑ってしまう。

 ただ、こちらがこれ以上切り出さなければここから先へは進めない。

 何より、仁美先生のあまりの様子に私は初めて、母親から習っていた日本語で話すことを決意するのだった。ここに来るまで一度も使ったことがないのだが……。

「そうですか。すいません……。此方の配慮が少し足りなかったみたいですね……。てっきり、この学校で教鞭を捉えている教師の方々は通例として英語が流暢に話せるものばかりと思ってしまっていました。母親から留学生が多いと聞いていたもので……」

 留学生が多い中、仁美先生がどのように彼らとコミュニケーションを取ってきたのかは疑問だ。本当に私が日本語を話せなかったのならどうするつもりだったのだろう。

 そもそも、この容姿だ。そして、日本に長く住んでいたわけでもない。

 だからこそ、英語から入った方が自然だと判断し、なるべく日本語を使わないようにこころがけてきたのだが、仁美先生の登場で無駄な努力になってしまった。

 そんな自分の行動を顧みていると、仁美先生は恥ずかしそうに私から目を逸らした。

「えっと、確かに留学生も多数在籍しているから、普通は英語も話せて当然なんだけど、私ってどうも言語関係が苦手で……。それにしても、随分と綺麗な日本語ね? 留学生の中には男言葉みたいな話し方をしたり、古語混じりだったり、片言な子も結構多いのにちゃんと女言葉になってる。――それに比べて私ってなんなんだろう……」

 仁美先生の言葉に一応は普通の日本語である事が判明し、私は胸を撫で下ろす。

 日本語を躊躇したのは言語的な特徴として、英語に比べると性別を表し易いからだ。しかし、どうやら母親の教えたのは女言葉だったらしく、リリアンの不安は取り越し……ではなかった。もしも、男の姿のまま使っていたらただの編隊ではないか。

 色々と思うところはあるのだが、無事に話が通じたのは事実。あとは、敷地内に案内してくれるてとんとん拍子に話が進むはず――のかと思っていた。

 そう思っていたのだが、仁美先生は完全に意気消沈。私の事を忘れ、絶賛自分の世界に閉じこもり中というやつだ。本当にこの人が担任で大丈夫なのか些か、不安だ。

 英語が全くしゃべれない仁美先生と英語だけでなく綺麗な日本語を話す私。

 その現実に教師としての威厳を砕かれ、大いに自信を喪失してしまったのだろう。

 ただ、更に落ち込まれても仕方がないので言わないが、私が話せるのは八か国語だ。

 実際、生活で使っていたのはロシア語と英語。あとは話が通じるのか怪しいレベルだ。

 それにしても、これからどうしよう。明らかに面倒くさい。仁美先生。

 傷心しきった仁美先生は下手に触るとこちらが酷い目に会いそうなだけに手が出せないでいたのだが、どこか遠い場所を呆然と見つめながら何やら愚痴をこぼし始める。

 最初はたんたんと自分が努力してもなかなか英語が身に付かないという意味の繋がった愚痴だった。だが、次第に雲行きが怪しくなり、しまいには英語が話せず教頭に給料を減給された事に対する恨み言をブツブツと呟き始める。

 そのあまりの状況にこれまでは黙って話を聞いていた私もどうしていいか分からず、頭を抱えてしまう。その上、一時間近くも仁美先生の愚痴を聞いていたらしく、門の奥から今度は一時限目の終了を告げる鐘が響き渡った。 

 そのチャイムが鳴り終わりしばらくすると、どこからともなく仁美先生の頭めがけ何かが飛来。見事、仁美先生の脳天に直撃し地面に落ちる。

 見た限り、危険物ではなさそうだ。どうやら、名簿らしい。

「毎度のことながらどれだけ私に迷惑をかければ気が済むのさね。いつになったら、まともに仕事をこなしてくれるのやら……ほんとに同期として恥ずかしい限りさ」

 その名簿が飛んできた方角から聞こえて来た呆れ声。思わず、その方向へと目を向けると鬼がいた。いや、鬼のような形相をしたフレームの細い黒縁の眼鏡と白衣。氷のように冷たい目。その容貌と真逆の艶ボクロが印象的な女性。

 その女性は何やらドス黒いオーラらしきものを放ちながらゆっくりと此方へと向かって来る。そして、落ちていた名簿を拾い、頭を押さえて蹲っていた仁美先生の前に立つとソレの角を今度は脳天めがけ容赦なく振り下ろした。

「前にもいってるけどさ。私はアンタのクラスの副担じゃないさね。なのに、事ある事に面倒ごとを私に押し付けるのは道理が通らないとは思わないかい? こっちにだって都合があるのだし、色々と忙しいからね」

「頭が割れるように痛いよ……朋華。って、もうこんな時間じゃない! しかも、一限目が終わってる。あっ――HRと一限目の古文」

「本当にアンタって奴は反省というものがないのかい」

「本当に色々とご迷惑をかけて申し訳ありませんでした……」

 仁美先生は頭を押さえたまま、朋華と呼ばれた白衣の女性に必死に謝る。その姿にもともとなかった教師の威厳が更に大暴落してしまう。哀れみすら覚えてしまいそうだ。

 白衣の女性はこちらの存在に気付くと面倒臭そうに頭をかき、深いため息を吐いた。そして、懐から外国製の煙草を取り出すと火を点け、紫煙を吐き出した。

「まぁ、あれさ。今回の件に関してはこれぐらいにするとするかね。どうせ、この後にまだ教頭からお叱りを受けるようだしね。こりゃ、また減給なんじゃないのかい?」

 そのあまりに残酷な宣告に仁美先生は絶望からかガタガタと震え始める。

「う、嘘よね? これ以上、給料減らされたら事実上のタダ働きじゃない……。どうやって生活すればいいのよ。校外学習だってどうすれば」

「私は事実を伝えたまでさ。自業自得。身から出た錆というやつさ。あぁ、金を貸すならトイチな? それが嫌なら毎回、私にお前の仕事を押し付けるのをやめるさね」

 その言葉に仁美先生は愕然とする。そして、私の案内という役割を頬りだし、校舎の方へと一人走り出してしまう。きっと、教頭がいるであろう職員室へ向かったのだろう。

 呆気に取られていた私はそれを唖然として見つめる事しかできなかった。

「あの……私、これからどうすればいいのでしょうか?」

 担任であるらしい仁美先生は何処かへ行ってしまった。教室は分からない。

 授業時間に勝手に敷地内に立ち入り、彷徨っていれば通報されかねない。これだけの敷地だ。やみくもに走り回れば確実に迷子になってしまうのは目に見えている。

 これはどうしようもないな。私は頬を引き攣らせながら、立ち尽くした。

 すると、一人歩き出していた白衣の女性は立ち止まり、紫煙を吐き出すと私の方へとゆっくりと振り返る。機嫌の悪そうな顔で――。

「どうして着いてこないのさね。アイツが戻ってくるのは軽く見積もっても一時間後。説教が伸びればまだまだかかるがそれまでそこで待ってるつもりかい?」

 つまり、最短で一時間。それ以上、ここで待たされる可能性があるという事。

 こんな場所に立ち尽くしていれば目立つにも程がある。出来る限り、静かに穏便な生活を送りたい私にとって編入早々の問題は絶対に避けなければならない。

 ただ、追いかけたものの白衣の女性は酷く不機嫌。あまり、事を荒立てたくはないのだがこれだけは言っておかなければならないだろう。

「案内して頂けるのでしたら、初めからそうおっしゃって頂けないでしょうか?」

「なら、逆に聞くさね。私はいつ――しないと言ったかい?」

 確かに白衣の女性の言う通り、彼女は私に対して何も回答はしていない。

 ただ、それはどちらかというと無視という類であり、回答とは言えないのではないかと思うだけに私は頭を抱えてしまう。この学校は風変りな人間ばかりなのだろうか、と。

「いや、そうではないんですけどね。いや、もういいです。ただ、せめて意思疎通ぐらいは試みて下さると嬉しいのですが……」

 流石にそれを自分で判断しろというのは横暴だと思うだけに苦笑いが隠せない。

 ソレに対し、至極面倒と態度に堂々と示しながら顔を顰める白衣の女性。これは言葉が通じない母親のような相手だと理解するとそれ以上は口を噤む。面倒臭いから。

 そして、無言のまま校舎前まで辿りつくと白衣の女性は煙草の火を消し、携帯灰皿へと吸い殻を放り込む。それから、私を睨むと一言こう告げる。

「確かに私とアンタの関係は教師と生徒さね。けど、別段私がアンタの担任という訳じゃない。――つまり、アンタに気をかける義務を私は有していないのさ」

 確かに職務を考えれば、言っていることはあながち間違ってはいない。間違ってはいないのだが、それを生徒に直接言ってのけるこの人の考えには承服しかねるが……。

 ソレに加え、私はその言葉以上の何か別の思惑が見え隠れしているように感じてならなかった。それが何かまでは私には到底判断できないのだが――。

 なぜなら、それよりも早く目的の教室に到着してしまったからだ。

 しかも、授業中の教室の扉を何の戸惑いもなく、開け放つおまけ付き。その行動に私は口を開けて固まってしまう。当然だ。授業中の生徒の視線を一身に受けたのだ。

「アンタの教室はここさね。席はどうやら窓際の後ろから二番目らしい」

 そんな私の内心を無視し、私にその事実だけ告げると「私は仕事をした。後の事は知らん」と言わんばかりにさっさとこの凍り付いた廊下を後にし、どこかへと退散してしまう。

 空気が重い。第一声に何を発すればいいかわからない。どうしろと言うのか。

 一人、取り残された私は授業中の突然の来訪者という事もあり、反応を伺っているのか何も言ってこない。本来、目立つことがあまり好きではないだけにこの空気は私にとって拷問にも等しい行為だった。胃が痛い。

 しかし、このままここに黙って立っていても仕方がない。

 私は覚悟を決めると恥ずかしさで真っ赤になった顔を俯かせ、白衣の女性が指示した席へと足早に向かうと無言のまま着席した。

「あー。じゅ、授業に戻るが続きは――そうだな。橘、答えてみろ」

 流石に不憫に思われてしまったのか、授業担当らしき教師は何事もなかったように授業を再開する。その言葉に私に集まっていた視線は蜘蛛の子を散らすように薄らいでいき、私の新郎はわずかではあるが薄れていくのだった。

 一応、これでこの学園での生活が始まった。その事実に私はほっとない胸を撫で下ろす。

 そして、精神と状況が落ち着いてくると段々、白衣の女性に対する恨み言が浮かんでくる。あの人は私に何か恨み言でもあったのだろうか、と。

 そんな事を考えていると、それが口に出ていたのか隣の席に座っていたほんわかした雰囲気を醸し出す金髪の女生徒が机を寄せながら話しかけてきた。

「大変でしたね。藤鷹先生は悪い先生ではないのですが……。教科書とノート見ますか?」

「あっ、ありがとうございます」

 編入初日という事もあり、私は右も左も全く分からない赤子のような状態で授業を受けることになる。その為、隣の女生徒の申し出は非常にありがたい提案だった。

 そう素直にその事に対してお礼を述べ、すぐにでも席を寄せる程のだ。だが、何故だろう。突然、背筋に凍り付くような悪寒が走る。冷汗が止まらない。

 この視線を私は知っている。殺気や殺意のような荒々しい視線。

 ソレはこの女生徒と話せば話すほどに強まって行く。だが、私にはそんな視線を向けられる身に覚えは全くない。だが、この場で顔に出す訳にもいかない。絶体絶命だ。

「あの、顔色があまり良くないようですが、どうかなさいましたか? もしかして、自己紹介してない事が心配なんですね。私はアメリー=ジュレと言います。隣同士になった事も何かの縁ですし、これからよろしくお願いしますね」

「あぁ、私はリリアン=アルケと申します。初日という事もありますし、何分まだ日本という土地や学校という場所は初めてなので仲良くして下さると助かります」

 表面上は殺気を放つ人間に気付いている事を勘繰られない様に平静を装いつつ、言葉を慎重に選んでいく。ただ、内心ではここに来る理由となったとある一件の事もあり、内心ではあのロシアでの一件が後を引いているのではないかと不安を隠せない。

 これからここで暮らすというのにどこを見回しても不安要素しか存在しない。

 そんな私の思いなど全く知らないアメリ―は眩しい程に優しい微笑みを浮かべながら、楽しそうに私に対して話しかけてくる。その表情と反比例して私の胃は締め付けられるが。

 アメリ―との自己紹介も済むと、その視線に怯えながらもまずは授業に集中しようと教師が説明している黒板の方へと目を向ける。

 初めて学校というものに通うのだが、内容としては問題なさそうだ。課題は教師の使う言葉が時々、理解できない程度であり言語に対する問題なのでこれは仕方ない。

 あまり優等生過ぎるのもかえって目立ってしまう。程ほどに真面目な方が気が楽だ。

 そうこれからの学校生活をどのように送るか決定していると、今度は何故だろう。隣にいるアメリ―の方から何やら興味津々と言いたげな視線を感じる。

 殺気の方は何度か母親から当てられている為、慣れているのだが興味や関心といった視線には慣れていない私は耐えきれなくなってしまう。

「あの、何をしていらっしゃるのでしょうか? 私の髪に何かついています?」

 振り向くとそこには手をわきわきさせながら、私の髪に触ろうとしている視線の主。アメリ―の姿があった。その光景に私が男性だと気付かれたのかと勘ぐってしまう。

 確かにこれはすべて本物だ。男性という事もあり、常に長くしていた訳ではない。ロシアで生活していた際に散髪に行く余裕がなく伸ばしていたからだ。

 何度かモデルにならないかと女性と勘違いされて声をかけられる程度には問題ないと考えていたのだが、やはり女性と男性では髪質が違うのだろうか。

 だが、ここでその手を払い除けてしまえばそれを認める事となる。

 どうするべきなのか。このまま触らせれば確信をもたれてしまうのではないだろうか。

 ソレに私は非常に頭を悩ませるのだが、どうやら考え過ぎだったらしい。

「えっ……いや、あの。その、綺麗な銀髪だなと思いまして、ちょっとだけ。ちょっとだけ触ってみたいなぁーなんて。あ、もしよろしければどのような手入れをされているのか、参考までにお教え願えないでしょうか? とても、気になりますので」

 ばれてしまったアメリーは恥ずかしそうに顔を林檎色に染め上げ俯いてしまう。

 けれども、油断はできない。まだ確信を得れていないだけかもしれないのだ。この状況、私はなんと返すべきなのか。私はその返答を持ち合わせていなかった。

 下手に事実に即した事を告げれば性別を怪しまれかねない。かといって、ばれないような嘘を吐けるほど女性の生活に詳しいわけでもない。

 私は迷い迷った挙句、苦笑いを浮かべながら苦し紛れの返答をする。

「いえ、手入れとかは殆どといっていい程に全く……。それに、いい機会ですし新しい生活に代わるのでショートカットにしてしまおうかと考えていたところでして」

「えっ! こんなに綺麗に伸ばしていらっしゃる髪を切られてしまうんですか!?」

 アメリーに驚かれてしまうが、私には髪に対する思い入れはない。

 はっきり言って、数日前までロシアで普通に生活しており、日本という国の気候は想像以上に蒸し暑く、この髪も邪魔に思えていたところだったりする。

 ただでさえ、面倒な手入れに加え汗で蒸れるとなればいっそ切ってしまいたい。何より、これから生活が変わる。心機一転という意味合いでも――。

 そんな事を考えていたのだが、どうやら不味かったらしい。

 確かに女性にとって命の次に髪が大事という人がいるらしい事は知っていたが、まさかここまで気にされる程に覚悟のいる事だったとは想定の範囲外だ。

 確かに先程の返答は早計過ぎたかもしれない。不自然さを垣間見られても仕方がない。

 まだ、完全に男の感覚が抜けていないのだろう。当然の事なのだが……。

 その事に深いため息を吐くと私は純心なアメリーの眩しい視線から目を逸らしながら先程の質問に対して、こう補足する。

「いや、その――少し切り揃えてショートにしようかなと思いまして! 前に住んでいた地方と違って、四季折々で私には些か暖か過ぎます。ならば、この機会にさっぱりとショートになるまで切るのも手じゃないですか。これから暑さが厳しくなりますしね」

 これでは完全に嘘を吐く子供ようではないか。明らかに苦しすぎる言い訳。

 そんな慌てて訂正を入れる私の様子にアメリーは思わず、クスクスと笑い始める。

「そんなに慌てて訂正しなくてもよろしいですよ? 髪を切る、切らないはやっぱり人それぞれですし色々な事情がありますから。むしろ、変に勘繰ってしまった私にこそ責があるというものです。そう言えば、以前はどちらに住んでおられたのですか?」

 わざわざ、話を逸らしてくれたアメリーに私はついポロリと先日まで暮らしていたロシアの片田舎の名前を上げそうになってしまう。だが、それはミリィとして住んでいた街であり、リリアンという女性が住んでいた街ではない。

 ――――私であって、私ではないのだ。

 その事に寸手の所で気が付くと喉から出かけていたその言葉を必死に飲み込み、私は経歴に記されていたノルウェーの『ヴァードー』という町だと返答するのだった。

「知っています。良い場所ですよね。空気も綺麗で自然豊かな場所ですもの」

 そのアメリーの言葉に私は固まった。

 理由は簡単。なぜなら、リリアンにとってヴァードーなど訪れた事すらない見知らぬ地なのだ。だが、この様子。アメリーは恐らく訪れた事がある。つまり、下手な事を言えばそこから出身地を誤魔化している事がバレるという事だ。不味い。非常に不味い。

「お魚が美味しい土地ですよね。港町が綺麗で――どの辺りの出身ですか?」

 喰い付き、目を輝かせながら詰め寄って来るアメリーに私はどう答えるべきか返答に苦しむ。冷汗が止まらない。当たり障りのない言葉で誤魔化せるのだろうか?

 いくら、期待された所で全く行った事のないノルウェーのヴァードーについて私が語れる筈がない。むしろ、こちらがどのような場所であったのか聞きたいくらいだ。

 こんなことなら、この戸籍を用意する際に出身地に関する情報を置いておけよ。と、この場にいない母親に恨みを抱きながらもこの偽の身分gな無駄にならないように考える。

 そして、必死に考えを巡らせた結果、導き出した言葉は苦し紛れの濁した言葉だった。

「どこにでもあるような港町ですよ。それにしても、日本という土地はいいですね。風土、紡がれた歴史。郷土や文化っていうのでしょうか? 全く違う世界のように思えますから」

「そうでしょうか? 確かに、日本もいい土地ではありますが、ヴァードーも素敵な土地だともいますよ。魚料理も美味しいですし、久し振りにあの地方の話を聞きたいです」

 まるで、外の世界に憧れる箱庭に閉じ込められた少女。そんな印象を与えて来るアメリーの興味津々な目に私は困惑の表情を浮かべるしかなかった。

 こうなったら、仕方ない。料理ならネットで調べれば何とかならない事はない。斯くなる上はヴァードーの郷土料理をご馳走し、微妙な味付けの差は家庭の味。それで納得して貰うのが早いのではないかと手料理をご馳走する約束をしてしまいそうになる。

 手料理を作れる場所など限られる上にソレを確保できるとは限らないからだ。

 だが、その約束と取り付けてしまいそうになった瞬間、先程から背後で殺気を飛ばしていたのだろう私の真後ろの女生徒が私とアメリーの会話に割り込んでくる。

「その辺りにするべきではないでしょうかアメリーお嬢様。現時刻はまだ授業中という事もありますし、お相手の方も随分とお困りの御様子」

 私はその助け舟とも取れる言葉に思わず振り向いたのだが、顔が固まってしまう。何故なら、そこにいたのは綺麗な声色に隠れてヒシヒシと目に見えて伝わって来る『お嬢様に近付くな』という敵意を放つ女生徒。怖い。怖すぎる。

 しかも、表情は完璧な笑顔なのだが、眼鏡の下に隠された視線は激しく私を威嚇しているのだ。その上、一目見た瞬間にその女子生徒の背服が明らかに他の生徒の制服に比べて違和感がある事に気が付く。どう見ても、学生服ではなくメイド服だ。

 この教室で他にメイド服を着ていた人間はいない。学生服がある以上、私服が許されるとも思えない。まさに、

 明らかに私の着用している改造制服に近い改造だった。

「クローデット、せっかく仲良くなるいい機会なのよ? 別にそれ位ならいいと思ったのだけど……。ねぇ、リリーさん?」

 アメリーにいきなり、あだ名で呼ばれたことで私は思考の海から現実へと引き上げられる。しかし、全くと言って話を聞いていなかった私は上目遣いで訴えてくるアメリーに理解していないにも関わらず、頷いてしまいそうになってしまう。

 ただ、この状況から考えると明らかにクローデットと呼ばれた女子生徒の怒りを買い、さらに殺気が増してしまうという結果は容易に想像できる。

 私は寸手で思い留まるとここは断るべきだと判断し、相手に失礼がないように慎重に言葉を選びながら、話題を変えようと試みる。

 けれども、クローデットと呼ばれた女子生徒が私にだけ聞こえる声で「お嬢様を悲しませたらどうなるかお分かりですよね…………?」と、脅してくる。

 誤魔化してもダメ。肯定してもダメ。どちらを選んでも待ち受けるのは地獄。

 いくら回答できる答えを探してもここでの正解が全く浮かんでこない。その状況に私は思わず頭を抱えてしまう。

 結局、私にできたのは苦し紛れに辿り着いた問題の先送り。時間稼ぎだった。

「あの……今は授業中ですし、このお話は昼食時の雑談ということにでも……」

「それもそうですね。ところで、何かわからない箇所とかありませんか? 今日が初めての授業ですし、なんでも聞いて下さいね」

 一先ず、クローデットの殺気が落ち着いた事に私は胸を撫で下ろす。

 しかし、アメリーのお節介は止まらない。今度は私が先程からノートを開いているだけで文字を何一つとして書こうとしていない事に移行したのだ。

 どうして、そこまで他人に干渉するのか私には理解できなかった。

 この程度なら狙撃を正確に行うために弾道力学などの物理学の知識を母親に叩き込まれている為、問題ないからだ。そんな心配など杞憂でしかない。

 だからこそ、理解できなかった。この程度の授業に分からないことがある事が――。

「えっ? 別にこの程度なら大丈夫ですよ? 何の問題もありません」

 私はアメリーに軽くそう言ってのけるのだが、彼女はなぜか驚愕の表情を浮かべる。

 その様子にようやく合点がいった。そもそも、あの母親が極普通な教育を受けている筈がないのだ。このアメリーの反応を見る限り、あの母親から叩き込まれた技術や知識の数々が異常であり、表だって使うのは不味いという事を痛感した。

 恐らく不味いのは薬物の扱い、毒物の判別、銃器の扱いと数々の銃弾の特性、ナイフを用いた護身術、総合格闘術辺りだろう。よく考えれば普通に生活していて必要がない物だ。

 そのことに全く気付くことが出来なかった自分の常識のなさと愚かしさに私は小さなため息を吐いた。常識人だと思っていた私の常識は世間の常識と絶望的なまでに違っていたのだ。カルチャーショックを受けない筈もない。泣きたくなってしまうほどだ。

 そんな現実に打ちひしがれているとチャイムが鳴り響く。

 だが、その荘厳な授業終了を告げる鐘の音も今の私には届くことはなかった。


 ◇


 休憩時間になると私はクラスメイトに囲まれてしまう。物珍しい編入生であるリリアンへの好奇心なのだろう。アメリーもそうだが、この空気に慣れそうもない。

 囲まれてしまっており、逃げ場もない。何より、逃げればまたややこしい事になりそうなだけに私は仕方がないと諦め、質問攻めを難なくこなす事にする。

 そして、四時限目の授業を終えると私はチャイムが鳴ると同時にアメリーとクローデットから逃げる為に教室から全速力で逃げ出した。

 時間はランチタイム。廊下は当然、食堂へと向かう人混みに溢れかえっていた。私はその人混みの流れに沿って学食へと辿り着くと、初めて見た学食の規模に唖然としてしまう。

 理由は簡単だ。座席数はこれだけの学校という事もあり、ある程度は想定していたのだがその学食のメニューの豊富さだ。留学生も多いという事もあり、海外の郷土料理まで取り揃えている。どうやら、私のような日本に来てまだ日の浅い留学生も足を運びやすいようにという思いもあってなのだろう。

 しかし、これだけ種類が豊富だと悩んでしまう。確かにノルウェー料理を食べるのが自然の流れなのだろうがシカやトナカイ、クジラは口に合うかわからない。

 私は悩み抜いた末に慣れ親しんでいるロシア料理を注文する。

 出てきたのは普通のボルシチ。想像していた通りの料理にホッと安心すると辺りを伺い、空いている席を探し始める。どうやら、私が辿り着いたのは混み合う前だったらしく、学食の人混みは更に倍増し、見渡す限り空席は見当たらない。

 そんな人の溢れかえる学食を私は彷徨っていると何故か一か所だけ誰一人として座ろうとしない席を発見する。誰もいないのだ。私は何の迷いもなくその席に座った。

 状況からして当然の行為。その筈なのだが、周りからの視線が明らかにおかしい。「あの子、何考えているのかしら……」「えっ、嘘でしょ。信じられない」と言った不気味な事までささやかれ始める。

 ただ、一体どうしてそのような事を言われているのか理解できない私は首を傾げながらも食事を続けるだけだ。さっさとこの場を立ち去る為に。

「ここ、いいかな?」

「別に構いませんよ。私が一人でこの机を占領している訳ではありませんから――」

 突然、かけられた言葉に私はごく当たり前の返答をした。その筈なのだが、辺りの空気はなぜか瞬時に凍り付かせてしまっていた。

 どう考えても原因は私にあるのだろう。だが、思い当たる節がない。しいて言うなら、先程の返答なのだろうが別段おかしなものでも無かった。

 あまりの辺りの様子に食事をする空気でもない事を感じると、顔を起こして相手を確認する。向かいにいたのは三年。そこでようやく自分が何をやったのかを理解した。

「もしかして、ここは三年が使う席でしたか? なら、すぐにでも移動しますが」

「いや、別に構わない。三年が占有する席という訳でもないからな」

 なら、何が理由でこんな空気になってしまっているのだろうか。私には判断が着かない。

 目の前に座っている上級生がカギを握っているのだろうが何も見えてこない。

 闇夜に溶け込みそうな程に黒い髪は不揃いに切り揃えられている。ナイフのような刃物で切り揃えられている事を考えれば、少しばかり怖い印象を与えても良い方が無いだろう。

 それ加え、先程のクローデットのように改造制服を着ている訳ではない。

 確かに話し方はどこか男らしさと堅さがあるものの、私には礼儀正しく好印象を受けた。

「そう警戒しないで貰えないか? リリアン=アルケ君――いや、ミリィ=スミルノーフ君と言った方が分かって貰えるかな?」

「何のことを言っているのか分かりませんが、人違いじゃありませんか」

 目の前の三年は私の偽名と本名を言い当てる。その行為に警戒しない筈がない。

 何者か。ただの学生にそこまでの情報を抜かれてしまったのだろうか? 分からない。分からないが、この状況をどうにかしなければ私の身が危うい事だけははっきりと分かる。

「こういう場だ。女性として暮らすのは何かと不便だろう? もしもの為に君の正体を知っている協力者も必要なはずだ。俺はその一人だよ。君の味方だ」

 確かに目の前の上級生の言葉には納得できる。わざわざこの学校をあの母親が選んだのも何かとそういう面で都合が良かったからなのだろう。だが、味方という保証はない。

 そんな私の警戒心を他所に目の前の先輩は会話を続ける。

「それにしても久し振りだ。誰かと一緒に食事をとるのは――妹分以外では久し振りか? まぁ、あいつは身内みたいなものと考えたならそれを除けば――数年振りだな」

「随分と寂しいのですね」

「いや、俺が怖がられているだけだ。一応、生徒会副会長として色々と自他共に厳しく当たっているからな。会長がその辺り、甘いだけにきっちり締める所は締めるという意味でも――。おかげで、いつの間にか周りに人が寄って来なくなってしまったという訳だ」

 嫌味を言ったつもりなのだが、簡単に受け流されてしまう。

 ただ、先輩の気持ちは痛いほど私にも理解できた。私も人に誤解されてしまう事が多々あったからだ。そして、その誤解を解くのは酷く難しいことも知っている。

「それに、仕事柄な。誰かを守ると同時に誰かを傷付けてしまう事がある。それだけに、箱入り娘共から見れば俺も同じ穴の貉なんだよ。ガードも彼女たちを狙う輩も」

 ガード――暗殺者から依頼人を命がけで護衛する崇高な職業。

 記憶が正しければその実力によって八段階に階級が分けられており、上位になればなるほどその仕事の難易度と重要度が階乗レベルで跳ね上がっていくという話だ。

 同時にガードは機密事項に触れることも多く、その情報を他人に明かさないという誓約を立てている。それを破れば、即座に犯罪者の仲間入りだ。

 つまり、彼女の言葉が真実ならば私の情報を知っていることも理解はできる。

 だが、あの母親の知り合いとなればこんな学生ではない筈だ。もっと、こう怪物染みた覇気を持った超人が出てきてもおかしくはない。

 最高位の国際間の問題にまで絡んでくる有名どころが出てきても驚かないだけに目の前の年齢がほとんど変わらない先輩の言葉を鵜呑みには出来なかった。

 ただ、最上位ランクまで上り詰める化け物は極僅かな上に名前、容姿すらも非公開の隠蔽ぶりを考えれば先輩もそうではないと言い切れない。

 噂では両手。いや、片手でも余るといわれる狭き門に先輩もいるのか。

「信用ならないか。なら、これでどうかな? もしも、君をどうにかするのならその事実を吹聴すればいいだけの話だ。そうすれば、その袖に仕込んであるナイフも言い逃れが出来ないだろう? それでは理由にならないかな」

 先輩の言葉は理に適っている。身体調査されれば袖のナイフは言い逃れが出来ない。

 一介の学生がナイフを持ち歩くなど許される筈がないからだ。

「ここに編入する前に色々とありましたから……護身用です。銃器では何かと持ち歩きが不便ですし、処分も難しいですから……」

「どうやら、納得はしてもらえたみたいだな。まぁ、事情も全てあの人から聞き及んでいるから安心してくれ。まぁ、その様子では無暗矢鱈に藪を突きそうにはないがな」

「あの人……ですか?」

 候補は限られる。ここに私を編入させたのは母親だ。

 その母親の友人がこの学校のどこかにいるのは確定だろう。その友人から話を聞かされているとなれば筋が通らなくもない。だが、誰なんだ? その友人は。

 ここまで姿を現す気配はない。ここで先輩を通して話をするのは直接は顔を合わせたくないという姿勢の表れなのではないだろうか。

 そんな私の考えを読んだのか、深いため息を吐くとこう返答する。

「今は表だって接触は避けたいんだよ。良くない物が紛れ込んでいるからな。もしも、接触が必要な事態に陥れば自ずと向こうから現れるだろ。此方からの干渉を極端に嫌う人でもあるし……まぁ、腕だけは無駄にあるから安心しろ」

「はぁ……。ところで、良くない物ってなんですか?」

「藪を突けば蛇が出るだけとは限らんぞ。と言っても、君には知らせておいた方が良いか」

 食事をしていた箸を箸置きに戻すと真剣なまなざしで先輩は私を見つめる。

 その表情に背筋に悪寒が走る。目の前の先輩の実力をはっきりと感じ取ったからだ。

 そして、これから彼女の口から語られるであろう事に関しても――。

「私もまだ確信をもっていないのだが、嫌な気配を感じる。あくまでも、第六感なだけに証拠はない。だが、こんな世界だ。警戒しておいて損はない。この学園には殺される理由がない人間は実に少ないからな。――――それが身勝手な理由でもだ」

 てっきり、この場所が比較的安全な場所だから送り込まれたと思っていただけにその言葉は予想外だった。本当に何を考えてこんな場所に私を送り込んだのだろうか。

 本当にこんな異世界ともいえる女の園でやっていけるのか不安を抱いてしまう。

「今の私に言えるのはそれだけだ。では、良い学園生活を」

 いつの間に食べ終えたのか先輩はソレだけ告げると席を立ってしまう。

 時間を確認するとランチタイムも残りわずか。急がなければ次の授業に遅刻してしまう。

 私は大急ぎで目の前の食事を胃に流し込むと大急ぎで教室へと戻るのだった。


 その後、何事もなく授業を終え放課後。

 空は茜色に染まり、部活や寮へと帰宅する少女たちによって校庭は賑わいを見せ始める。

 それは私がいる中庭も例外ではない。そんな空気の中で私は一人、朝と同じように仁美先生が待ち合わせである中庭へと訪れるのをじっと待つ。

 ランチタイムの後、申し訳なさそうに私の前へ現れた仁美先生はこの学園の敷地内にある寮へと案内してくれるという話だったのだが、いくら待っても朝と同じように現れる気配がない。まさか、忘れられているのでは。そう勘ぐりたくもなってくる。

 朝同様、待ち合わせ時間は過ぎている。私もいい加減、痺れを切らせてきた。

 ここで待っても無駄。そう判断し、仁美先生との待ち合わせ場所を離れ、地図と生徒の流れを頼りに一人で寮へ向かおうとする。

 ただ、最後に念には念を入れて私は校舎へと目を移した。仁美先生を確認する為。

 すると、こちらへ全力疾走する仁美先生の姿が……。私はその光景に朝のやり取りから、実は何一つとして学んでいないことを知ると大きくため息を吐いた。

「教師として待ち合わせの時間にこう何度も遅刻とはいかがなものなのですかね……。朝も同じミスをしておられましたが、これがいつもの事なのですか?」

 最初は私もここまで言うつもりはなかった。そう、軽く流すつもりだった。

 だが、頬にはどう考えても腕時計のベルトらしき跡。頭には整えきれなかったのであろう寝癖。今まで寝ていたのがあからさま過ぎる。隠そうとする気配もない。

 流石の私もあまりの仁美先生の姿に苛立ちを通り越して呆れ果ててしまっていた。

 そんな私の態度に何の言い訳もできない仁美先生はおもむろに目を逸らすとようやく気付いた時計のベルトの跡を右手で隠し、左手で寝癖を押さえつける。必死に。

「ち、違うのよ! 別に寝ていた訳じゃないの。そ、その、少しだけうとうとしちゃってただけでね。眠ってて約束の時間に遅刻したわけじゃないのよ!」

「それを人は寝ていたというのではないでしょうか? 朝の一件もそうですが、教師としてどうかと思いますよ。本当に一時間も待たされる人の身にもなって下さい。こういう待合せには予定より先に到着するのがマナーとして当然でしょう」

「うっ、はい……。全ては私の至らぬ点によるものです。本当に申し訳ありませんでした」

 私は朝の件を思い出してしまい、色々と言いたい事があったのだが今にも泣きだしそうになっている仁美先生の様子にこれ以上の追求は大人げない。そう判断すると、今回の事はここまでとし、次へと頭を切り替えようとする。

 だが、そんな優しい気遣いすら目の前の仁美先生の天然は無下にするのだった。

「でもね。教頭からは小言だけですんで減給は避けられたのよ」

 その一言で私の中の防波堤が決壊する。どうやら、容赦は必要なさそうだ。

「そうですか。私は置いて行かれるわ。授業中の教室に何も言わずに放り込まれるわ……。散々な目に会わされましたけど、随分な編入生への挨拶なのですね」

 私のあまりに凍り付いた笑みにようやく仁美先生は状況を理解する。本来ならば、自身が行わなければならなかったことだ。それだけに責任という重圧が圧し掛かってくる。

 だからだろう。仁美先生は冷汗をかきながら、言い訳をし始めた。

「で、でも……朋華はちゃんと案内したって言ってたんだけど……」

「はい、案内は確かにしてくれましたよ。先程も申しましたが、教室までですけどね。酷い物でしたよ。教室内の空気も私もどう対応すればいいのか分からず戸惑いましたから」

 元々、これは仁美先生の仕事。それを頼んだ相手は投げやりにこなしていた。その事実に顔面は蒼白。出来る事はただひたすらに頭を私に対し、下げ続けるだけだった。

「そう、ですよね。……よく考えたら朋華の性格だと、ね。……本当にごめんなさい」

 謝罪している。謝罪している筈なのだが、そのあまりにも手慣れた様子で頭を下げる仁美先生にいつもこんな感じなのだろうと、苦笑いを浮かべてしまう。

 だが、時間も時間。いつまでもここでこうして謝らせるわけにもいかない。

 周りの視線も痛い。私は疲れたように肩を落とすと話題を変える。

「もういいですから、早く寮の方へ向かいましょう。ところで、仁美先生の担当教科は一体、どの教科なのでしょうか? 英語が話せないとなると限られると思うのですが?」

 通常の授業において質問などを受ける可能性がある以上、英語が必須。

 そうでなければ、意思疎通が出来ないからだ。ボディランゲージで行える授業など体育くらいだが、その姿は私の頭には浮かばない。

 だからこそ、私にはどうしてもそれが疑問に思えてしまい、ふと尋ねたのだった。

「国語や日本史かな? 古文や漢文とかスラスラ読めるんだけど、英語が全くできなくてさ。こう見えても、日本史と古文、漢文に関しては結構教えるの上手いって評判なのよ。ただ、まだ日本に来たばかりの留学生からは凄く遠慮されてるんだけどね……」

 乾いた笑みを浮かべる仁美先生。

 やはり、遠慮されているのかと思うのだが、生徒から評判がいいというのは少しばかり以外だった。ただ、これ以上は踏み込まない方が面倒ではない。

 考えに考え抜いた末に私はこれから向かう。今後、卒業まで生活する事になるであろう寮についての話題を振った。なにせ、パンフレットの中には詳しく乗ってなかったのだ。

「そういえば、私の住むことになる寮はどのような場所なのですか? パンフレットにもいくつかの寮の名前が載っていましたけど、詳しい資料はなかったので」

 思い返してみれば、私の入寮する予定の寮名は学内の地図には載っていた。だが、他の寮は写真が記載されていたのを覚えている。だが、肝心の私の入寮する寮はなかった。

 仁美先生はその私の言葉に首を傾げると学校側から渡されていたであろう資料に目を通すと、どこか納得したように深く頷き私と資料を見比べ始める。

「えーっとね。とても良い所である事は認めるよ。寮長さんは面白い方だし、寮生も独特な雰囲気の子が多いからきっとすぐに打ち解けられると思うわよ」

 怪しい。明らかにその言動は怪しすぎる。

 しかも、独特な雰囲気とは言い方を変えれば問題児をそこへ押し込めているとも受け取れる。何より、その態度が必死に何かを誤魔化そうとしているようにしか感じられない。

「随分と変わった寮なのですね。普通の寮ではダメだったのでしょうか」

「え、えっとね。そんな深い意味はないのよ。ただ、卯月寮は鬼門に建ってるから縁起が悪いって理由であまり人が住んでいないだけだから」

「それは寮の名前の由来であって、答えにはなってませんよね」

 その一言に降参したように両手を上げると仁美先生は私から目を逸らした。

「アメリーさん辺りならこれで誤魔化せるんだけどなぁ。曰く付きっていうのは事実だよ。あの寮はちょっと色々と諸事情があって建て替えすらできていない古い寮なのよ。入寮者も両手で余る上に色々と理由持ちが多くてね。まぁ、急な編入申請で用意できる部屋がなかっただけだと思うから、部屋が空き次第移動になるんじゃないかな」

 ――理由持ち。その言葉に私は頭が痛くなる。

 建て替えられない古い寮な上に訳アリばかりなのだ。つまり、学校側に私もそのように見られている可能性が高い。どのような人間が出てくるか分からないが、明らかに普通の寮ではないことだけははっきりと理解できてしまう。

 恐らく、仁美先生もそのことを知っているからこそ言葉を濁したのだろう。

 そうして、歩き始めて十分ほど。林を抜けた先に卯月寮が姿を現す。

 だが、その目の前に現れた寮の姿に私は愕然としてしまった。当然だ。確かに古ぼけた洋館と言えば、聞こえはいい。だが、実態はただの幽霊屋敷。廃墟だ。

 昔に殺人事件が発生し、その後打ち捨てられた挙句、今もその時の被害者の幽霊が彷徨っていると言われたのならば信じ込んでしまうレベルだ。

 明らかに好き好んでこんな場所に住みたいとは思えない。お金を貰ってもだ。

「すいません。ここに三年も住まなければならないのですか? ……そもそも、人が住めるんですか? 明らかに学校の雰囲気と違いますけど」

 ロシアほどの寒さもない。凍死する危険性もない。一夜、雨風をしのぐ程度であれば耐えられるが、三年の帰還を過ごすのであれば話は別だ。

 よくごく少数の生徒がこんな廃墟のような寮で長時間過ごしているものだ。

「大丈夫よ。外からの見た目はアレなところがあるけど、内装は綺麗なはずだから」

「見た目はアレってレベルではないでしょう。外壁がつるで覆われて全く見えなくなってる。その上、窓は段ボールで塞がれてるわ、不気味な物音が聞こえて来るわ……。こんな場所に人が住めますか? 気が滅入りそうです」

 仁美先生のフォローも私の耳には届かない。

 見える窓を覆う段ボールが内装を物語っているというものだ。

 これでは防音性も、防犯性も信頼できない。私は確かに現状は見た目は女。だが、中身は完全な男だ。だからこそ、常に気を張らずに済む場所が欲しいと思うのだが、寮はその場にはなりそうにない。精神が参ってしまいそうだ。

「で、でもね。四寮の中では一番有所ある歴史的な建物よ。確かに他の寮は完全なマンションタイプだったりするけれど、住めば都の筈よ」

 疲れ切った私に対し、仁美先生は必死の説得を試みるのだが、その言葉はすべて右の耳から左の耳へと抜けていく。全く届くことはない。

「なら、先生もここにすまわれますか?」

 私の言葉に仁美先生はおもむろに視線を逸らした。それどころか、どこからか取り出した貯金通帳を眺めながら涙を流し始める。

「それは……本当に勘弁して下さい……。まだ、マンションのローンが残っているんです。車のローンもなんです。本当に無理です。私は絶対に出来ません」

 嫌がらせで言った言葉に対する仁美先生の大げさな反応に私は思わず困った顔をしてしまう。ただ、仁美先生の態度を見る限り、他に住める場所もないのは確かなのだろう。

 ここに住む。そのことに関してはもう諦めるしかない。そう、諦めるしか――。

 しかし、この寮から何か嫌な予感を感じ取ってしまう。

 うまく言葉には出来ないのだが、頭の中で何かが酷く警鐘を鳴らしているのだ。この寮には近付くな。危険すぎると……。

 そんな不安を抱きながらも、ここまで来た以上は寮内へいかない訳にはいかない。

 私は怪しまれない程度に警戒しながらも、ゆっくりと寮の玄関を潜った。

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