シャトヤンシーチェイサー~公立探偵D&G~

鱗青

第1話 名探偵ができるまで

 “この世で最も美しい詩は、最も完璧な哲学の文言となるだろう。

  最も完璧な探偵に必要なものが、真なる人間性であるように。”

                            ダイオナイザ=ダンテス『探偵秘録』より




 雑踏、青空、港町。

 桟橋の上にズッシリと音を立ててスーツケースが落ちる。

 紅いチョッキと肩吊りの半ズボン、まだ脂の乾ききっていないおろしたての革靴。初々しさに溢れたいでたちの少年が、はね散る波しぶきを物珍しそうに身体に受けながら、本土から到着したばかりの高速フェリーのタラップを降りてくる。

 少年はチーター人だった。タンポポの綿毛にも似た毛皮に、黒いソラマメを散らしたような斑がある。いかにもワクワクと髭をピンピンさせながら、港と町の様子を確かめている。

 そろそろ一人称でもいいかな。本土からやってきた少年、つまり僕、チーター人の11才、ガナッシュ=コントラバーユは、手元に出した地図をなんども周囲の景色と見比べていた。

「ここがシラクサかあ」

 本土…ペロポネシア半島全域を占めるミノコス共和国の首都から高速船で2時間半。大内海に浮かぶ島。

 ペンタニコス県シラクサ島。ミノコス共和国の玄関口であり、貿易のかなめであり、『ペロポネシアの台所』とも呼ばれ、交易による富を呑みこんでは吐き出す流通都市。

 懐中時計を出すと、まだ午前11時だった。本土からの連絡船がちょうど良く追い風を捕まえたから、到着はお昼ぐらいになるという僕の当初の計算より早く着いてしまったのだ。

 埠頭は島の南東に突き出したパラソル形をしている。僕が乗ってきた船の他にも、貨物船や輸送船、税関と検疫所の順番を待っている大型船舶が埠頭をぐるりと囲み、行き交う人波の勢いたるや、さながら首都の往来のよう。

 僕はもう一度、手元にしっかと握った地図と封筒に目を落とした。

 地図によれば、埠頭が伸びる先がそのままシラクサの中心地、行政府シラクサ市だ。その街並みは猫の額のような平地からシラクサ唯一の山の肌にそのまま広がり、島の全域をすっぽり覆っている。あらかじめ調べたデータによれば、島の人口は75万人弱で、ペンタニコス県の全人口のうち約60%に当たる。

 港から陸地に向けて幾本もの運河が口を開け、無数の小舟を迎え入れたり送り出したりしている。運河は更に陸地の内奥へと毛細血管のように縦横に張り巡らされる。そのため地図の上には重要な施設があることで機能を分けられた区と、より細かい町の名前が解剖学の教書の細胞のように記載されていた。

 耳を澄ませると、遠く中心地の雑踏が心地よい音楽となり、そよ風に乗ってくる。

 まるで島全体が生き物のようだ……それもとびきり陽気な、唄い踊っている南国の巨人。

「おとと、ボンヤリしてたらだめだな」

 僕は封筒を地図の上に持ちかえた。

 薄いピンクの封筒には、環の中に芽を出した月桂樹のスタンプが押されている。

 栄光を意味する月桂樹の葉の上にアーチを描いて『知性、勇気、友愛』の憲章が、そしてその根元には『国際探偵協会』の文字。

 これはミノコス共和国の探偵協会本部から送られてきた辞令書ーーーーー僕、つまり今年幼年訓練校を卒業し、正式な協会員となった探偵・コントラバーユのシラクサへの赴任命令なのだ。

 この胸は卒業試験に合格したときのまま、まだドキドキしている。たった一人の僕の家族、お母さんに別れを告げ、今日、僕は一人立ちしたのだから。

 まずは自分の赴任先、これから五年の期間を助手として勤めなければならない事務所の所在地を確認する。

 街の奥の方…だから、島の中心寄りということになる。近くに水上バスの停留所があるので、先方にはお昼過ぎに顔を見せると約束したけれど、かなり余裕を持って行くことができそうだ。

 埠頭から出ている水上バスの時刻表を探そうと案内板の所へトランクを転がしていくと、その隣に店を構えたアイスクリームの手引き屋台が目に入った。

「ハイよハイよハイよ美味いよ美味いよジェラート・コーンにアイスキャンディー!マンゴー・ココナツ・イチゴにザクロ!産地直送・秘伝の味だぁ!どうぞ皆さんご賞味あれ!」

 威勢の良さを形にしたらこんな感じ、という狸人がトルコ風の手ひねりアイスを入れた冷却用の大きな鍋にスクープを突っ込み、「びよよ〜ん」と口で効果音を出して、色鮮やかなガムのようにアイスを引き伸ばしてみせる。

 そうか、北の大陸からも海の南の彼方からも産物が集まってくるんだなぁ。活気があるわけだ。

 ………と実感していると、はからずも湧いてきた唾でノドが鳴る。ああ、なんて甘そうな果実のジェラートだろう!

 気が付いたら僕は屋台の前にいて、「ザクロとキウイのジェラートをダブルで」と注文していた。

「おっ坊主、一人旅かい?偉いねえ」

 店主は先に並んでいた客にジェラートを盛り付け、飾りのアラザンを散らしながら尋ねてきた。

「僕、この街に住むことになるんです」

 へえぇそいつぁいいや、このシラクサは良いとこだからよぉ、と狸人は両手を別々に動かして離れている2つのジェラートの鍋の蓋を開ける。

「あの、もしご存じでしたら教えてくれませんか?この『第9運河ドゥオーモ前』って停留所に行く水上バスは、どこから…」

 僕の質問は突然沸いたざわめきにかき消された。

 けたたましい警笛とともに、身体の大きな、ちょっと汚い恰好の獅子人が一人駆けてきた。そのすぐ後から獅子人より一回りたくましいバッファロー系の牛人を先頭にした、青い制服の警官の一団が警棒を高く振り回しながらついてくる。

 いや、獅子人はコートの裾をバタバタ蹴立てながら怯えて後ろを振り向く様子だ。ということは、追われているんだな。

退くのだ退くのだ退くのだぁ!」

「坊主、危なか!」

「え?」

 初めて来た場所に気が緩んでいた僕は、その獅子人の走る速度にすぐには反応できなかった。

 あっという間に視界に広がる獅子人の筋肉だらけの肉体。僕は空中高く撥ね飛ばされた。空の青と、大地の白レンガ。天地がくるくる回転する。

 とっさに僕は考えた。このまま頭から墜落なんて、探偵のすることじゃない!

 バランスを取って猫のようにしなやかに着地するつもりの僕を、誰かが首根っこを掴んでぶら下げる。

「すまないのだ!大丈夫か!」

 僕をキャッチしてくれたのは、暴走馬車よろしく撥ねた張本人の獅子人だった。

「ええ、はぁ…ほっぺたを、すりむいたくらいです」

 意外と親切な追われ人は僕を降ろしてくれた。その隙を突き、警官隊がグルッと広がって円陣を組む。

「もう逃げられんぞぅ、さぁ大人しゅうお縄ばちょうだいせんね」

 牛人はそう凄むと、ノーズリングをつけた鼻翼の脇から生えたちょび髭を鼻息でゆらしつつ、警官の中で一人だけ房飾りタッセルのついた警棒を掌にぺしぺし当てながら前に出る。

「…すまない少年、ちょっと付き合ってもらうのだぞ」

 いやです!と言う暇はなかった。男は僕を左手で軽々抱え上げ、右手を喉にかけると鉤爪を開く。

 牛人の警官の顔色がタール色からさっとチョコレートブラウンに変わった。分かりにくい変化だけど。

「なッ、貴様、何ばしよっとか!」

「それ以上近づくなよ。私が船に乗るまで大人しく退がっているのだ。さもないと、この少年がどうにかなってしまう可能性があるような気がする、と言うのもやぶさかではない」

 なんとはなしに迫力に欠ける脅迫だなあ。精一杯悪者ぶった表情を作っているけど、呼吸が乱れてるし変な汗もかいてるぞ。

 それに対し、何、ふざけやがって!といきり立つ警官隊。彼らの指揮を執っているらしき牛人は、部下を警棒の一振りで黙らせる。

「貴様…落ちるとこまで落ちよったなぁ」

 コワモテの隊長の口の端からヨダレが細く垂れる。こっちのほうがよっぽど凶悪な面構えだ。

 僕は確認してみることにした。

「あなた、追われてるんですか?」

「ちょっとならない事情で已む無く、なのだがね。安心したまえ、君に危害は加えないのだ。保証しよう」

 僕は額をポリポリ掻いた。「人質、ってわけなんですよね、ようするに」右の親指を左手の中でしごく。

「さあ道を開けるのだ!」

 獅子人は吠え、鬼気迫る威嚇に警官隊の包囲が動揺する。その時だ。

「ミノコス共和国憲法第百六十七条の1!」

 僕は研ぎ澄ました親指で獅子人の鎖骨の下、肉の薄い部分を突いた。「がっ」と獅子人はうめき、僕を落とす。

 僕はさらに、痛みに胸を押さえ前屈みになった獅子人の胸ぐらをグッとつかみ、体重をさらに下方へ導き、相手の全重量を腰に乗せてから「やぁっ!」と両足を揃えて地面に踏ん張った。

 見事な切れ味の左の背負い投げ。巨漢が宙に舞う。

 ずずうううううん!!

 地響きとともに大地に倒れた相手を見下ろし、僕は乱れた襟を直す。

「『人質の安全のためならば、いかなる暴力もその使用を阻まれない』……さ、お巡りさん達、どうぞ」

 は、と気付いた牛人が「確保ぉ!」と号令をかける。わらわらと何十人もの警官が獅子人の巨体に群がり寄って、たちまち鼠人の山ができた。

 僕もほっと息をつく。チョッキの埃を払って、屋台の方へ戻る。

「やあ、惚れ惚れしちまうほど強いねぇ、あんた」いつのまにか『坊主』と呼ばなくなった狸人は、店の前に戻ってきた僕に、アイスを乗せたコーンを差し出してくれた。「ほら、お代はいらねぇよ」

「いえ、そんなわけにはいきません。払わせてください」

 僕は慌てて手を振り、財布を出す。

「いやいや、とっときなって」

「困ります。『探偵は依頼以外でみだりに歓待を受けてはならない』んです。規則ルールですから」

 一瞬、狸人の笑顔が固まった。

「探…偵…?」

 僕は代金を台の上に置き、コーンを受け取る。なぜかフリーズしている狸人に「そうそう、もう一つ」と訊いてみた。

「あの、僕この街の探偵事務所に協会から派遣されてきたんです。ご存知だったら教えてほしいんですけど、この場所に行くにはどうしたら早いですか?やっぱりバスですかね?」

「ちちち、ちょーい待ち。あんたが言ってる探偵ってまさかよぉ…」

「あ、分かりますか!良かったぁ」

 こんなやりとりをする僕らの後ろで、暴れている獅子人を取り押さえて連行しようと、警官達がやっきになっていた。

「おらおらキリキリ歩かんね。ったく大人しゅう借金を払えばええもんを、トンズラばかまそうとしよってからに、こんゴンタクレが」

 牛人は獅子人のおつむを警棒でコンコン打って小馬鹿にしている。

「やっやめるのだ!こら、私を誰だと思っている!」

 僕は爽やかに狸人に言った。それと同時に、獅子人があらんかぎりの声を上げた。

「シラクサ担当の探偵、ダイオナイザ=ダンテスの事務所に行きたいんです」

「シラクサ担当の探偵、ダイオナイザ=ダンテスなのだぞこの私は!」

 え?

 僕は振り向く。警官隊にしょっぴかれ、首と両手に厳重に縄を打たれた獅子人も僕を見た。

「…探偵協会登録No・6606、ダイオナイザ=ダンテス…?」

「…協会から派遣された新人…ガナッシュ=コントラバーユ…?」

 ポタリとジェラートの滴が僕の靴に垂れる。

 僕の上司、五年という修行年限を捧げる事務所のぬしは、見たこともない無邪気に情けない笑顔を作った。




「……下記の者を国際探偵協会員として認ず、キルストン・リュッケ…ふんむ、まごうかたなき内務省大臣の捺印だね」バウムクーヘンを割って接着したような丸くて太い眉を上げ、黒の隈取りの顔に驚きを浮かべつつ、獅子人の巨漢…ダイオナイザ=ダンテスは「それにしても若いのだ。わたしはもっと年上の子が来るものと思っていたよ」と探偵手帳を僕に返した。

 こっちだって、まさか着いた早々、自分の上司の保釈金を払う羽目になるとは思ってもいませんでしたよ…と喉まで出かかったけれど、なんとか飲み下す。

「僕は7才から特別訓練コースに入りましたから」手帳を大事にチョッキの内ポケットに納め、服の上からなぞる。「史上二番目の年少探偵というわけなんです」

「あれ、一番目は誰だったのだっけ」

「現協会長ですよ。それより何なんですかこの部屋は!」

 探偵協会のシラクサ事務所はまるで、怪獣に踏み壊された廃屋の中身をそっくり詰め込んだような具合になっていた。

 部屋の四隅を埋め尽くす段ボール。その間に渡された梁の代わりのポールには、洗濯物もコートも帽子もいっしょくたにハンガーにかけられている。

 床には電話帳やファイルが僕の腰あたりまで積まれ、その上に重石おもしのつもりか電話機が置いてある。そればかりではなく、ありとあらゆるガラクタが、ありとあらゆる塵芥にまみれたまま放置されていた。

「これじゃあ依頼人が来ても通せないでしょうが!」

「あ、来ないのだし、依頼人」

「は?」

 回転椅子で大きな身体をくるくる回し、先生は肩をすくめた。

「ここしばらく依頼の電話が一本もかかってこないのだよ」

 それは、いい大人が椅子を遊園地のコーヒーカップに模して遊びながら、アッハハハと笑いを交えて言うことじゃないと思う。

「こんなに散らかしているのがそもそも問題なんですよ。推理というものは脳の回路が正しく働かなければなりません。そしてそのためには、ゴミ箱の中に住んでいてはいけません!」

 僕は腹に据えかねてバンと箱の一つを叩いた。と、ホコリの胞子が舞い上がり、激しくむせてしまう。うず高く積み上げられた箱の山のてっぺんからコロンと黒く丸いものがまろび出たので、つい反射的にキャッチした。

 黒々とした角を突き出す、巨大な甲虫だった。

 ゆったりと観光客を乗せて運河を下っていた遊覧船がひっくり返るような音の波が、辺り一帯にこだました。

「むむむむむ虫〜!?」

「ああ、それは私が飼っているMr.ジャクソンだよ。この何年か寝食を共にするやつでね」部屋の端まで飛びすさり、恐れおののく僕。先生はワッシとそれ…いやらしくぬらぬらした光沢を表面に持つその虫を掴んで僕の眼前につきつける。「ほら、ごらん。なんと土下座ができるのだよ!」

 掌に乗せ、反対の指でチョイと押す。コールタールの塊みたいなそいつは、ギチギチギチと器用に前足を折り畳んだ。

 僕の我慢のバロメーターが臨界点を突破した。

「徹底的に掃除をします!ここから…」おやおや、と目を丸く(もとからドングリ眼だけど)する先生を、「出ていけ!」と僕はドアから蹴り出した。



 私はダイオナイザ=ダンテス。探偵だ。親しい者には…まあ、時にはそうではない者からも「ダン」や「ディオ」と呼ばれている。

 私がなぜ、いかような経緯で探偵をしているか?そこにはある深い理由が存在するのだが、それについてはおいおい話していこう。

 それよりも、そう、なぜ私がこうやって自らの事務所を追い出され、運河を見下ろす気持ちのよい遊歩道の敷石の上で回転椅子に腰掛け、膝に可愛いカブトムシのジャクソンを乗せて刻をついやしているのか?そちらの説明の方が優先されるだろう。

 私は手にした紅茶のカップに唇を湿しながら、「なんであの子は、あんなに綺麗好きなのだろうね、Mr.ジャクソン」と膝の上で気持ち良さそうに日光を浴びている小さな友に問いかけた。

 遠く南の大陸で卵として生まれ、密貿易人の手により海を渡り、このシラクサで孵化し私に保護されたカブトムシ。数奇な運命に翻弄された彼は、自分の境遇など気にかけている様子もない。エサ無しで数週間を生き延びる程の夥しい生命力を身体に秘め、愛嬌あるしぐさで角を私のズボンに擦り付ける。

 私の勤務場所、国際探偵協会がこのシラクサに事務所を開設して来月には50年を記念する。それに合わせて見習いの少年が来ると会長(あまり大っぴらにはしないが私の祖父である)に告げられたのは先週だったか。

 あれはこんなやり取りだったかな。

「チーター人の男の子だ。お前がしっかり教育していくように」と現会長は厳かに電話口で命じた。「優秀さでは大人の探偵にもひけはとらないだろう」

「あの…会長、そんな子がどうして私のところに来るのです?もっと赴任要請の多い、首都や周辺を所轄する事務所ではなく?」

 私は送話口を覆い、盗み食いをするように背を丸めて声をひそめた。なぜなら、借金返済を迫る者数名が、事務所のドアを極めて非紳士的にノックしていたのだ。

「お前と彼には、互いに足りないものがある。それを協力して探し出せ」

 回線の向こうで頷く気配があり、通話は終わった。

 そして私は、かりそめ自由でいるためにヒラリと窓から身を踊らせた。

 逃走活劇の終盤で、ついに不名誉な逮捕とあいなった私の保釈金を出してくれたしっかり者の後輩、ガナッシュ=コントラバーユは、せっせと事務所を出入りし、その度にドアの両側に積まれる焼却場行きの荷物の山が大きくなっていく。

 私は紅茶を飲み干した。さっき手伝おうと事務所の中を漂っていたら、血走った眼で「ウロウロしないで下さい、邪魔です!」と一喝され、「暇ならこれでも飲んでてください!」とカップを持たされたのだ。

 丹念な雑巾掛けで土埃の地層が剥がされたドアから、またもや黄色に斑の散った毛皮のガナッシュが出てきた。私が毎週とっている雑誌『模型の世界』の付録を箱ごとストンと山に据える。私の娯楽の一つ、配達日を楽しみにしているプラモデルも、彼にとっては廃棄物に分類されるらしい。

 カップを空けてしまったので、椅子のキャスターで道幅を行ったり来たり、運河を渡っていく通学船の子供達に手を振り返したり(ガナッシュもあのくらいの年頃だというのに、なんという違いだろう!)、廃棄予定の山から引っこ抜いた剣玉で大技に挑戦したりしていたら、ガナッシュが尻尾を引きずり疲弊を隠さぬ様子で「どうぞ」と中へ呼ばわった。

 肩にMr.ジャクソンをとまらせて入室した私は「おお……」と心からの嘆声でチーター人の少年の勤労の成果を称賛した。

 薄暗く、ホコリ臭く、カビや菌類の温床だった床が、窓から差し込んだ日差しに輝いている。部屋の面積の九割を覆っていた雑誌やダンボールは片付けられて全体が広々として見える。花崗岩タイルの表面を見るのは何年ぶりだろう。

 標本や化石が乗っていたデスクは他人の物のように整頓され、上にあった品のうち飾れるようなものは総て壁に打ち込んだ釘に吊るされている。糸の張り具合も、インテリアとしてのレイアウトも申し分がなかった。

 資料は本棚に詰められ、図書館司書並みに厳正な分類で背表紙をこちらに向け、事件記録は…おっと、私の取りやすい高さにまとめてある。

 私が様変わりした事務所に夢中になっている間に、ガナッシュが拭きあげた回転椅子を運び入れてきてくれ、デスクに新しいカップの紅茶を用意してくれる。

「先生、おかわりをどうぞ」

 私はククッと忍び笑いを漏らしてしまった。『先生』!ーーーーー…なんと甘美な響き!

 後輩を指導し敬称で呼ばれる新しい地位に得意満面になっていた私は、ガナッシュがヒゲを直角にして怒っていることに気付くのが遅れた。

「なんなんですか、この借金は」

 ガナッシュは椅子に腰かける私の前で、クリップでバインダーに留めた商店や飲食店の貸付証書を五指の背ではたいた。裁判の前に調書を読み上げる検察官のように。

「ああそれはだね…」まだニコニコしていた私は、妖気のこもったチーター人の眼光に震え上がる。「…まぁいろいろあってね。必要経費というか」

「へーえ、さぞかし骨の折れる調査だったんですねえ」証書の一枚目をピラッとめくり、片眉をわざとらしく上げる。「これなんかすごいですね。一晩で34人分の牡蠣料理を召し上がってる」

「あ、あのだな、それはただ食べたかった…あ、いや、保健所から内密な衛生管理の調査を依頼されて」

「誤魔化さないで下さい!」

「はははいっ」

 私の数年に及んだ借金、ひいては私が赴任してからの事務所の歴史書を鼻息荒くデスクに叩きつけ、椅子に座っている私の顎の下にも届かぬ背丈の少年は、黄と黒の毛皮を膨らませる。

「これらのお店には全部!僕が電話して、返済は必ずするから待ってくれるように頼みました!」

「おお、手回しがいいな」

「誉めないで下さい!」

「じゃあ、みっともない真似をするんじゃない」

「咎められた立場ですか貴方は!」

 くことも退くこともかなわない。ならば一体どう言えばいいのだ?

「皆さん呆れてらっしゃいましたよ…」ハフーと肺に溜まった怒気を解放して、ガナッシュは興奮したおのが毛並みを撫でつける。「こうも言われましたねえ。『この豊かな、善良篤実な人ばかりのシラクサで、借金苦を理由に証書を踏み倒そうとする者がいて、しかもそれが当地担当の探偵というのだから嘆かわしい限りだ。探偵協会に治安監督を任せたのは間違いだったのか』…と」

「いや、それは間違いではないのだぞ。断じてな!」

「じゃあなぜなんです?確かにあなたはティラノザウルスの大隊のように食べ、マンモスの群れのように飲んでいますが、平均的な探偵事務所の収入の範囲にはギリギリおさまっているはずでしょう?」

「うーん、それなのだがねえ。話せば長くなるんだが、私が養成学校にいた頃にだな」

「一行でお願いします」

「仕事がないからなのだ」

「………は?」

「だから仕事がないのだ。さっきも言ったじゃないか。依頼が来ないのだよ。かれこれ一年はね」

「そっ、そんな長期間に渡って?馬鹿な!一体なぜ」

 バターン!とドアが蹴り開けられ、毛玉が…じゃない、極めて長い毛皮をした肥りじしのペルシャ系猫人が踊ってきた。歩いて、の記述ミスではない。タイルの角でターンしながら軽やかに乱入してきたので、この表現が正しいのだ。

「ハッアーイ♡ダンちゃん♡港での捕り物騒ぎ、聞いたわよぉ♡」

 ハートマークだらけの科白のアクセントの隙間には、イヤリング・ペンダント・指輪にブレスレットにアンクレットなどなどが伴奏が鳴らす。私はその騒々しさにため息が出るのを禁じ得なかった。

 アッハン、とファー(付ける必要の全くない)の襟に指を通してシャラリと鳴らし、おまけにバチンと大げさなウインクを飛ばす。私の肩の上のジャクソンは、可哀想に怯えて縮こまっている。

 この男はジョージ=ステファノフだ。私達の所属する探偵協会と、業務面でも存在意義でも長らく反目してきた企業エージェントの一人である。

「ジョージ…何の用なのだい」

「いやんもう素っ気ないわねえ。シシイって呼んでよ♡アラ、ちょっと見ない間に小綺麗にしたんじゃなぁい?」

 ぷりぷりと尻を右へ左へ振りつつ、気圧されて脇へのいたガナッシュに代わってジョージは私の眼前に来た。

 垂れ下がりそうな洋梨体型で私の机に乗り出してくる。彼の顔立ちは言動とは裏腹に男らしくできている…が、いかんせん濃い化粧のせいで妖怪じみている。

「ねーえダンちゃん。もういい加減探偵なんか諦めてウチに来なさいよお。そしたらアタシの雑用係としてたっぷり可愛がってあ・げ・る・ん・だ・か・ら♡」

 んんんー、と半目になった猫人が唇を合わせようと寄ってくる。これが美女ならともかく、苦みばしる男が相手とくれば、私は勿論避ける。

「私は、」スウェーバック。「誰がなんと言おうと、」サッと身を沈める。「探偵を辞めるつもりは、」右にスライド。「ないのだ!」

 左へ行こうとしたが逃げ切れず、ムンズと顔を挟まれる。

「頭の回転ギアのとぉってもノロマなダンちゃん。アナタの出来の悪ぅい可哀想な脳細胞でも分かり易いように、もう一度言ってあげるわね。師弟制度にまぁだしがみついて、群れてお互いに寄りかかるだけの探偵協会はカピカピのミイラ。化石よりも時代遅れなのよ。だ・か・ら♡これからは探偵に変わって、アタシ達企業エージェントが個人個人で犯罪を解決するの。分かった?」

「ちち近い近い、子供が見てる前で何を、おいジョージ!」

「旧態依然の探偵協会は滅びるよう運命付けられてるの。すぐアタシ達エージェントの世の中になるわ。というわけだから、覚悟しなさい♡」

 私も腕力には自信があるのだが、なんせ相手が悪い。ペルシャ系の毛皮は掴みどころなく滑るので、猫科の髭のヒクつく厚い唇がどんどん近づく…!

「探偵協会を馬鹿にしないで下さい」

 え?と振り向くジョージ。何とか唇を守った私は、命拾いした気分で猫人から首を取り返す。

 ガナッシュは自分の三倍高く、十倍太い相手に臆すことなく対峙した。

「僕達の探偵協会は国連にも認可された正式な組織です。それぞれ厳しい訓練と試験を突破してきた有能な探偵が、日々精進を欠かさず奮励しているんです」

「アラ、小さいけど可愛い子ね」

 んふふー、と少年探偵の顎に指をかけて上向かせる。ガナッシュは一歩間違えれば変質者そのもののジョージに僅かにもひるまず視線に力を込めた。

「今の侮辱を撤回してください!」

「んー、残念だけどそれはできないわねえ。だあってダンちゃんみたいな無能な探偵がいるところなんだもん?」

「その子に手を出すなよ」私も流石に間に入る。「派遣されてきたばかりなのだぞ」

「ふうん?」

 いやらしい目じりが垂れ下がり、品定めの眼つきになる。そしてべろべろり、と舌なめずり。

「登録№43037、ガナッシュ=コントラバーユ君ね。話せる外国語は5つ、地理検定士、気象予報士、あと宝石鑑定士の資格を持ってるのね。ダンちゃんのとこにはちょっと勿体無い新人なんじゃなあい?」

 チーターの少年は言い当てられて絶句している。私はジョージが少年の顎に触った瞬間に逆の手でり取ってアンチョコにした探偵手帳を、「かわいそうなことをするな」と奪い返してやる。

 ガナッシュは手帳を受けとり、「いつの間に」…と呟く。半ば呆れ、半ば感心しているらしい。

 ジョージは、このくらいはできて当然よぉ、と髭をピンピン跳ねさせる。

「と、とにかくです。僕達には探偵としてプライドがあります。前言を撤回してくださらないと、あなたを許すことはできません」

「まあ怖っわぁい。どうしようってのよ?」

 怖がるそぶりなど露ほども見せず、むしろ楽しんでいる。この猫人は気まぐれで他人の上げ足取りが大好きなのだ。

「それは…」

「じゃあこうしましょ。一日…いえ三日以内に最低でも3件!事件を解決すること。それができなければ、事務所をたたむこと。どう?」

 ジョージはニヤついて私を振り返る。こいつめ、それを狙っていたな…

「万が一、シラクサで三日の間に事件が何も起こらなかったら、もちろんナシよ。あとはそうね…難しすぎるものや期間が必要なものは解決が後にずれても構わないわ」

 とにかく事件を解いてみろ、探偵ならば…とこうきたか。

「分かりました」

「はい?」あまりにあっさり答えるチーター人に、私は目を点にする。「いやガナッシュ、こういうことはもっと考えて決めないといけないのだよ」

「この一年、アタシに仕事とられっぱなしだもんねえ。昔はライバルだったのに、寂しいわん」

 ほう、とまぶたの下に指を添えて嘆息のジョージに、ガナッシュは「三日以内に三つの事件解決!そうしたら絶対に前言を撤回してくださいね!」と声を荒げた。

「いいわよん。じゃ、ウチの事務所にアナタ達の分のベッドを…いいえ、子供用を一台用意しとくわね。ダンちゃんは、アタシと………あれだから♡」

 うっふふふ、と含み笑いと共に意味ありげな潤む眼差しを寄越してくるので、脊髄に冷却水を注入されたような悪寒がした。

 猫人は「ごきげんようダスヴィダーニャ♡」と最後の『にゃ』のところで招きポーズを取り、入ってきたときと同じようにまた勝手に帰っていく。本当に気ままなやつだ。

「おかしな人ですね。僕の分の寝床の準備はするのに、自分の恋人のはずの先生のベッドは要らないなんて」

「…その意味が分かってないほど純真なのはいいが、私は男を愛する傾向はないのだからな」

 それよりもなんということをしてくれたのだ。探偵協会の支部を、冬物の上着を質に入れるように簡単に賭けの対象にするとは…。

「大丈夫です!僕もいますから!二人であのエージェントを見返して…いえ、ぎったんぎったんにやっつけてやりましょうよ!」

 ガナッシュは拳を握り、仏陀を守護するアジアの武神像のごとく気炎を背負って闘志を燃やす。私は反対に肩を落として、そろそろと動き始めた繊細な性格のMr.ジャクソンを優しく撫でてやった。

「何が君をそこまで燃え立たせるのだろう」

「先生だって悔しいでしょう?あんな屈辱的なことを言いっぱなしにさせておくつもりですか」

「まあね、悔しいというか…しょうがないというか」首を旋回させてコリをほぐす。ジョージめ、なりふり構わず人の頭をいじるものだな。「あいつはかなりできる奴だからなあ。それが、なんでだか私に突っかかってくるのだよ」

 ジョージは辣腕で名高い対・犯罪エージェントだ。前日に起きた事件を朝食の目玉焼きを作りながら電話口で解決し、食後のコーヒーを飲み干すまでに十の電報を打ち、あの衆目を集める自称「おめかしよ♡」をしてクネクネ尻を振りつつ家を出る頃には百の捜査依頼を受けている…と、いう噂だ。

 その奇妙な言動ときわどい風貌から、悪評不評には事欠かず、人に対しても依頼に対しても選り好みはするは口は悪いは……であるからして、敵も恐らくそこら中にいるだろう。だが、それを圧して排除するだけの顧客層が揺るぎない岩盤となって彼を支えている。つまるところ、優秀であることは間違いないということだ。

「優秀だからって何をしてもいいというわけではないですよ。それにこちらから言い出した手前、僕達には探偵協会の名誉がかかってるんです。弓弦より藁矢こうし放たれ、瀑布のせきは破れけむ。あちらとこちらいずれが立つか、真っ向から勝負です!」

「はー…勝ち目はないんだがなあ…もう駄目なのだよ。諦めよう」

「何を言うんですか!」

 ガナッシュはピョンと机に飛び乗った。そして私の胸ぐらを掴んで叫ぶ。

「僕の前で『もうダメだ』とか『諦めよう』とか『助けて母ちゃんマンマミーア』とか言わないで下さい。そういう後ろ向きな考え方、大っ嫌いなんです!」

 眉間に深い谷を刻んで唾を飛ばし、力を込めた指先を白くして激怒する。私は気圧され、すまん、と頭を下げた。

「でも最後の一言は私は言ってないのだぞ」

 おしめの取れない子供ならいざ知らず、協会のバッジを胸に光らせた探偵がそんな情けない科白など言うものか。

「…とにかく」ガナッシュは、えいしょ!と床に降り、デスクについた土足の跡を払う。「もう後戻りはできません。とりあえず警察署に行って事件のネタを仕入れましょう」

 ああ、また警部殿のむさ苦しい牡牛面と対面しなければならないのか。そう思うだけでなんだか足が大地に根を張ったように感じる。

「まあ半分は私の責任なのだ。一つやってみるとするか」

 その意気です!とチーター人の少年は尻尾の先で輪を描いた。

 これではまるで私が生徒になってしまったようだな。つい苦笑が漏れてしまった。



「なんね、まーたお前の湿気とる間抜け面ば拝まんとならんとか」

 僕と一緒に警察署の受付に並んでいた先生を見て、たまたま通りかかった先程の捕物のバッファロー系牛人(警部さんらしい)はうざったそうに帽子のつばを傾けた。

 シラクサ警察署の建物は歴史を感じさせるルネサンス様式の大理石造りで、中は意外に明るかった。入り口の壁に大きく切り取られた窓から滝のように流れ落ちた日光が、磨き上げられたマーブル模様のうねる床に当たってはじけている。光が一番集中しているところがホールの中央。そこには黒曜石の大円が嵌め込まれていて、僕にはそれが黒い太陽の図みたいに見えた。

 署内に立ち働く青い制服の警官は、僕達が通るとみんなちょっと驚く。しかしそれも仕方がない。

 チョッキと半ズボン姿の、まだ初等部ぐらいの背格好(本当に11才だからしょうがない)の僕と、身長(だけ)なら誰にも負けない汚れたトレンチコートの先生、そしてその肩には「久し振りに箱から出してやれたのだから、留守番は可哀想だろう」と先生が連れてきた巨大な虫…できれば僕は近寄りたくない…のMr.ジャクソンがちょこなんと鎮座ましましているのだから。

「そいで今度はどがんした?食い逃げね?そいとも借金ね?失業しよったところでお前だけは雇わんけんにゃ」

 ふんぞり返ってカラカラと笑う警部の言葉は訛りが強く、本土育ちの僕にはちんぷんかんぷんだった。

「先生、僕この警部さんの言うことがちっとも分からないんですが」

「ああ、警部殿はミノコス西部の辺鄙な村の出身だからね、訛りが酷いんだ」

「田舎モンで悪かっちゃね…おう、港で会うた坊主もおるっちゃなかか。つーことは?何やお前ら、事件でも拾いに来たっちゃか」ぼくのおつむりを掻き混ぜるように撫でる。「まるで本物モノホンの探偵のごたるなあ」

 私は本物の探偵で、この子は後輩だぞと憤慨する先生を捨て置き、僕は両眼が逆かまぼこ型の迫力ある警部に、改めて自己紹介をする。

「先程はどうも先生がお世話になりました。本人もいたく反省しておりますのでどうか、ご容赦ください。僕は探偵のガナッシュ=コントラバーユです。この度先生の助手となりました。よろしくお見知りおきを」

「おうおうよう喋りよるのう。おいはニコラウス=ギョレメたい。お前さんがこん阿呆を投げ飛ばしたんは、こン目ン玉でよーく見とったけんね。ウチの署員らにも爪ン垢ば飲ましてやりたかよ。いっそこの際、探偵なんか辞めてウチばんね?」

 方言は分からないけど、なんとなく誉められているのかな。そう考えて無難な返答をする。

「いえ、お言葉だけ有難く頂戴します」

 勿体なかにゃあ、将来有望やけん厚遇すっとに…と口髭をこねくる牛人に、捜査協力についての申し出をしてみる。

「探偵協会との約定もあっけんが、できんわけやなかけどなぁ…そがん難しか案件は解けんやろうもん」

 えー、これはどういう意味だろうと考えていたら、先に先生(と言わなければならないのが情けない)が「できれば簡単なのがいいなあ。楽ちんで派手で、探偵としてのポイントが稼げるような」とたくまぬ、言って悪ければひねりの無い、付け加えるなら馬鹿正直な科白を続けた。

 なっさけなか男ばい、と牛人が渋面を作る。これは僕にも意味が分かる。

「しかしまあ、本当にほんなごてやる気の出たなら、無かごたるよりかぁマシかにゃ」

「やらずば枯れる庭木の手入れ、というかね。このガナッシュのおかげでなかなか刺激的な展開になっているのだよ」

「…なんのこっちゃ事情はよう分からんが、まあとにかくついて来んね、拘置所に案内すっぎ」大股に歩き出す警部。なんなく後を行く先生。そして表情には必死さを浮かべないよう、ちょこちょこと競歩のペースで追う僕。「なんやお前ら、学芸会の演目だしもんのごたるなぁ」

 すれ違う婦警達は先生がギョレメ警部に逮捕・連行されているのかと思ったみたいだ。ある巻き毛の若くて可愛い猫人は「ダンさん、後で差し入れして上げるからね、元気出してね」と投げキッスを送り、小走りに寄って来た泣きボクロのある犬人は「ダン、寂しかったらあたしが慰めてあげるわ」と抱きつき、ショートカットで腰のくびれが凄いフラミンゴ人が「今夜は寝かさないわよ。あとで拘置所に行ってあげる。冷たいベッドを二人で温めましょう」と先生のお尻をギュッと握ってきた。

「オラ散れ散れ!」牛人は蜜に集まる蜂のように先生に群がる婦警を払いのけ「女どもはお前んごたる男のどっが好くやろな」と先生に振り向く。対して先生は「さあ、女性はみんな可愛いものだからね」と的を外したことをのたまう。

 この先生のモテ具合は確かに不思議だ。女の人って、カッコいい男が好きなものだと思ってたんだけど。

「依頼無し金無し甲斐性無し、ときたら残るはカラダやな。アッチの方が絶倫っちゅうこつか」

 ニヤつく警部。婦警さん達に手を振る先生。

「私は女性を満足させなかったことがないのが誇りなのだよ」

「ふざけたこつ言いよってからに。俺ん署ん中で勝手に子種タネばバラ蒔くなよ。あとあと面倒になるけんな」

 ゼツリン…舌輪?どういう意味なんだろう?物を運ぶ道具かな?そういうニュアンスじゃないけど…

 僕は未知の単語に直面し、尻尾を結んで考えるが、その単語は謎のまま拘置所の建物に入った。警察署が歴史のありそうな造りだから、こちらも人の手垢でざらついた鉄格子が嵌まっているもの…という僕の予想は覆され、リノリウムの床に白い壁白いドアが延々続く。まるでどこかの研究施設のような構図だ。

「ここがうちの拘置所たい。事件の被疑者や罪状が確定しとらん犯罪者がおる。もっとも誰かさんもあと少しでこン中のどっかしらに入るとこやったな」

 警部はちろりと横目でその「誰かさん」である先生を睨む。

「ううむ、できれば一生無縁で済ませたいものだ」

 獅子人はゾクッと背なの毛並みを逆立てる。法と正義の善き番人である探偵にとって、ここは監獄と同等に不名誉な場所だ。そこにぶちこまれかけた経験が、少しはこたえているらしい。

 軽犯罪で拘留されている者、既に罪状が明らかにされて裁判所からの刑務所移送手続き待ちの者を抜かせば、取り調べ段階の者は多くはいないみたいだ。

 僕達はまず、入って来たところから数えて七つ目のドアで止まった。

「ここは殺人の取調べ中やな。中央付近の繁華街の裏路地で昨夜、若い女性が刺殺された。被疑者は墓掘り人夫で、動機はそいつが所持しとったオパールのブレスレットやろう。本人は死体に馴れとるけん、死んどる被害者の手首からこじ抜いただけや言うとるが、そいつの言う時刻と生きとる被害者に会うたと証人の主張する時刻がズレとるし、ま、白状ゲロするまでの根比べやな」

 先生はドアの上部についた覗き窓に眉を押し付け「ほほー、あのスーツのピューマ人の青年が証人なのであって、机の右にいるうなだれた栗鼠人の彼が犯人…いや被疑者なのか」

 大人の頭の位置を想定したデザインの高窓は、僕にはもちろん届かない。

「なんなのだガナッシュ、君も見たいのかね」

 少し偉そうに聞かれたので、僕はあえてそっぽを向いた。

「いえ、状況だけお聞かせ願えれば構いませんよ」

「いやいや、私が肩車してやろう、そら」

「えっ、ちょっと!」叫ぶが遅い。僕は獅子人に脇腹を掴まれ強制的に肩車をされた。Mr.ジャクソンはふわりと舞い上がり、僕のおつむりのてっぺんに留まる。「キ…」

 キャーという悲鳴を飲み込んで、僕は先生の首を太ももで抱えて自分の位置を固定した。

「これで具合も良くなっただろう。そら、あの見るからに何かやらかしそうな中年が被疑者で、金品で飾り立てた裕福そうな青年が被害者の生存時間の証言者なのだ」

「説明されなくても分かりますよ」

 強化ガラスは防音性があるらしい。こちらには何も聞こえてこないが、テーブルでは鼠人の取り調べ係が今まさに詰問しているところ。その前に座らされた、汚ならしい衣服にほつれだらけの毛糸の帽子と手袋の栗鼠人の男性は、自分の涙で溺れそうなほど取り乱し抗弁しているようだ。

 そして向かって左の壁の椅子には、それとは対照的にやたらに豪勢な仕立ての紺碧のスーツにアクセサリをつけた人生の成功者らしいピューマ人が足を組み、右の隅の椅子には簡素で清潔な身なりの勤め人風の熊人が、膝を握る指先にもこめかみにも血管を浮かせて地面を睨んでいる。

「あーりゃりゃ、泣きに入ったごたるな。平警官ぺーぺーにゃあ尋問は無理かにゃ」

「あちらの、地味な感じの熊人はどうしてここにいるんですか?」

「ああ、あれか」警部は牛人の大きな鼻孔から吹く息でガラスを曇らせる。「被害者の恋人や。昨夜二人はあいつの働く電信局の近くで待ち合わせをしとったんやけどな。遺体の第一発見者になってしもうたと」

「それだったら、あの人も被疑者じゃないですか。別室で取り調べるべきです」

「おまっ…なんば言いよっとか!」

 武骨な強面から色を失くす警部の、その反応にこそ僕は驚いた。

「痴情による刃傷沙汰。或いは予期しないトラブル。恋人と周囲が認識していても、そういった可能性を排除していては充分な考察はできませんでしょう?」

「あいつんことは俺が餓鬼ん頃からよう知っとる。実直でコソコソすんのの好かん、ほんなごて男らしか真面目な奴や。被害者と婚約までしとったんやぞ。そいつを疑えっちゅうのか」

「当然ですよ」あれ、こんなことも考えないのか。思ったより田舎なんだな。鈍いというか、思考が錆び付いてると言わざるを得ないなあ。「ま、それはいいです。これまでの経緯と、それぞれの証言を教えて下さい」

 牛人は口をぱくぱく、眉をしかめたり目をすがめたり忙しい。

「それは良いっちゃが…おいダン!」

「なんなのだね」

 先生が振り返ると、僕まで回転してしまう。

「こん坊主、よぉ監督するっちゃよ」

 獅子人は、うむ、任せておけと頷く。だから、そういうことをすると僕の顔面が壁にぶつかるから!

「ほんなら状況ば説明するぞ。まず被疑者。こいつは札付きの悪党、っちゅうわけでもなか。どっこにでん居る教会付きの墓掘りや。血溜まりん中におる被害者が死んどるんを確かめてから、彼女の左手首に嵌まっとったブレスレットを棺桶の釘扱いに使う梃子やらで直径を広げて掠めた。そいが大体深夜1時頃やと」

「その時、遺体に他に何もしなかったんですね?」

「被害者の肘から先に金具のせいで裂き傷ばこさえとったがな、傷口はきれいなもんで、ほとんど血は出とらんかったな。確認して分かったのはそんぐらいのもんや」

「そうですか。あのピューマ人はどう言ってます?」

「深夜1時、奴の経営する…ほれ、あの飲んだり踊ったりするとこ…クラブちゅうんか?そっから車で帰る途中に、現場にいた被害者と出っくわしたらしか」

「被害者がいたのはどんな場所です?」

「恋人の…あっちの熊人が残業しとった電信局ビルの横道すぐんとこやな。久しぶりのデートが二人して楽しみで、仕事から上がるのを待ち合わせやったんやと。で、あのピューマ人は、丁度仕事先へ車で向かっとったら、交差点を曲がってビルの脇のとこにおった被害者に気付いたと言うとる」

「その時の被害者の様子はどんな風だったと?」

「車に乗っとう自分に笑いかけた、やと。お、言い忘れとったが証人と被害者は知り合いや。被害者は証人の経営しよるクラブでバーテンをしとってな。ああいうんは男の仕事や思うとったが、最近は女子おなごも進出しとるんやなぁ」

「美人だったのかい」

「いきなりなんやダン、そがんとこが気になるっとや?」

 うむそうだ、大変重要なのだ、と先生は漏らす。牛人は「お前ほんにどうしようもなか助平やな」と言いながらも、被害者の女性は知的な感じのする美女だったと評価する。

「最後になりますが、恋人の熊人、彼のアリバイを教えてください」

「ん」警部は腕を組んで胸を張る。「会社の警備員が、残業から帰るまで奴はずっと一歩も外には出とらんかった、とアリバイを証言しとる。もっともこれはアテにはならんけどな。オフィスから非常階段で降りていったらば、警備員が常駐しとる受付には姿ば晒さんで済むんや。現場に行ったときには血の海にうつ伏せになっとる恋人に我を忘れたらしゅうてな、詳しくは覚えとらんと。タイムカードは深夜2時きっかりや」

 ついでに、現場には被疑者と熊人の血のついた靴あと。凶器はナイフ、刃渡り13〜15㎝程度。傷は背後から。

 僕は現場のあることについて、また警備員についての質問をし、ほぼ間違いないだろうと確信した。

「分かりました」僕は三白眼の牛人に微笑んだ。「嘘を吐いている人間が一人います。それが犯人です」

 先生の成した悪行のおかげで、この島の住人の探偵に対する尊敬心と好感度はすっかり地に墜ちた。挽回するには、犯人が誰かなんて簡単なことを言葉で説明するよりも、ケレン味たっぷりに実演して見せた方が手っ取り早いと僕は判断した。

「それではギョレメ警部、今から頼まれ事をしてもらえますか?」

「なっナニを!?もう分かったのか!?」

 こんな推理はごく初歩的なものだ。僕は頷く。さっぱりつかめていないらしい先生は「ふかあ」と鼻を膨らまして喚いた。

「何なのだ何なのだ、私にも教えるのだ!」

「わっちょっ、やめて下さい揺らさないで、吐いちゃう!」



「えっ」

「はっ?」

「ぎょっ」

「……」

 始めから順に、被疑者の栗鼠人、証人のビューマ人、取り調べ係の鼠人、被害者の恋人の熊人、それぞれの反応である(最後の熊人は片眉を上げただけだったけど)。

 つまるところ先生が僕を肩車したままで入室したので、ブレーメンの音楽隊よろしく積みあがった獅子人、チーター人、そして巨大甲虫のトーテムポールに全員度肝を抜かれたというわけだ。

「なんなんだお前達、取り調べ中だぞ!何をふざけているか!」

 当然のことながら憤慨する平警官を、ギョレメ警部が鷹揚にいなす。

「おう、お疲れさん」

「ギョレメ警部?じゃあこのおかしな連中は…」

「どうも高い所から失礼します、僕は探偵のガナッシュ=コントラバーユです」

「その先輩であり師匠でもあるのが、この私、探偵ダイオナイザ=ダンテスなのだ。ガナッシュの頭にいるのは我が小さき朋友ともがら、Mr.ジャクソン。さ、ジャック、皆さんにご挨拶を」甲虫は尻を向け、体内の余分な老廃物の混じる水分を広範囲に勢いよく放散した。

「よろしい」

「よろしいわけあるか!」

 全員が非難する。先生は自分がなぜ周囲を憤慨させたのか掴めずに「おのの」とのけぞった。

「でその、ダイオシスだかダナエだかが、何のパフォーマンスかね?ひと一人殺された事件だというのに不謹慎極まりない。それとも、ここで推理ショーでも披露してくれるのかい」ピューマ人はくつくつと笑いながら足を組み直した。「僕が聞いたところによると、シラクサの探偵は大層無能だそうだが」

「私も聞いたのだが、生きている被害者に最後に会ったのは君なのだね?」

「そうさ。僕が愛車で現場の十字路を曲がったときにね。微笑んで軽く会釈してくれたさ。彼女が亡くなるなんて不憫だね。うちのスタッフの間でも働き者で好かれていたのに」

「なるほどなるほど。証言をありがとうなのだ。そういえば推理ショーとやらをお望みであるのだったな。ならばご覧にいれよう」

 フッと闇が降りる。照明が落とされたのだ。窓の前には警部がいて自らの頭でピッタリ蓋をしており、外からの光が阻まれている。

 当然、先から中にいた四人は事態が飲み込めず、立ち上がっては口々に喚く。

「けけけ警部これは一体」頼りない鼠人の悲鳴。

 ギョレメ警部はしれっとトボケる。「ん、停電のごたるな。暫く待っとれば点くやろ」そして手探りで寄ってきた小柄な取調係の足をひょいとすくって転ばせた。

「あたっ!畜生ー、先月修繕したばっかりなのに!あの電気屋め!」

「ときに知りたいのだが、ピューマ君、君が経営しているクラブはどの辺りにあるのだい。女の子も多いのだろうね?」

「先生、どうして今そんなことを聞くんですか」

 先生は僕の頭を撫でさする。「ガナッシュも大人になれば分かるのだよ」と言うけれど、食欲と性欲の塊が大人たる所以ではないと思う。

「港のとっつきだ。ウォーターフロントさ。合法的なドラッグとアルコールに、綺麗ドコロもどっさり」僕自身も暗さに眼が慣れてきた。ピューマ人は肩をすくめている様子。「しかしさっきチラッと見たが、探偵さん、あんたのファッションはうちの店のドレスコードに違反しているな。非常に残念ではあるが、入店はお断りだね」

「私はそんなみすぼらしいなりなのだろうかね」

「……僕からはお答えできかねます。それよりそろそろ…」

「おお、そうだな」獅子人が懐をまさぐる動作をする。「実はな、懐中電灯を持っているのだ。そら」

 絞りを最大に開いた懐中電灯のビームが放射され、鼠人、栗鼠人、熊人とピューマ人を光の網に捕らえる。

「さすが探偵さん、抜かりないね」

 ピューマ人は顔をしかめながら椅子に座り直し、また片足を上げる。足を組んでいなければ座れないんだろうか?

「さっさと出せばよいだろうが、このバカライオン!」

 鼠人は飛び上がり、ライトを持つ相手の頭をしたたか殴り付けた。

いっつぁー!」

「あれ、なんで警部が痛がるんですか?私が叩いたのは探偵で…ほわあ!?」びっくりした顔で鼠人は後ずさる。今度は明るさに眼が慣れ、自分の拳が当たったのが誰か分かったのだ。「あれれれれ?…ギョレメ警部殿…」

 湾曲した角に挟まれた額を片手で押さえ、牛人は「貴様きさん〜…ようもやってくれよったな!」と脚を蹴り上げた。鼠人はすんでのところでヒラリとかわす。

「こんにゃろ待て!そんケツ蹴りつけてやるっぎ、待たんねぇ!」

「とっとんでもない!誤解です!だってだって警部も悪いんですよお、ずっと黙ってるもんだからあ!そりゃ間違えもするというもの…わひゃあっ」

 警部が移動したので、塞がれていた窓から廊下の照明が室内に入ってきた。だから、「その男」の顔が蒼ざめていくのは先生が電灯のスイッチを押すまでもなく確認できた。

「見事にひっかかったものだな」

「そうやな」ライトを持たない方の手で鼠人を捕まえて首をギリギリ締めながら、ギョレメは息荒く賛同する。「坊主の言うた通りんごたるな」

「あ、あの、それであたしゃあどうなるんでしょうか?あたしがやったのは盗みだけで、と、とても娘さんを刺し殺すなんて」

 ガタガタと腰骨から震えている栗鼠人に、先生は安心するのだと肩に手をかけてやる。

「それじゃあ」室内灯が点けられ明るくなった室内の隅で熊人が首を巡らし、反対側の壁際に灼熱地獄から呼び出された魔神のような視線をやった。「奴が下手人?」

 僕は先生の肩の上で呟く。

「暗順応の喪失…」

 部屋の隅の椅子の上で、ピューマ人は脂汗を流していた。口許はピクピク痙攣しヒゲが不規則に緊張と弛緩を繰り返す。

「明順応の方が一般的な呼び方ですね。暗い処に入ると眼球の視細胞の活動が変化して、少ない光でも視力を保とうとし、瞳孔も開きます。反対に明るくなったら、それとは逆の現象が起きるわけです。これに関与するのは桿体細胞、錐体細胞、ロドプシン等」

 これは生理学の初歩。一般人だって高校生ぐらいから知っている常識だ。

「つまり単純に解説すればだな、強烈なビームを暗い所にいて急に浴びた場合、浴びせてきた相手の顔なんか判別できるわけがないのだ。せいぜいが眩しくてしかめっ面になるだけだろう。ましてや微笑むことなど」先生はまるで自分の手柄のように威張っている。「被害者がいたのは歩道から横道に入る街路灯の当たらない位置で、さっき君は『十字路を車で曲がって』と言ったが、そうなると君の車のフロントライトを突然浴びたことになるのだ。よって君の証言には重大な虚偽が存在する、ということなのだな」

「ぼ、僕が犯人?馬鹿な、君たちは何かミスをしている、そうに違いない。刑事さん!どうか私を信じて」

 ピューマ人は最後まで言い切ることはなかった。熊人のパンチがその頬にヒットしたのだ。ピューマ人はもんどりうってでドウと倒れ、地面にキスをした。

 憤り収まらぬ熊人は、相手が床にのたうち折れた歯を吐き出しても、尚執拗に拳を振り下ろし、めった打ちにする。

「貴様!貴様!よくも彼女を…殺してやる!」

 警部と取調係が二人でもってやっと引き離す頃には、ピューマ人の伊達男ぶりも台無しになっていた。鼻といわず口といわず、鮮血をポタポタ垂らしべそをかく。

「あ…あのが悪いんだ…僕の店で働いてる女の子達の中で、あの娘だけは誘いに乗らなくて…昨夜僕はただちょっとキスするフリでからかっただけなのに、犯されるとかうるさく叫ぶから…」

 人気ひとけのない暗がりで好意を寄せてもいない相手に迫られたら、乙女の宝の危機を感じて被害者がおびえたのも過敏とは言えまい。

「君は微笑んでもらいたかったのだろう。数多の女の子の中でも満足できず、たった一人に」先生は腕をこまぬいて苦渋に満ちた顔をする。「それが君の願いだったのだ。そしてその執着こそが、最終的に君を追い詰めたのだ」

「貞操を守ろうと抵抗する被害者を、静かにさせようと焦るあまり刺したんですね。ブレスレットを盗ったときについた傷からの出血が無かったことも、既に死んでいたという栗鼠人の主張が正しかった根拠ですが、もう蛇足ですね」僕はありきたりな真相に何の感慨も湧かなかった。「傷害殺人で立件、と。これで一つ片付きましたよ。難度は低いですがカウントには入るでしょう。さ、次へ行きましょうか♪」

 先生はハッと眉を上げた。僕は身体を支えるために頭をつかんでいたから、掌に先生の額の肉が波打ち皺ができるのを感じた。僕には確認できなかったけれど、つかの間複雑な表情をしたみたいだ。

 それから「うむ、確かにこれは問題がある」と独りごちるように言い、内線で呼び集められた鼠人の警官の群れ(僕には誰が最初の取調係か区別できなかった)に真犯人を引き渡し、僕達は次の部屋に案内された。

 中には大人しそうな痩せた羊人と、またしても鼠人の取調係。

 今度は取調べが始まる前に室内に通されたので、容疑者の面前でギョレメ警部の説明を受ける。

「こいつはパウロ=ハン。市のはずれの公文書館の近くで中華料理屋をやっとる。兄貴も中華料理屋なんやが夕べ殺された。強盗のしわざらしゅうてな、被害者本人が警察に通報してきとって、死ぬ間際の瞬間が録音テープに保存されとる」

「えっ、いつの間にそんな最新機器を導入したのだ」

「ついこないだや。さっきの取調べ係が言うとったやろ、電気屋が来らしたって。予算ば使いきる勢いで設備のオーバーホールやったくさ」

 はああ、シラクサも都会になったものだなあと妙な感心をしている先生に、警部は「これからはうちんとこの市も主府に負けんごと犯罪対処ばせんばならんけんにゃ」と腕を組んで鼻息を噴き上げる。

「そんなのもの、ちょっと大きな都市ならどこにでもあるじゃないですか。もっと進んだ所なら電子計算機まであるんですから」

 あれ、二人とも顔を赤くして黙って俯いちゃった。おかしいな?

「オホン、あー、ともかくこいつの取り調べはこいこいからやけん、一緒に聞いちょれ」

 今度はきちんとパイプ椅子に落ち着いて話を聞く。先生の友達だという甲虫は、その山脈みたいな右肩に留まり翅を乾かし始めた。

 ハイじゃあ名前から住所職業までを言ってね、と取調係が促す。

「私はパウロ=ハン公文書館の並びに店を出しているそこに住んでいる調理師で42歳だおや」息継ぎもせずものすごい早口だ。羊人パウロは細い身体のどこから空気を補給しているのだろうか。「年齢は言わなくていいのか」

「まあいいだろう。昨夜被害者ガイシャが殺されたとき、どこで何をしていた?」と取調べ係。

「私彼兄が死んだ頃は家で寝ていた次の日も朝が早い仕込みがあるだから起きていないどこにも行かない誰とも会わない」

「しかし、隣家の主人がゴミ出しで外に出ていたときに会ったらしいな?」

「そんなこともあった」羊人は頭の角の蛇腹部分を爪でこすってカカカカカと鳴らす。「私もゴミを出したただそれだけ」

 そこへひょいと声を挟む先生。

「ちょっといいかな。貴方の兄上の店の名前はなんというのだ?」

「兄の店名前は『好好酒家』私の店から歩いて40分の距離『阿范飯店』が私の店開店したばかり」

 それを聞いた獅子人、何を思ってか「おお」と掌を打った。

「『好好酒家』なら何回か行ったことがある!あそこの看板料理は梅肉入りの衣で揚げた豆腐なのだったな?」

「そんなことばかりよくご存知ですね、先生」

「何を隠そう、このシラクサで私が行かなかった飲食店は一軒もないのだ!」僕の白けた視線など屁でもなく、いやむしろふんぞりかえって、先生はかつて舌にした美味を反芻している。「数多あるメニューの中でもフカヒレ麺は最高だったなあ。こう、スープに程よいトロみがついていて、世界中の魚介類の旨味とあらゆる香草を煮詰めたような…食した者を一口で桃源郷へ誘う至福のまろやかさなのだ…」

「うっとりしてないで、情報を聞きましょうよ」

 のだな、と先生は気を取り直す。

「被害者の死亡理由は何ですか?」

 取調べ係はボールペンで耳の穴をほじりながら答える。

「頚部刺創による出血多量。どうやら強盗に現場の出刃包丁で喉をグッサリやられたらしいんだ。そこに現場写真があるよ。あと、110番コールの際の録音テープも」

 僕は机の角にきっちり合わせて置かれている茶封筒の紐を解き、数十枚に及ぶ白黒写真と真新しいカセットテープを取り出した。再生用のプレーヤーは、と尋ねると、この鼠人、足を動かして机の下をぞんざいに示す。

「けど警部ぅ、もう嫌疑解消でいいんじゃないっすか?テープにも確かに被害者の声が入ってるし、厨房には大鍋に仕込み用の湯が沸きたてで、交番の警官が駆け付けた時間だって通報から5分もずれていないし、車を走らせても15分はかかるパウロの家からじゃ犯行は無理っしょ」

 まるで面倒だから片付けてしまえというような鼠人に「結論を立てること、これすなわち己の誠実の限りを尽くすこと」と僕は探偵の心得から一文引用した。「せっかく集めてくださった証拠も、吟味せずに置いておくだけでは宝の持ち腐れですよ」

 プレーヤーを両腕で机の上に持ち上げようとしたけれども、大きさも重さも小型金庫並みの金属の塊で、僕の腕力ではうんともすんともいわない。「にゅぎぎぎ!」と肩が抜けそうな痛みをこらえてしばし格闘するも、「りきみすぎなのだぞガナッシュ」などと苦笑して先生が片手で机に載せてしまった。

「君は非力なのだなあ」

「失礼な評価をしないでください。体力測定は平均点でした!」ギリギリだったけれど、それは言わない。だって力の差をまざまざと(それと意識しないで)見せつけられるのは男として面白くなかった。そう、いくら僕が小さくたって子供だって、男は男だ。「それより検証を始めましょうか」

 写真の一枚目には黒い水溜まりに倒れ伏し、左に向けた顔面に苦悶と驚愕を残している被害者の羊人が写っている。体格も顔つきも、平静な面差しで目の前に神妙に座しているパウロにそっくりだ。

「お兄さんは誰かに恨まれたりすることはありませんでしたか?」

 質問する僕の顔と探偵バッジとをジロジロ見比べながらパウロは首を捻る。

「兄は実直が取り柄の庖丁人だ厳しいが従業員を指導することに情熱をかけている恨むとすれば商売敵ぐらいか」

「君は、どうなのだね?」

 先生はいきなり疑惑の矛先を突きつけた。パウロはグッと舌を飲み込む。僕も思わぬ剣のひと突きに、おっ?と耳を立てた。

「どうだとはどういう意味か私が兄を殺したいほど憎む理由があるとでも言うのか」

 先生は、くゃくしゃ自分のうなじ辺りの毛皮を乱して「私は君の店にも行ったことがあるのだが、君の腕前は正直言って兄上の足元には遠く及ばない。あれなら料理の基礎パ・ド・トゥをちょっとかじった程度で誰にでも供せるものだ。しかもメニューときたらラーメンに炒飯に回鍋肉だけなのだし」と言い辛そうに眉根を歪めた。

 羊人は椅子を蹴るというより念力で跳ね飛ばすように勢いよく立ち、デスクに手をつく。

「兄が厨房に立たせなかったから私は!独立したのだ!」

 そうか、と悲しげに椅子を拾いに腰を上げる獅子人。僕はそれに違和感を覚えた。

「まあ気を鎮めたまえ。そう興奮するものではないのだ」

 何か東洋の言葉らしいものを歯ぎしりの隙間から漏らすパウロに椅子を引いてやり、いたわるように背中をさする。

「そこまで親切にする必要はないと思いますけど」僕は写真を繰る手を止めず先生に囁く。「被疑者を増長させるだけですよ」

「ガナッシュ、これは弟が実兄をしいした事件なのだ。私はそれが悲しいのだよ」

 えっ、と僕は我が耳を疑った。

「犯人があの羊人だと分かったんですか!先生、た…」危うく、只のボンクラではなかったんですね、と非常に気まずい科白が飛び出しかける。「ーーー…確かなんですか」

 先生は獅子人の尾をひと振り、床を打つ。「確信はあるのだ」

 それを聞いて僕は目尻に涙が滲んできた。

 田舎の、向上心の希薄な探偵があるじを務める惨めな事務所に飛ばされたのは、探偵協会会長の深謀遠慮あっての試練か、はたまた左遷のうちに入るのかと内心懊悩していたのだ。

 良かった。僕は探偵協会から見捨てられたわけではなかった。この一見ボケ倒しの獅子人の探偵に研修期間を任されたのは、意味あるはからいだったんだ。

「先生…僕は…嬉しいで」

「証拠が、無いのだ」

 わずかな光明も、この一言でパアになった。

「………何ですかそれ」

「私の勘に間違いはないのだ」エッヘンと瞑目する先生。「しかし私は論理を組み立て謎を解くことがどうにも苦手なのだね。だからガナッシュ、君が考えてくれ」

「考える?それはどういう意味ですか?」

「私の代わりにトリックを解き明かしてくれ、という意味なのだ」

 常識というものは、それが堅固であればある程、ひっくり返されたときに大きなショックとなる。そしてそのショックは津波のように、大きさに正比例して脳髄までの到着も遅れるものだ。

 僕がその科白を理解して眩暈に襲われるまで、たっぷり1分半はかかったと思う。

「あああ貴方という人は…!」さすがの僕も堪忍袋の限界だ。馬鹿阿呆ボケカスロクデナシ!!…と叫びたいのをこらえにこらえて、ならぬ我慢するが我慢と尻尾の先を握り爪を立てる。「…羞恥心というものが無いんですか…」

「君は優秀なのだ。ここはひとつ、私達二人のうるわしい共同作業といこうじゃないか」とウィンクしてくる。

 開いた口が塞がらないとはこの事だ。僕は「分かりました」とだけ返し、見終わった写真の山を先生…と呼びたくなくなってきた…の方に押しやって、プレーヤーにカセットを差し込み再生の準備をする。気分を切り替えないと厭世的な観念に取り込まれてやぶれかぶれになりそうだ。

 束ねられたコードをほどき、コンセントを探しながら考える。

 写真には血塗れの被害者の死体、現場の厨房(中華料理店だけあって立派なものだ)、湯気に霞む大鍋、椅子をかたしたテーブルだけのガランとした店内、店の外観など種々雑多なものが映っていた。事件記録として整理しようとはしていないのか、どうでもよいものまでこれでもかとシャッターを切られている。中にはピースをして撮影された現場捜査官と、そこに怒鳴り込む暴れ牛ことギョレメ警部の姿まであった。

 でも写真には特におかしな点はない。少なくとも僕の所見では。もしかしたら、このシラクサ初の110番録音装置が事件の手がかりになるかも…

「こちらは再生できます。先生、写真はもうよろしいですか?」

「うう……」

「先生?どうかしましたか?」

「き…」

「き?」

 被害者の死体を瞳に映し、先生は顎に滴るほどの冷や汗をかいていた。

「気持ち悪いのだ」

 僕は机に突っ伏しそうになった。

「あのですねえ、僕達の業務では流血・惨殺・事故・解剖が当たり前なんですよ!よくもまぁそんな調子で探偵をやってこられましたね」

「あううぅ!これは痛いだろうなあ。刺されたというより、っ切ってあるのではないか」ポケットから引き抜いたシワクチャのハンカチでゴシゴシ顎の付け根をこする。「おおお、次はもっと惨たらしいのだぞ…傷口のどアップだ。家畜の生の腸を切り開いたみたいにビラビラ皮膚がめくれて血がこびりついているのだ…」

 ああ痛そうだ、堪らないと脇腹をつねりながら悶え苦しむ先生のことはこの際、五月蝿いギャラリーだと思うことにした。

 僕はプレーヤーのスイッチを押し込む。この水上都市では最新鋭らしい機材も、首都でなら珍しくもない。公的機関のみならず裕福な家庭であれば一台ぐらいもっているだろうものだ。

 国産メーカーの刻印のある蓋の下でテープロールが輪転し、ビニールの磁気に封じ込められた、賊に襲われようとする店主の叫びを呼び覚ました。

“たッ、助けてくれ助けてくれ”

“こちら110番です。どうしましたか”

“こちら『好好酒家』だ、強盗、店に、強盗が、あッ”

 ガシャー、バリーンという物音。送話器から離れたところで争っているような毒づき、悲鳴、そして岩より重い沈黙。

 ややあって床が軋む音が近付き、フックに送話器が降ろされた。

 あとはツーツーの後に“もしもし!もしもし…”と当直警官の問いかけが続くだけ。

「なるほど」僕は念のため巻き戻して再生し、そして写真の山から厨房の遠景の一葉を選ぶ。ギョレメ警部へは、現場に捜査班がいることを確認して、取り調べ室から外線で現場に繋いでもらうよう頼んだ。「恐らくそれが確かめられたら、犯行を立証できます」

 ほへっ?と鼠人は瞠目し、羊人パウロの頬から顎にかけての皮膚がひきつった。

「なんだこの子供はそれではまるで私が兄を殺したようではないからちも無い世迷い言をほざくか」

「バッジを見て分かっとると思うばってん、こん坊主は歴とした探偵や」

 で、その師匠が私なのだ…と言い募ろうとする先生の頭を警部は押し退ける。

「まだなりたてで見習いやけんが相当素地スジの良か奴たい。俺も一目置いとる。そいけんが俺はこん坊主の言葉なら世迷言やとは思わん!」

「おや警部、私はどうなのだ?このダイオナイザについては一言も無しかい?」

「お前は坊主の爪ん垢でん舐めとればよかやろがい」壁の内線で交換手と話していた牛人が「繋がったばい」と巻き込み式のコードを伸ばして、平べったい、大きな動物の骨みたいな受話器を渡してくれた。

 それを耳にしっかり当て、僕は予測が的中したことにニッコリする。

「やっぱり貴方がお兄さんを殺した犯人です」

「貴様!」と羊人は激昂して僕に殴りかかった。それを先生が羽交い締めで抱きかかえるように動きを封じる。僕はビックリして椅子からずり落ちてしまった。

「ふざけるなふざけるなふざけるなぁっ!その舌肉を賽子さいの目に刻んで薬味と一緒に断ち割った貴様の腹に詰めて釜茹でにしてやる!」

 大の大人が………一分前までは分別ある外見そとみをしていた人物が怒り狂っている。

 こんなのはシミュレーションしたことがない。探偵養成学校の教室では頻繁に犯罪面接シミュレーションが行われたけれど、犯人役の生徒が犯行を明らかにされればそこで終了だった。

 でも現実は違うんだ。こんなにも生々しいなんて。ざらつく怒声で罵られたり、取り乱した犯人が向かってきたりするものなのか。

 なんて……なんて言ったらいいか……………

「坊主、俺の後ろに。オイお前、ボヤーッとしとらんでダンを手伝え!パウロば拘束せえ!」

 あっけにとられていた鼠人も、雷神のような警部の命に撃たれ、羊人の両手を手錠でテーブルにいましめた。

「で、解説してくれるのだな、ガナッシュ」

「はい」まだ肩の震えがおさまらない。羊人に威嚇された恐怖の一瞬が吐き気がするほどに生々しくて。「すいません、ちょっと…驚いてしまって…」

 腎臓の奥に血流が引っ込んでしまったみたいに指先が蒼白になっている。僕はバレないように後ろに手を組み、まず写真を見てくださいと頼んだ。

「写真、ああさっき君が持っていたこれか」

「何やダン、俺にも見せんね」

 それには被害者が倒れていた厨房が、犯行直後のままの画像記録を留めている。

「まずガスコンロですが、どうなっていますか?」

 牛人の太い鼻面と、獅子人の矩形の顔が互いに場所を取り合いその一葉に額を寄せる。

「鍋がかかっとるが、火は消えようごたるな。まあこれは現場検証んときには消しとって当たり前やが」

 とはギョレメ。

「しかし湯が沸いているな。きっと特製の麺スープを作る途中だったのだろう」

 と食べ物を連想する先生。

「そこで、この電話を取ってみてください」

 「私が取ろう」「いや俺が先に」「何をする私は探偵なのだぞ!譲りたまえ!」「なんば言いよっとかこんアホタレが!」「アホと言ったな!そういう者がアホなのだ!」

 …と、大人二人がたわいないことで前後を争いすったもんだする。これもまあ、現実というわけだ。

「あっ、警部の奥さんの写真が落ちたのだ!」

「なっ、どこや?」

「いただき!」

 先生が受話器に飛び付いた。しかし耳を当てるとすぐに「うわだっ」と顔をしかめて離してしまう。そして次に牛人が引ったくる。

「何やこれ、少しもいっちょん聞こえんやなかか」

 僕は頷く。「そうです。現場を死体が発見された当時と変わらない状態にしてもらったからですよ」さっき電話で頼んで、ガスやその他のスイッチ一切を再現させてある。

「ゴオゴオうるそうてよう聞こえんぞ。何やこれ、換気扇か?」

 これまたイエスだ。「写真にも載っていますが、鍋をかけた状態であれば、当然換気扇は使っていますよね」そこでもう一度テープを回す。

「…換気扇の音がしていない…」閃いた獅子人が嬉しげに顔を上げる。「そうか!犯人は厨房ではないところから110番したのだな!」

「はい。たぶんお湯はカモフラージュなんでしょう。氷を入れた鍋を火にかければ、沸くまでの時間を稼げます。現場から逃走しておいて、あとは隣人が(これも恐らく習慣で定時になっているのだろう)ゴミを出すのに合わせてさりげなく目撃されればいいんです」

「そういうトリックやったとか……どうやパウロ=ハン!いさぎよう白状せんね!」

 は、は、は…とパンクしたタイヤのように力無く笑いながら、パウロは椅子に崩れた。

「……理由は、やはり料理なのだね」

 もはや抗弁は無駄だと観念し、羊人はコクリとうなだれる。

「私には店を任せられるだけの才能が無いのは分かっていた…だが一生兄の下に敷かれてこき使われるなんて真っ平だった…独立したけれど店は閑古鳥、資金は底をつき尾羽打ち枯らして…」

 …何だかどこかで聞いたような話になってきた。先生をチラっと確かめると、もっともらしく頷いている。分かっているのだろうか、僕達の探偵事務所と、この供述の類似点に…

「あの兄の考え出した特製の麺スープ…そうだ探偵さん、あんたが絶賛したフカヒレ麺…あれだけでも作れたら風向きが変わると考えた私は…」

 そしてパウロは忍び込んだ。勝手知ったる彼の実家へ、完全に兄のものとなった『好好酒家』の厨房へ。

 そこで兄弟は運悪く鉢合わせになった。兄は涙を流してひざまずく弟の嘆願など露ほどにも意に介さず、冷酷な態度で警察を呼ぼうとした。

 太く結ばれていた血の繋がりのぶんだけ、パウロの絶望は深かった。さらに、そこにはありとあらゆる刃物があった。パウロの兄の弟子達の手で丹念に研ぎ澄まされた、銀色の調理用具の数々が。

 冷たい怒りに忘我の状態でパウロが握ったのは、皮肉にも自分が幼い頃、誕生日のプレゼントで兄に渡した庖丁だった。

 その一品を贈られた頃は兄弟の中に溝は存在せず、パウロの兄は庖丁を握って間もなかった。まだ自分専用のものも与えられていなかった兄はパウロからのプレゼントをことのほか喜んだという…

 その想い出の包丁で、二人がともに修業に明け暮れた家族の厨房で、兄弟殺しの罪、この世で最も重い罪の一つを犯してしまったのだ………

 パウロは現場に細工をし、戦場を駆け抜ける伝令のごとく深夜の街を自転車で突っ切り、自分の家で110番をかけ、強盗が実家に入ったように見せかける一人芝居の一幕ものを演じたというわけだ。

「先生の勘も鋭いですね」鼠人に引かれていく羊人の、数分で30は歳を食ってしまったような曲がった背中が廊下の先に消えて、僕はやっと一息つける気分になった。「当てずっぽうは探偵として正しいとは言えないと思いますが…」

「うむ。霊感インスピレーションと言って欲しいのだな」

「そういう問題じゃないんですけど…でも感じるところに何かしらの根拠はあったんでしょう?」

「知りたいかね?」

 え、いえ別に。と否定しようとした僕に、大柄な犬人はいきなりしゃがんで両肩を掴んできた。

「私がただひとつ、他に抜きん出て優れていると会長から褒められた特技なのだが」

「うわ、先生、顔が、ちょっと」

 ダイオナイザ=ダンテスの意外と鮮やかで綺麗なブルーグレーの瞳がグッと近付いてきて、一瞬何かされるのかと僕はじたばたしてしまった。

「ふむ。疑念、不信、侮りといったところなのだな」

 何ですか唐突に…!と飛びすさる僕に、のっはっは、と先生が笑う。

「相手に寄り添い、気持ちを共感するのだよ。それだけでもたくさんのことが分かるのだな。相手の皮膚に接触タッチすることで伝わってくる不自然な感情の動きや、こまやかな心理の一端などがね。噛み砕いて言うなら、筋肉の張り具合や微妙に変わる匂いや、場合によっては汗の味とか色々なのだ」

「………汗の、何ですって?」

「だからほら、ベッドの中で女性と…」

 あ、しまった、君にはまだ早かったのだな!と先生はわざとらしく咳をして話を切る。

「何だか聞いてると、まるで東洋の『気』の思想のようですね。それなら文献で調べてみたこともありますけど、胡散臭いって印象しかありませんよ」

「私のやり方は他の探偵とは違うのだろうなあ」

 それは多分にあると思う。だってさっき言った僕の疑念にまつわることだって、先生でなくともわかることじゃないだろうか。

「しかしね、探偵をやっているうちに、割と忘れ去られてしまうのが直感と共感なのだ。推理という四角ばって精彩に乏しい論理の技巧に溺れてしまうのだな。君もパウロの件では学んだことがあったのだろう?」

「そうですね。まさかあんな風に感情を爆発させるなんて思っていませんでしたから」

「だろう!それなのだよ!」

 僕は自分の腕を持ち上げて肘を曲げ、二の腕に力瘤を作ってみた。精一杯力んだけれど、ペコンと平べったい筋肉が申し訳程度に盛り上がるだけ。

「僕も先生みたいに身体を鍛えた方が良いんでしょうね。これじゃあ、またさっきみたいに犯人が暴れたときに困るし」

「………」

 先生は深いため息をついて首を振った。そして、違うのだよ、と呟く。

 何がでしょうと尋ねたかったけれど、そこへギョレメ警部が慌ただしく走ってきて僕と先生の腕を捕まえた。

「悪い、今度は是非ともお前達ん力ば借りたか!」

「おいおい、そんなに急いでどうしたのだね。私達は逃げも隠れもしやしないぞ。当面取り立てに追われる心配もないしな、のははははは」

「笑っとう場合やなか!市長のお出ましたい。いいからこっちゃ来んね!!」

 筋肉の塊のような牛人に引きずられながら、やっぱりトレーニングしなきゃ、と僕は思っていた。



蛸橋オクタブリッジ広場に昨夜設置されたばかりの市長…クラウディオ=エンフィールド氏の胸像が何者かに破壊されたんや。そんでその犯人は見咎めた警官をハンマーで殴打した挙句に、相手を運河に突き落として逃走、警官は意識不明の重体。それでやな」

 蛸橋広場は別名を八方広場という規模は小さいが美しい人工島である。名は体を表すの例に洩れず、八本の新旧の様式が混じる橋を延ばす、花崗岩で舗装された、シラクサでは一番古い広場だ。

 シラクサ島の複雑な海岸線には、大きくえぐりこまれた形の湾がある。人工島はちょうどその中央にあり、シラクサの陸路のバイパスとして重要な位置を占めているのだ。

 広場はシラクサ奥地に炭鉱が開かれた時の最初の船の荷下ろし場で、石炭が掘り尽くされてのち交易都市となったシラクサの、そもそもの成り立ち、由来を示すシンボリックな場所でもある。

 広場の愛称になった生き物の姿そのままに、レンガ舗装の円形の敷地に現在架かっている八本の橋。問題の像はその交点である、広場のど真ん中に据え置かれたとのこと。

 これは荒っぽい愛郷者パトリオティミストの多いシラクサっ子が黙っている話ではない。

 広場はたかだか個人が足跡をつけるべきではない。魂の拠り所であり、彼らの聖地なのだから。市長といえども、いやシラクサの代表であればなおのこと、自己主張すべき場所ではなかった。

 拘置所が満杯というわけでもないのにこんな場所で取調べをするのはなぜかというと、その像を市民のコンセンサスを無視してひたすら強引に設置させた市長の息子が事件に関わっているのだという。そんな背景があることもあいまって、会議室には剣呑な空気が満ちていた。

「単純に言えば、こん二人のうちどっちが犯人か判定して欲しかっちゃよ」

 痩せてはいるが筋肉のついた身体を、飾り釘だらけの袖なしジャケットとごつごつとした革のパンツで鎧う狼人の青年が、警部の科白に頭をもたげる。

「俺は犯人じゃねえってば。ずっとヴィチェと一緒にいたし、親父の像なんか知らねっつの」

 すかさずプードル系犬人の老いた女性が繋げた。

わたくしが致しました。下品な像を市民の広場に打ち立てる氏の矯慢に我慢ならなかったのです」

 同時に口を開いた二人は、揃わぬ科白で無罪と有罪とを訴えた。

 羽織るコートと同様、年季のいった信頼感に溢れる探偵の私(貧乏くさいと言うなかれ)ダイオナイザと、品のよろしい大店の丁稚のような見習いのガナッシュは、互いに顔を見合わす。そこにはおかしな陳述に対する怪訝な表情が共通していた。

 取調べを落ち着いて進行させるために、私とガナッシュは市長の反対側、テーブルの短辺に座した。

 テーブルの、私たちから見て右側の奥には、ヴィチェという名のガールフレンドといちゃつく10代狼人の被疑者。そして左側の手前には、聖職者と一緒に蝋人形のように微動だにしない老境の犬人の被疑者がいる。

 口火を切ったのは同席した人間の中で最も若いガナッシュだった。

「この事件は公共物損壊、公務執行妨害、及び致傷の罪名が科されるものです」

 まず基本的な手順としてガナッシュは、手帳・万年筆・ルーペの探偵三種の神器を自分の前に用意した。二人に交互に顔を向けつつ口上を続ける。ボーイソプラノの子供が大人を尋問する、真剣さと滑稽さが同居した光景に私は思わず吹き出し、全員から睨まれた。

「被疑者は二名、ヒューバート=エンフィールド氏とマレリー=マーシャル女史。これより僕、探偵ガナッシュ=コントラバーユ及びダイオナイザ=ダンテス両名による尋問を開始します。先生、よろしいですか?」

 私は重々しく頷く。見守っているのも先輩たる者のつとめ。けして、いいだろうか、けして自信がないからとか質問形式等を忘れてしまったからではないのだぞ。そこを誤解してもらっては甚だ困る。私に問答の主導権を渡されても、これまた…困る。

 ついでだが、この小さく愛らしいチーター人の後輩が、私の名前をあとにして口上を述べたことに、私はこの時気がついてはいなかった。

 それよりも、この聞き覚えのある二つの名前に唾を飲み込み、己が手を揉みしだき、聞くべきか聞かざるべきかという問題に逡巡を重ねていたのだ。

 ええいままよ、それが一時の恥だとしても、辛抱して僥倖を打ち捨てるよりもましだ!

「あ、あのだな!女史、貴女は、その、かの詩集『硝子の丘に吹く風』の筆者であるところのマーシャル女史であられるのだろうか?」

 私の時と場所を慮らない質問に、女史は戸惑いながら首肯する。

「ええ……いかにも私はその本を書いた者ですわ」

 おおお、ののののの!これはなんと!!と、意味不明な奇声とともに拳骨を握ったり開いたり、肘を広げたり閉じたりするせわしない私の様子に、ガナッシュは触れたら切れそうな視線を投げてよこす。

「ファン魂は捨て置いて、落ち着いて話を進めましょう。鬱陶しくてなりません」

「うむうむ、のふふのふ」

 いやあ、思わぬところでご贔屓の作家と遭遇してしまった。目を細めている私にヒューバートが「何あんた、このオバサン知ってんの?やめてくれよ、えこひいきしてそっちの神父サンの肩持って俺を陥れるとかさあ」とのたまう。

 しかし、私はこちらの方も知っていた。

「ヒューバート君、君のことも知っているから大丈夫だよ。ここ数日とある事情であちこちに忍んでいたのだが、そのうちの一つのライブハウスで君と君のバンドの演奏を鑑賞したのだ。ハッキリ言おう、君達は大したものだよ」

 もっとも、ゆったりと膝に指を組んで聴いていたのかというとそうではない。いつ取立人が私の身柄を求めて殺到してきてもいいように、非常口のそばで終始立っていたのだ。

「だから私はどちらかの肩を持つようなことなぞしない。なぜなら、二人ともがそれぞれに素晴らしい芸術家なのだからな!」

「へーへー、そうですか。それはドーモ」

「過分な評価、恐れ入りますわ」

 ガナッシュが不機嫌さを隠しもせずに私のズボンをペンの尻でついた。うむ、黙るとしよう。

「事件当時のお二人の挙行証明アリバイと、証言者の方はお話を順にお聞かせ願えますか?」

「さっさと済ませてしまえ、ヒューバート」

 シラクサ市議会の重鎮たる狼人、クラウディオ氏はことのほか静かに激昂していた。浮き上がった血管が肉の削げた額にのたくり、奇怪スパイシィな顔貌がよりいっそう風合いを増している。毛並みの禿げてきた両耳の間から、しゅわしゅわと毒素を帯びた陽炎が立ち昇っているかのようだ。

 普通なら[[rb:赤血球色素>ヘモグロビン]]の緋色に染まるであろう面色を緑紫に変えているところを鑑みると、クラウディオ氏の血液は私の肩の上、お気に入りの場所でくつろぐ甲虫Mr.ジャクソンと同じく、青みがかった色をしているのだろうか?なのだとすれば、昆虫の青血球色素ヘモシアニンを持つなど稀に見る特異体質だが、はてさて。

「ワシはこんなところにはあと30分も居らんからな。この島シラクサの反対側で商工会議所の連中と視察会の予定が詰まっているというのに、くだらん用件にかかずらわっていられるか。このままではまたぞろ資本提供者が4・5人、首を吊ってしまうぞ」

 それを聞いた息子のヒューバートはけれん味たっぷりに肩をすくめた。

「おーげさでやんの。たかが飯食って酒飲んでくっちゃべって終わりのアゴアシ付き慰安会じゃねえか」

 そんな息子にクラウディオ氏はとても第一親等かつ保護者とは思えぬ憎々しい視線を射かける。

 青年…というよりかは少年の境界線上にいるヒューバートは、父親の威厳をせせら笑いで受け流した。「ンじゃあ俺からいこっか?」ポケットから噛みタバコを取り出してクチャクチャやり始める。

 お願いします、と頭を下げるガナッシュに、にやりと口元を歪めて語ることには…

「俺は昨日は午後3時ぐらいに起きてぇー、そっから飯食ってバンドの練習に行ってぇー、一旦家に帰って荷物置いてから10時にはヴィチェが働いてるレコードショップに行ったぜ。で二人してアパルトマンに着いたのは11時ぐらいで、あとは今朝まで一緒にいたんだ」

 ガナッシュが速記の手を止め「一緒にいる間、すぐ休みましたか?それとも何かして」と問いかけたので、私は彼の科白の根元に素早く別の質問を[[rb:接>つ]]ぎ木した。

「外出などはしていないのだね?」

 私に肩を押さえられたチータ人の少年が、予期せぬ邪魔に目を大きくしているが、これまでに見せた性格からも、お茶を嗜みながらボードレールについて語り合ったり、バックギャモンやチェスなどに興じることを選ぶような二人ではあるまい。それよりもベッドに横たわることを優先させるであろう方に、私はこのコートを賭けてもいい。

 ヒューバートに蛇のように絡みつくヴィチェ嬢は、私の予想通り、ケラケラと小馬鹿にしたような視線をこちらへ走らせた。

「まっさかぁ。するわけないでしょ?週末の夜中に、ウチにはラジオもレコードプレーヤーも冷えたレモネードのピッチャーが入った冷蔵庫もあんだから。ねぇ?」

 ヴィチェの最後の一言は、ヒューバートへのキスで締め括られた。彼女の所有になるのは一家庭にあるにしては贅沢な品々ばかりだが、それはレコードショップの店員の給料が一流商社の部長クラスであれば賄えないこともなかろう。もしくは、小切手をティッシュ代わりにポケットに突っ込んでいるような、政治家の息子がパトロンであるのならば。そう、例えば若く魅力あふれるヒューバートのような。

「ヒューバート君、きみがバンドの練習に借りていたのはどこなのだね?」

「んー、糸杉通りんとこの貸しスタジオだったな。あ、そっか」尻ポケットをごそごそやって、自分の父親の毛皮と同じくたびれきった領収書を取り出した。「ラッキー!着替えてなくて良かったぜ。あんたが欲しいのってコレだろ?」

 なんの変哲もない、強いていうなら数字が金釘流に書きなぐってあるレンタルスタジオの領収書だ。私が見た後、ガナッシュもそのかろうじて判読できるサインを確認する。「16時〜22時ですか。随分熱心なんですね」と、物言いたげな視線を絡ませてきた。

「ちょっと早めに上がったから、そこんとこ間違えんなよな」

 壁際にいた警官を一人呼び、裏付けを取るよう指示するチーター人。私はさっきからモソモソと落ち着かないでいるMr.ジャクソンに、常時携帯している目薬容器から彼の大好物の桑の花の蜂蜜を飲ませてやる。

「警部、市長の像が破壊されたのは何時頃なのだね?」

「大体22~23時前後といったとこやな。負傷して運河に流れよった警官が見つかったのがそんくらいでな」

「ケルビーノは、22時10分に、無線で広場の胸像に悪戯わるさを働く不審者がいると無線で報告しているのであります」

 全体で一個の生命として活動する生物さながらに蠢いていた警官の小山から、ひときわ真面目そうな山の字眉毛のイタチ人が進み出る。

「奴は日頃から規律に背くことも無く、規範に準じて業務をこなしておりました。ですので本官の推測ではありますが、不審者に注意したのはその報告の直後、そして頭部を殴打され15番線に落下したのも、その時間からそうズレてはいない筈であります」

 ギョレメ警部に「『筈』とか警察が言うっちゃなか」と釘を刺され、その警官は無駄のない動作で敬礼をする。警部だって自分の発言の煮え切らなさは棚に上げていると思うが、警察もまた役所の一つだ、縦割りの力関係については仕方あるまい。

「あの、先生」ガナッシュが私の袖をチョイチョイ引っ張る。「15番線って何ですか?」

「ああそうか、君は今日来たばかりなのだものな。シラクサはね、一般のボートや水上バスが通るような大きな運河には名前がついていて、それより小さなものは番号で呼ぶのだよ。そうでもしないことには市内に張り巡らされた交通網を整理しきれない」

「なるほどそうですか」

 ガナッシュは小さな頭に知識を詰め込んで、ふるいにかけるように頷いた。

「となると、もしも不審者と実行犯が同一でない場合には、その運河のさらに上流から別の理由で投げ入れられたとも考えられるんですね。その警官が人事不省から回復すれば容易く真相は分かりそうですけど、被疑者の父親が政治的な圧力をかけているので時間がない…と」最後の方は呟きとなってガナッシュの紅いチョッキの襟ヒダに消えた。少し尻尾をいじって眉根を寄せ、呟くような科白を漏らす。「ミノコス刑事法下の制度によると、ひとたび釈放されたら別件を理由にするのでない限り、再度拘束するには煩雑な手続きが要ります。もし起訴できず、その間に島外に出られたらアウトですね…」

 被疑者、そして立ち合っている警官にはばかり、私も声量を落とす。

「警察も面目がかかっている。おいそれとは嫌疑のある者を手放すことはできない。だから我々という調停役が欲しかったのだな。後日マスコミから権力におもねったと難癖をつけられないように」

 ガナッシュも私の言葉をさとく受け取り、「僕達は体のいいラインズマンというわけなんですね」と頷く。

 どうもさっきから妙な雰囲気だと思っていたが、そういうことだったのだ。

 まずイタチ人をはじめとする警官達は、仲間の一人が手酷い暴力を受けたのを根に持っている。だから二人のうちどちらが犯人だろうと、権力あるなしに関わらず逮捕しようと息巻いているのだ。

 市長はそんな集団に、さも下級官吏めらがと言いたげな侮蔑に満ちた嘲笑を向けている。札束で票を買い占めると評されるその性格からして、たとい息子が犯人であったとしても金の力をもってして優秀な弁護士を雇うのだろう。この場合の優秀とは、事実をねじ曲げ詭弁とイメージ戦略で裁判を煙に巻く能力のことを意味する。

 警部はといえば、警察の意地と縦割り行政の最高権力者の間で板挟み。その苦しさには憐憫を催さずにはいられない。平等な正義の体現者であり、その名のもとに自由であるべき官憲が、社会的な序列によってがんじがらめになっているとは皮肉なものだ。

 私が溜め息をついているうちに、何か考え付いたらしいガナッシュが次の尋問を開始した。

「では次に、マレリー=マーシャルさんのお話をお願いします」

「はい。早く済ませてしまいましょうか」

 優雅というより厳直な態度で瞑目していた婦人は、待ってましたとばかり唇を舐めた。

「あたくしは、昨夜ゆうべは『慎みと清廉を知る女性による権利集会』に講演を持っていました。

 会はつつが無く閉幕し、立食パーティーでお恥ずかしながらシャンペンをすごしすぎたもので、御免遊ばせ、あたくしでもそういうときがあるのですわよ…頭の火照りを冷まそうと散策しておりましたとき、くだんの広場にさしかかったところ目に入ったのが、いやらしい、感性の欠片もない、さもしい、自己賛美に鼻が曲がりそうな石像でした。あら御免遊ばせ、市長さんの御尊顔でしたわね。

 それで兎に角、ついカッとなり酔いに任せて柄にもなくこの痩せ腕を振るってしまいました。そういう理由なのです。御免遊ばせ」

 いちいち慇懃に市長に対して頭を垂れるのだが、それがどうもいけない。「御免遊ばせ」の回数だけ市長の額に怒りの静脈瘤が増えていく。

「でも、あの若いブルドッグ系の犬人の警官の方には悪いことを致しました。ですから、贖罪の意味も込めて駆けつけてきた警察の方達に自首したのです」

 被害者の系統については、書類と食い違いはない。28歳が若いかどうかは、そうだな、諸君の主観に任せるのだ。

 ガナッシュが手帳にしたためるペンに淀みはない。

「貴女はご自分で手ずから像を破壊し、なおかつ被害者を負傷させ運河に突き落としたと認めるのですね?」

 勿論ですわ、と頷く女史に、隣から神父が異を唱えた。

「彼女の言っているのはでたらめだ。犯人はそこにいる若者に相違無い。私は彼女とは長い付き合いだから分かる、他人を傷つけるようなことができる女性ではない。主の御名のもとに宣誓する。彼を庇う理由は分からんが…」

「黙ってください。尋問中です」

 ガナッシュがぴしゃりと放った探偵としての言葉の刃に、スカッツィガ神父の胸のロザリオが、彼の傷付いたプライドの代わりにキィンと震えた。

「順番がきたら必要なことをお話しください。それまでは、僕の話を遮ったり、脅しや個人の推測も含めて、発言を謹んでくださいますようお願いします」

 神父の牙が噛み合う寸前でカタカタ…と鳴っている。今にも神の御名を持ち出してガナッシュを非難しそうな勢いの神父に、私が割って間に入る。

「神父、彼はなにも貴方の証言を握りつぶそうとしているのではないのだ。探偵協会の規則にのっとっているだけなのだよ。どうか腹立ちをおさめてくれないだろうか」

「……………分かっている!」

 これ見よがしに呼吸を整えたあと、スカッツィガは腕を組んで苦々しげに私達から顔を背けた。

「ガナッシュ、君もだね、もう少し言葉遣いには気を付けたらどうなのだ。相手は君より目上の、しかも聖職者なのだぞ」

「十分やってるじゃないですか。探偵協会の規約ルールはちゃんと守っています。それとも相手が宗教家だから下手に出ろとでも?そんなことで恣意的に扱いを変えて良いのですか?」

 私は「いやそうじゃない、そうじゃないのだ…」と首を振る。どうしたらこの子に分かってもらえるのだろう?

 探偵には、探偵であるためには、欠かしてはならない要素があるのだということを………

「とにかく尋問を続けます。貴女は、具体的にはどのような方法で像を破壊せしめたのか、かかった時間などを含めてできるだけ詳しく教えてください」

 女史は、ええ、と顎から咽喉への曲線に人差指と中指で軽く触れて喋りだした。彼女の身体の他の部分はほとんど静止するなかで、先程からしきりに見かける咽喉をさぐる動作。厳しく躾られたろう古風な上流婦人ブルーブラッドだのに、無くて七癖、とはよく言うものなのだな。

「あの物体…胸像の破壊に用いたのは小槌ハンマーですわ。あの広場は老朽化した第1の橋の架け替え工事が行われているでしょう?その工具が落ちていたもので。私はまるで魅惑的な魔剣に吸い寄せられたように、つい拾ってコツコツと。

 あらかた壊してしまうまで一時間はかからなかったと思いますがしかとは憶えておりませんの。ただ、さすがに腕が痺れましたわ。

 そうこうしているうち、無価値な岩石から芸術を生み出す彫刻家のように無我夢中に槌を振るう私の肩を、後ろから乱暴に捕まれて、驚きのあまり軽はずみにも相手のかたをしたたか殴打してしまいましたの。

 ああ、あの像には少なくとも制作者がいらっしたのですわね。そのかたには御免遊ばせ」

 凶器はどこに、と警部へ問うガナッシュに、警官の一人が錫のトレイに乗せた鋼鉄スチールハンマーを持ってきた。

 まずゴムの手袋をはめて私が持ってみる。軽い。振り降ろせばブンと唸って風を切る。羽ボウキのようだ。こんなもので削ったのならば、なるほど時間もかかるだろう。

「先生、僕にも貸してくださいよ」

「ああ。別にこれといって怪しいところのない道具なのだな。軽いし」

 次にガナッシュに槌を渡すと「わ、わたとっ!」と危なっかしくよろめいた。テーブルに落としてしまわないのがやっとこだ、といった様子で両手で支える。

「こっ、これが軽いですって?」

「ほんの5〜6キログラムなのだろう。そんなに重たそうにするなんて、君は少し鍛える必要がありそうだな」

「………!」

 ガナッシュは幼顔に牙を覗かせるほど大口を開いて何か言いかけたが、かぶりを振って小槌をトレイに降ろした。持ち上げるのは諦めたようで、立ててみたり横にしたり裏返したりし、墨粉パウダーで固定された指紋を崩さぬよう丹念に調べ尽くす。

「ここにある指紋は誰のものですか?」

「ハイ、被疑者マレリー=マーシャルのものであります」警部に促されるまでもなくイタチ人が答えた。間延びした感のある他の連中のしゃべりとは違い、ハキハキした口調。群れるのが特性のシラクサの平警官の中で彼は異彩を放っている。「検出された指紋は、全て同一人物の、すなわちマーシャル女史のものだけです」

 生まれたばかりの赤ん坊の肉球色の、我が脳髄のひだの奥。そこへ唐突に1つのインスピレーションが閃いた。

 私はガナッシュを見やる。チーター人はオデコをポリポリやりつつ思案げに唇を噛んでいるだけ。

 のふふ、どうやら今度は私が先にゴールしたらしいな、後輩君!勝ち誇った内心を表情に出さぬよう気を払いながら、私は切り出す。

「それは少しおかしいのではないかね」

「おかしいって何がや。俺ンとこの鑑識の仕事にケチつけよるとか?オオ!?」

 言うが早いかギョレメ警部が文字通り角を突き立ててすごい剣幕になる。

「警部、訛り、訛り!」

 私は詰め寄る牛人をなんとか押し止めた。

「あー、ウッホン、ダンテス君…君の考えを皆さんにも分かるよう説明しろ」

 私は小槌の頭の方を持ち上げる。

「このグリップには確かに私が敬してやまない詩人、マーシャル女史の指紋があるのだという。しかしだね」

 ちらりと辺りを見回して、一拍。ここ!これ!こういう余韻を上手に作れることこそ長年探偵職についてきたキャリアの賜物なのだよ、ガナッシュ!

 私は、チーター人の少年が憐憫と軽蔑の入り交じった半眼になっているのに気付かなかった。

「私の記憶が確かなら、つい昨日も工事が行われていた筈なのだ。それなら人夫の指紋も残っているのが普通じゃないかね?」

「んーと…つまり何が言いたかか?」

 両の目玉を小さな・にして首を捻る牛人に、噛み砕いて言い直す。

「この小槌は、一度表面をきれいに拭い、その上で新たに指紋を付けられた可能性が大なのだよ!」

 語尾がついフォルテになってしまった。だがこれくらいは許されるだろう。

 おおお、という反響が10分の5、沈黙が10分の4、がっくり尻すぼみな嘆息が10分の1。

 私の説に警官は(キョトンとしているイタチ人をのぞき)潮が満ちるように賛嘆の声を増し、被疑者・証人・市長はだんまり渋面を作り、そしてガナッシュは尻尾も耳もへたりこませた。

 おや、おかしいのだぞ。ここは満場一致で拍手喝采雨あられであるべきなのに?

「あの…よろしいでありますか」

 イタチ人が鬼教師の授業で関数の定理に異論を唱える生徒のように、おそるおそる挙手した。

 どうぞなのだ、と私は威厳をたっぷりきかせて重々しく促す。

「探偵殿に本官ごときが意見をするのは忸怩じくじたるものがありますが、探偵殿は労働法に定められた安全基準はご存知でありましょうか」

「ろ、労働法?」

 知ってはいる…なんと言っても私は192343ページに及ぶミノコス六法全書を養成所時代の三年間で丸暗記した男だぞ…正確にはその、目次だけなのだが。それからあとは、文章中にはアルファベットで言ったらAとEが多いことも。これは授業中の時間の大半を費やしてカウントしたのだから間違いない。

 ただ、この偉業に賛同し私と共に挑戦してくれた友人は、二回留年したうえ中途退学に至ったのだが。

「ああ、まあ、その、私が言うまでもないだろう?どうぞ君の口から言ってみたまえなのだ」

「はあ。では」平警官は視線で警部に了解を取る。「…労働者が危険な作業に従事する際は、防具の着用が義務付けられております。その内にはヘルメット、防塵マスク、手指保護用品も含まれるのであります」

 ははあ、と私。警部もポカンと開口、やたら大きな歯並びを見せている。

「本官どもは警らで市中を巡回しているのでよく目にしておりますが、あの橋の工事におきましても人夫らは皆、手首まで覆う手袋を支給されているようでありました。ですから、…凶器に付着しておりますのが被疑者マレリー=マーシャルの指紋のみであっても、不審ではないかと思うのであります」

 さしもの私もこれには参った。「うーん、なるほどねぇ」と腕をこま抜いて気付く。10分の4の沈黙を示した面々は呆れていたのだ。あるいは一般常識すらおぼつかない探偵に、ものも言えないくらいショックを受けたに違いない。

「だからアタシの彼氏は犯人じゃないって。ま、そのババァがヒューバートに恩着せようっていうのはあるかもしれないけどね」ヴィチェ嬢が真っ赤な唇の隙間からのぞくうぐいすのような舌で毒を吐く。「年甲斐もなく色目なんか使っちゃってさ。鏡で自分の使用済み紙オムツみたいな顔確かめてみろってのよ」

 この発言が放たれるやいなや、スカッツィガ神父の毛皮がたちまち剣ヶ峰をなした。毛筋の一本一本が、磁石に毛羽立つ砂鉄の如く音を鳴らして立ち上がる。

「言葉を慎め薄汚い淫売が!彼女を侮辱することは許さんぞ!」

 雷鳴のような一喝に怯んだ娘は、がしかし反撃に転じる。

 暴言の予感。私は咄嗟にガナッシュの耳を塞いだ。

「何よ、そっちこそ有難い神様に仕えてるくせにほざいてくれるじゃないの!…あぁそれともあんた、もしかしてこのブス女に惚れてる?『彼女』なんて言うからには、そうなんでしょ?ハッ、お似合いなんじゃない?頭どころかあそこにまでカビの生えた神父様と、岩みたいなき遅れとでヨロシクやってれば?クソババアのヒビ割れた∪Ω∪(許すのだ諸君、私にはとても原文ママで表記することはできない)のすすでも、アンタの股の間にぶら下がったハタキでキレイにしたげたらぁ!?」

 こ、これはなんとも手厳しい。一言一言が短剣と変じて女史を的に飛んでいく。止めなければ、と思うが「あー、うー、あれなのだ、それなのだ」と然るべき仲裁のキメ台詞が出てこない。そうこうするうちにもがいていたチーター人が私の手を振りほどき、そしてまたもや鋭く二人のいさかいに待ったをかける。

「ヴィチェさん、落ち着いて。神父、どうか、いま少しご自重を」とガナッシュは二人を椅子に戻らせ、「貴女は何をもってそういう風に感じたんです?」と娘に促した。

 乱れた呼吸で肩を上下させた後、ペッと唾を吐きヴィチェ嬢は応える。

「あれは何日か前だったっけなあ、ヒューバートハーブの新曲が自家制作のテープになった日に、ウチの店で面倒があってね」

「揉め事ですか?」

「ま、そういうことなんだけど」

 それから再び老婦人に向けられた視線は、世塵から隠れて久しい淑女を観察する眼というより、観光地の特殊なスポットに落ちている成人向け衛生用品を見るもののように刺々しい。

「このババアが、店長がハーブのために刷ったポスターが欲しい!とかごねてさ。手製オリジナルだから勘弁って言ったらどうしたと思う!?」

 どうか同じものをもう一枚と頼み込んだのだろう。という私の読みは外れた。

「その皺くちゃのゲジゲジババア」憎い相手に呪いをかける魔法使いよろしく、マニキュアに染まった長い爪を女史に向ける。「こっそり画鋲をぬいてガメようとしたんだから!」

 おやおや。今度は私はスカッツィガ神父の肩を抑えなければならなかった。

 これに対し、女史は物憂げに背筋を反らして訂正する。

「そのことは店長さんに申し入れて承諾を頂きましたわ。あのポスターは扇情的に過ぎて、いささか問題がありましたので、『慎みと清廉を知る女性による権利集会』の代表として下げさせてくださるよう請願したのです」

 女史は二人の繰り広げる攻撃と擁護の言い争いの渦中にいながらも、さらさらと清流のごとく語る。だが若い黒ずくめの娘を見やる彼女の瞳の中にもまた、溶かし得ない軽蔑が氷のランタンとなって灯っていた。

「ウソばっかついてんじゃないよ!店長がそんなこと聞き入れるわけないだろ!このババア自分に都合のいいことばっかり言いやがって!!」

 女史を引き裂かんばかりに鉤爪を出して迫るヴィチェ嬢。警部は後ろから彼女を羽交い締めにし、私は神父が突出してこないよう女史の前に立ちはだかった。

「まあまあまあ、気ば鎮めんね。おい、お前らこの娘さんを控え室に連れて行け!」

 なんだよ触るな!ヒューバートハーブと同じ部屋の空気をそのババアに吸わせんじゃねえよ!…などなど、それはもう怒涛の悪口雑言、呪詛罵倒の限りを尽くしてヴィチェ嬢は部屋を移された。

「さて」私は万年筆にインキを足している小さな助手の肩に手を載せた。「ガナッシュ、尋問を交代したいのだが、いいかな?」

「あ、いえ、まだ…」

 ガナッシュはクルリと全身で回って、市長エンフィールド氏に向かい、その石像はどこまで氏に似せて造られたのか、と問うた。

 氏はよく聞いてくれたとばかり胸を反らし、口の向かって右側の奥の金歯がギラギラ光るほど頬を緩ませた。

「それはもう金に糸目をつけず、最高のベルガマ大理石を用いて、寸分たがわず現在のワシそのままになるように造らせたわい。髪の部分など石の色を変えてだな、デザインから何から島一番の彫刻師にやらせてやったぞ」

「そうですか」とガナッシュはなぜかエンフィールド氏のなけなしのたてがみがハタハタとはためくチョビ髭面をためつすがめつする。と、いきなり何を思ったか手帳に速記文字を書き込み、そのページを破って警官に何事かを言いつける。

「ガナッシュ、何か調べさせるつもりなのだな?」

「先生の耳を煩わせることではありませんよ」

 チーター人は小さめな鼻先をフンと言わせる。そこに蔑笑をひっかけていたような気がするのだが、きっと気のせいだろうな、うん。

 ものはついでなのだから、と私も警官の一人に、とある物品を持ってこさせるよう要請した。

 もし、万が一、私の推理というか勘が正しければ、たった一つの質問で罪無き咎人とがびとが助かり、白々しい嘘の衝立に隠れていた罪人の姿が露呈するだろう。あるいは天地が逆転するかもしれないが。

 この事件の立証に関しては、幼いが理知的な後輩に委ねよう。私が知りたいことは別にある。ーーーいや、知らずにはいられないのだ。それは事件の犯人確定などではなく、つまり事件の理由ではなく、もっと…魂に関わるもの。人間の理由なのだ。そのためにはどうしてもある資料が必要なのだ。

 ーーー私が探偵であるために。

「先生の番に代わりましょう。どうぞ、ご自由になさってください。僕はもうあらかた準備できてますから」

 ほうほう、この子は真実有能な後輩であることだ。

「ときに警部、確認したい点があるのだが」

 なんや藪から棒に、と牛人の肩が一段と傾く。相手を威嚇する種族的本能だ。

 私は動ずることなく尋ねる。ただし、声のトーンはこれ以上できないほどに落として。

「被疑者の青年と市長はあまりにかけ離れた外見をしているのだ。彼の母親はよほどの美女だと私は考えるが?」

「貴様はほんに役に立たん事ばっかり勘ば働かしよるの」ケトルの蒸気のような鼻息をつき、こちらも声量を低めて話す。「あいつん母親は元々は市長の愛人の一人でな、その界隈ではちっと鳴らした高級娼婦やったんや…ってガナッシュの坊主がおったな、俺達ん言っとうことば気にせんでおけよ」

 ガナッシュは涼しい顔で手を振る。

「お気遣いなく。それはちゃんと探偵学校がっこうで習ってますから。娼婦、コールガール、売女とはすなわち、欲求不満な男性の性行為において相手をする女性のことでしょう?」

 私は警部の丸い小さな目がこんなに大きく開かれたところを見たことがない。

「…ダン、こん餓鬼ァほんに貴様の後輩か?出来が違いすぎよるばってんが、末恐ろしいわ」

 私は万年筆のキャップを回しながら推理を巡らせているガナッシュの小さな頭にため息をついた。どうやら、彼には色々と教えるべきことがあるらしいのだな。

 まあ、それはさておき。

 さて、私残されたなすべきことをせねばならないようだな…



 先生の大柄な体躯がマーシャル女史に歩み寄る。僕、ガナッシュ=コントラバーユは、ダンテス所長が相手の年齢も構わず変な誘いでもするのかなと思っていた。

 包み隠さず言うなら、それ以上のことができるとは信じていなかった。少なくとも探偵の生業なりわいに類することはできないだろうと。

 これまで僕が見せつけられた現・探偵協会シラクサ事務所長ダイオナイザ=ダンテスの所業、能力、為人ひととなり。そのどれ一つをとっても僕を落胆させずにはおかないものだった。現会長の実の孫だというから抱いていた淡い期待、その香水の効き目も雲散霧消した。

 先生は拳から一本だけ指を出し、唇に当ててもっともらしく考え込んでいるポーズ。多分僕の推理とあの人の想像…妄想と言わないだけ気は使ってる…は全く異なるものだろう。

 それにしても本部は何を考えているんだろう?ああ、なんでよりにもよってこんなところに僕を配属させたんだろう?お母さんに初めて送る手紙の内容が転属希望についてだなんて、暗澹たる気分にさせられるじゃないか。

「さて、ここで一つ女史にお願いがあるのだが」

 ようやく口を開いた先生。どんなとんちんかんな質問が出てきてもいいように心の準備を整えておこうっと。

「Mr.ダンテス 。そのように紳士的になさらなくてもよろしくてよ。堅苦しいでしょうに」

「そうはいかないのだ。それに、貴女のように慎み深く敬虔なご婦人には、私がこれからしてゆくお願いは多少なりとも不快になるとは思う。それについてはよろしくご理解願いたい。それではまず…」

 生まれながらにそうすることを躾けられてきた自然さで、獅子人は女史の手を恭しく取り上げて告げた。

「この手袋を外して頂いてもよろしいか。そちらのもう片方も、なのだが」

 誰もが一瞬首を傾げ、僕が一番早くその意味に気がついた。

「そのようなことであれば、いくらでも聞きましょう」

 そしてプードル系の中年女性は使い込まれてはいるが上質な品物に違いない白絹の手袋から両手を抜いた。

 改めて女王に対する臣下のごとく、その両手を取り、やや高く支えて所長は静かに確認する。

「豆ひとつ無い美しい掌ですな。さらには繊細で、ペンだこが右の人差し指にあるだけなのだ。皮膚の充血も、腫れも無い」ここで僕の方を見る。「それに貴女の腕を量るところ、そこのガナッシュと筋力はおよそ同等。凶器として使われたあの金槌で等身大の石像の顔面を打ち崩すには、いささか力不足なのではないかな?」

 僕はつい唇を噛んだ。こんな人に先を越されるなんて、なんて屈辱だ。油断した!

「そんなことはありません。貴方、私を女と思って見くびっておいでなのでは?」

 女史はそう抗弁したものの、声がかすれ、引っ込める指先が震えていた。牛人の警部も、警官の人達も、神父も市長もみんなそれに気づいている。

「掌の件については必要であれば医師をび意見を聞きましょう。それともうひとつ、お願いがあるのだ」

「………………なんでしょうか」

「そのスカーフとチョーカー、首に巻いた装飾品をすべて取り払ってもらいたいのだ」

 女史はキッと視線で切り返し、これ以上の詰問には弁護士の同席を求めると宣言した。それは、この尋問が幕を開けて以来彼女が見せた初めての攻撃的な態度だった。

「ガナッシュ!」

 唐突に先生から名前を叫ばれて僕もうろたえた。

「は、はい?なんですか?」

「今の女史の要求に法的反論を!」

「…はい、えーと、ミノコス六法のうち、探偵免許に関わる規定において、警察署内での尋問に探偵は弁護士の同席を必ずしも必要としない、とあります」

「それだけか?」

「えー、えーと、さらに捜査に関わる尋問中に反抗的な態度をとる者、またはそれを助長する行為に対して罰則を規定しています」

 先生はにっこりと笑う。しまった、僕としたことが、なんだか知らない間に乗せられてしまった。

「どうかな、マーシャル女史。いまここでその召しものチョーカーを取って頂かないことには、いずれにせよ貴女は犯罪者と扱わざるを得なくなってしまう。それを望むところと思し召されるとしても、強制的に外させる恥を我々にかかせないで頂けないのだろうか?」

 女史は総てを覚悟しているのだろう。もし警官達が無理矢理衣服をその肌から滑り落とさせたとしても、恨みはしない心づもりをしているように僕には見える。

「…御免遊ばせ。貴方達に恥をかかせることと、あたくしの名誉には何の関係も無いと思いますわ」そして肩を竦める。「いわんや犯罪者とされても、もとから罪人ですし」

 名誉?布切れ一枚外してくれというのが、そんなに重大な要請かな?僕は万年筆のクリップを己が頬にこすりつけた。

「拒否される気持ちは分かるのだが、貴女は誇り高い女性であるがゆえに、他人の名誉をも尊重するものだと私は信じている」

 部屋の四方から警官達がジリジリと迫り寄るようにプレッシャーをかけていた。女史はそれに屈したというよりも、先生の物言いに根負けしたというそぶりでスカーフとチョーカーをさらりと外した。

 大人達が、ある者はのけぞり、ある者は身を乗り出し、会議室はにわかに騒がしくなる。僕は、こんな大勢の人間がどよめくのは生まれて初めてだった。

 女史のおとがいの下に慎ましやかに現れた地毛。首筋全体は老境のかもした染みが出ているけれど、まだまだ白いと言えるそこに、ぽつんと浮いている親指大の模様。

 それは見紛うかたもないしゃれこうべーーー髑髏形の印だった。

「おい、なんだよ!」

 椅子を蹴って立ち上がったのは他でもない、ヒューバート=エンフィールド。もう一人の被疑者。

 そして誰もがそちらを振り返り、誰もが息を呑む。

 僕も警部も、市長も神父も警官達も、年若い狼人の咽喉仏の上に、注目の視線を矢のあられのごとく集中させる。

 ヒューバートがそこに持つものも、髑髏の形そのままの黒い模様。彼の不良としてありきたりなくらいまっとうな人格パーソナリティにふさわしい烙印のようにしてそこにあるもの。

 それと寸分たがわぬ同じ模様を、道徳教本の文章の化身のようなマーシャル女史が顎の下に持っている。

「た、探偵、こ………これは、つまり…?」

 スカッツィガ神父が幾度も科白につかえながら、あまりに非対称な二人を見やる。その後の言葉がなかなか出てこない。いや、分かってはいても出したくないんだろう。

 だから僕が言及した。

「つまり血縁による遺伝でしょうね。ね、先生?」

「うー、あー、うん。遺伝なのだな、いでん」

 先生も神父に劣らずしどろもどろで(恐らく記憶の中の生理学のノートが忘却の虫に蚕食されていて遺伝の法則を引用できないんだろう)仕方がないので、僕が疑問の解答を引き受ける。

「毛皮や瞳の色と同じように、黒子や痣も遺伝の法則の支配を受けることがあります。その法則について今ここで詳しく注釈を加えることは避けましょう。ここまではっきりと特徴が出ているということは、ヒューバート=エンフィールド氏とマレリー=マーシャル女史のお二人に何らかの血縁関係があることは疑いようがないでしょう。そうなりますと」

 丁度、僕と所長が言いつけた各々の資料の包みを持った警官が戻ってきた。いい頃合いだな、と僕は猫科の人間特有の口元の長い毛を伸び縮みさせる。

「動機そのものが引っくり返されますね。市長クラウディオ=エンフィールド氏の胸像を破壊し、警官の一人に瀕死の重傷を負わせるに至った真相も別の見方をしなければならなくなりました」

 本当は、瀕死に至るほどの傷というわけではないけれど、このほうが言葉のインパクトが増すので敢えて僕はこう言った。

「まずは血縁の方からただしてゆくのがよいのだろうな」

 所長が片手で僕を制し、主導権をとる。今更偉ぶったってなんの意味があるんだろう?早く犯人を突き止めれば良いのに…

 まあいいか。結論は変わらないし。ため息一つ、僕は先に女史に尋ねた。

「マーシャル女史。貴女と、ヒューバート君の関係は?」

 瞳の焦点をテーブルに落ちる自らの手の影に据え、犬人は答えた。その眼差しには寸分の揺らぎさえ無い。

「妹が…ルーイーズが、市長…エンフィールド氏の妻にあたりますわ」

 市長の妻とは、元・高級コールガールの、つまりさっき先生が話しづらそうにしていたヒューバートの実の母親のことだ。

「ルーイーズが!?馬鹿な、あれは天涯孤独の身の上とワシに常々言っておったぞ!!」

 女史と反対側の席で、市長は激昂していた。普通だったら意外な縁戚の登場で驚愕するところだろう。ところが、氏は嫌悪と怒りで牙を剥く。行動の微妙な違いに過ぎないが、その反応はこの男の傲慢な性格そのものを表していた。

 対して女史は、淡々と事実を述べた。「あの子が厳格な父を嫌って我が家を飛び出したのは20数年前。私が文芸誌に投稿した一篇のソネットをもとに詩才を世に認められ、出版社のお世話になり、発表を続けるために街に出て来るまでは、一度たりとも連絡はありませんでした。それがあの子にとってのマーシャル家に対する愛着の程度なのですわ。マーシャル家は島の奥で代々オリーヴ搾油業を営んできた、職人の一族。…エンフィールド氏の妻になるには、泥臭すぎる家名を抱えているのは不都合だった。ただそれだけです」

 またしてもザワザワと警官達が揺れた。その胸中を見透かし、「分かっていますわ。皆さん、妹と私はあまりに外見がかけ離れていると思われたのでしょう。似ていないのは当然です。あの子…ルーイーズは、父と再婚相手の、私にとって二番目の母との間に産まれた娘なのです。母親違いの妹なのです」と微笑んだ。

「まったく…」いびつな鐘を転がすような呻吟とともに椅子に沈み込んだのは、誰あろう市長本人であった。「あれは…そんな嘘をワシについていたのか…」

 係累の存在を隠していたのは大した事ではないと僕は思う。まあ、この会議室での数十分の間、敵対的でこそあれ友好的とはとてもいえなかった相手が、自分の事実上の身内だと判明するのは少しショックだろうけど。

「なるほどそうですか。市長の妻ともなれば、ファーストレディという事ですねえ。勿論、生活も派手にできるでしょう。そこら辺は幾分結婚の事情に含んでいるかも知れませフガッ」

 僕は最後のフレーズで先生に優しく口を塞がれた。いきなり何を!と見上げる僕に、獅子人は有無を言わさず人差し指を立て沈黙を勧める。

 僕を黙らせたまま先生が話し始めた。ずるい!

「さて………ルーイーズ夫人ならば彼女の婚姻以前に私も2・3回お目にかかったことがあるのだが、それはもう女神のような美女だったよ」

 よ、の部分でその邂逅を反芻する陶酔の表情で僕を見降ろす獅子人。先生の感想など僕の知ったことではない。

「なるほど………そがん事のあったとなら、女史がアホボン…ごほん、失敬…ヒューバート君を庇っている可能性も、グワッと大になるわけやな」

 警部はヒューバートを睨んだ。青年は涼しい顔でそっぽを向き、女史は改めて「犯人は私ですわ」と漏らす。

「いやいやマーシャルさん、ばってんがあんたこっちのヒューバート君の伯母でしょうが。そいも、あんたにはその血の繋がりが分かっていた。何も感じんなんてこたぁなかでしょう」

 そこで今度は被疑者の父親が、見えない竹を断ち割るような仕草で口を挟んでくる。

「確かにそこの醜女しこめが息子の叔母に当たるということは信じよう。だがなギョレメ警部、それがどうした?息子の無実は揺るがんぞ。ワシはもうこれ以上待ちきれん!いよいよ時間は差し迫ってきている。これ以上の拘留には即刻告訴をする!!」

 まずい。さっきはハッタリでごまかしたけど、そろそろ弁護士を呼ばれて告訴されるのもやむない拘束時間だ。決着をつけないと!

 僕は「先生、先生」と特大サイズの獅子人の上っ張りを引っ張った。「尋問についての反抗ならともかく、商用などを理由に解放を求められたらとどめ置くことは困難ですよ」

「うん。論法の課目は私は苦手でねぇ。ずっと赤点続きであったのだ」

「余計な情報はいいですよ…それで、どう立証するのです?先生にはもう犯人はどちらかお分かりなのでしょう?」

 胃の奥底からむかつくことに、先生は鷹揚に頷いて「私の尋問はここまでなのだ。後は君のお手並み拝見といこうかな…できるのだろう、ガナッシュ?」と片目をつぶってうそぶいた。

 ずっと年下である僕に向かってよくそんなことが言える、この無能が!………などと叫んでやりたいのはやまやまだけれど、これも探偵協会の面目のためだ。僕はぐっと堪えて我慢した。

 警部、警察官の群れ、2人の容疑者、神父に市長。彼らが結論カタルシスを待ち望んでいるせいで、会議室の空気が熱く煮えたぎっていた。

 ギュッと手を握り、尻尾の付け根に力を入れる。これは僕の初の大仕事だ。なんせ、政治家の息子を犯人として挙げるのだから。

「お待たせしました。それでは最後の質問に移りたいと思います。ところで僕は先程、こちらの警察官に頼んで資料を取って来てもらいました。その一つがこれです」

 机が高いので、僕は伸び上がってトレイからを取り上げる。先生もまた、自分で頼んだ封筒をつまみ、こちらには背中を向けて隠すようにして中身を読んでいる。

 僕が頼んだうちの一つは、何の変哲も無い地方新聞。こういう田舎の印刷物の常として、やたらに良質の紙とインキを使用している。大手はそんなことをしなくても誰もが読むので、昨今は大概が再生紙だ。

「こんな子供に真相究明を任せるというのか。シラクサ警察も地に堕ちたな」

 市長の無礼な慨嘆に、何かの資料を懐にしまった先生が吼える。

「心配御無用!私はともかく彼は優秀なのだぞ!!」

 そんなこと、頼むからここで言わないで欲しい。黙っていて欲しい。いや、もう未来永劫あの所長の椅子から動かないでいて欲しい。僕は真昼の天空に輝きを隠している自分の守護星へ届くよう、心の中で切に願った。

「さておきまして。マーシャル女史のほうには、美観を損ねる胸像に対しての憤懣と、傷害の容疑をかけられた甥であるヒューバート氏を庇うという動機が追加されました。ヒューバートさん、貴方は?」

 頭の後ろに手を組んで、傍観者然と決め込んでいた狼人はバランスを崩して椅子から落ちかけた。

「は?俺?」

「はい。貴方以外にヒューバートはこの部屋にいませんよ。貴方が父親の胸像を打ち壊す理由は?」

「んなもんあるかっての!こう見えて俺はいつだって、小遣いをたんまりはずんでくださってる親父様を尊敬してるんだぜ?その石像をわざわざぶち壊すなんて面倒めんどいこと、する理由わけがねえよ」

 探偵学校では行動心理学の履修が必須である。そして僕は、最高点ではなかったけれど平均点以上を常にキープしていた。

 この狼人の、鼻先を細かく掻く仕草や左斜め上を見やる目つき、身体の前の腕組み、抑揚の偏った話し方などなど。

 そのどれもから、漆喰壁に塗りこめた屍体の血のように嘘の色を滲み出している。

「そうですか?アンプ、ギター、その他の物品の購入と管理、それにメンバーの飲食代、スタジオ代…バンド活動は軌道に乗ってきたものの、まだまだ先立つものには余裕が無い状態のようですが?」

 んなっ、何でそんなことが分かるんだよ!と泡を食う相手に、僕はしれっと警官に調べさせた資料のうちの銀行口座の残高を突きつけた。

「先月まで続いていた月頭の振込が、なぜか今月は中旬にさしかかる今日まで行われていません。そして、この通り残高はかつかつ。このままでは、あなたが貸りているアパルトマンの家賃も滞納してしまうのではないですか?」

 家賃のくだりで僕は先生を見たが、獅子人は僕の嫌味をまぶしたまなざしにいっかなこたえた様子もなく、もっともらしくウンウンとただ頷いている。

「お、おいちょっと待てよ!確かに親父に仕送りは止められてるぜ、けどよ!俺が金欠なのと石像をぶっ壊すのと、全然関連性が無えだろう!?」

 ヒューバートが僕の胸ぐらに掴みかかり、先生がその腕を激しく弾いた。

「落ち着きたまえヒューバート君!小さい子に手を上げるのは紳士のたしなみとは言えないのだぞ」

「小さいは余計です…この記事によれば、市長の石像には本物と同じ威厳をそなえさせるため、ある高価なものを嵌めたそうですが?」

「高価なもん?なんやそれ?」

 今や完全に標準語の皮がはがれたギョレメ警部が身を乗り出す。

 そこで僕は新聞を朗読した。開いて三面には、紙面の半分がたを割いて『名士、胸像を寄付』という提灯記事が載せられている。

「…“氏の胸像、ことにその容貌かおのありさまは精緻にして高雅、彫刻家フラーノ氏の傑作であることは疑いようもない。氏は制作にあたり、あくまでもリアリティの追求をせんと、市長の下顎の左側に嵌まる金歯までを忠実に再現したそうである。興味のある読者の諸兄諸姉、是非蛸橋広場へ足を運ばれてはいかがだろう…”」

 誰もが一斉にエンフィールド氏の吝嗇けちそのものといった顔を確認した。氏はハッと口を手で隠す。ただの反射だろうけど、その何気ない行動と瞬間の目つきは完全に守銭奴のものだった。

「…金歯か。そいなら納得いくな」

 警部の呟きに、ヒューバートは泡を食って否定した。

「いや待てよ!俺もそいつぁ知ってたけどよ、そんな記事を読んだら像を壊して中にある金歯を狙おうって魂胆の野郎がうじゃうじゃ湧いてくんじゃねえの?それをたまたま知ってたからって、やったのが俺だってことにはならないだろ!?そんな乱暴な決めつけがあるかよ!!」

 若い狼人の科白のすぐ後に、女史は、毅然として自ずから胸を指して宣言する。

「そうですわ。下手人は私です。その記事を読んで、ならばそこにある金歯を我がものにしようと考えたのです。今となれば浅ましい所業でした」

 僕はそれとなく警部と先生に対して、女史の発言に耳を傾けるようアイコンタクトを送った。

「なるほど。マーシャルさんは、記事を読んだことも犯行への決意を募らせる原因であったとおっしゃるのですね?では、その金歯は、どうされました?」

「下品な像からくり抜いた後、すぐ運河に棄てました。よく考えてみれば、私には換金するための手段が無く、それに第一に憎い人間が金にあかせて用意させた品ですもの、やはり所持していたくはございませんわ」

 なるほど、と僕は頷いた。そして伝えた。

「この記事は、昨日の夕刊ではありません。本日の朝刊なのですよ」

 一瞬の間を置いて、二人の被疑者が…いや、真犯人とそれを庇おうとした一般人が、各々の痛恨のミスを悟る。

「言わずもながやけど、ここにおるこん二人は、二人ともが昨夜から身柄を抑えられとる。そいけんが、新聞だの雑誌だの見る機会は与えとらん。当たり前やな」

 警部は腰に提げた警棒の把手を無意識に握り締めた。もう今にも無礼な態度で官憲を侮り続けた狼人に飛びかかりそうだ。

 僕はまず女史に問いかける。「マーシャル女史、貴女はこの記事を読んでいないのに、なぜそれを動機に胸像には金歯があると確信したのです?」そして市長の息子に「貴方が読んだという記事を実際に目にする機会は無かった筈ですよ、ヒューバートさん」と断言した。

「彼が犯人なのではありませんわよ、小さな探偵さん。私は貴方の誘導があったので、先程はつい読んでもいない新聞を読んだと言ってしまいましたが、氏にそっくりの胸像ですもの、顔を見てその卑しい口を飾る価値ある金属に気づいてしまったのですわ」

 なおも食い下がる気高い女史。

「ですから、警部さん、早く私を逮捕してくださいな。もう充分でしょう?」

「ええ、もう充分です。マーシャル女史、今の発言で貴女の無実ははっきりと証明されてしまいましたから」

「え?」

「クラウディオ=エンフィールド氏は、胸像の製作にこう注文をつけていたのです。“…表情についてはできるだけ凛々しく、強い意志を主権者が感じられるようにデザインしてほしい。ついては、唇は引き締め、笑みなど不要なものは排してよしとの氏の指示により…”、と。つまり、口は閉じた状態だったのですよ。貴女が大理石と漆喰とコンクリの奥に隠された金歯を見つける可能性は、エックス線並みの視力でなければゼロです」

 しかり、ここで犯人は特定されたのだ。一方は無実の人間が間違えるであろう点につまずいた。一方は犯人しか知り得ない点を口走った。

 ヒューバートは像の顔面を砕いてその内側に埋まった物まで見ていた。女史は像の内側どころか、恐らくその外側もまともに見てはいなかったのだろう。

「今のお二人の言葉は、ここにいる皆さんが証言してくれるでしょう」

 かっ、かっ、かっ………と、ヒューバートは喉を詰まらせた。異様な事態に父親も色を失い、その意外に引き締まった背中に手を当ててやる。

 市長の息子の狼狽ぶりは激しく、しかしすぐにおさまった。頭だけ重力に負けたようにガックリうなだれたかと思うと、急に気が触れたようにケラケラと笑い出す。

「ヒューバート、お前は…」

「あぁーあーあ。バレちまったかぁ。もうちょい引っ張って、うまくいきゃあこのまんま島外に逃げてバックレかませるって思ったのになぁ」

 エンフィールド氏の毛並みが怒りのためにドス黒く染まり、端からザワザワと波打った。

「ヒューーーバーーーーーーート!!」

 逞しさなど微塵も無い肉体からほとばしる、叱責。地震かと思うほど床が揺れた。会議室全体が恐れおののいて動き出したように。

 女史は眼をみはり、イタチ人の警官ただ一人を除いて鼠人だらけの平警官は首をすくめ、さしもの警部もスカッツィガ神父も黙り込む。

 僕もよろめきそうになったけれど、先生が上から僕の上半身を支えてくれた。「頑張れガナッシュ。君の新任第一日目の、ここが大事な踏ん張りどころなのだぞ」と有難い励ましも添えて。

 ………それは有難かったのだけど、でも、ひとこと言わせてもらいたい。いくら先生の身体が大きいからといって、僕のことを孵卵中のペンギンよろしく股下に庇うのは、まるで侮辱みたいじゃないか。許しがたいことだ!

 ヒューバートは怯みもたじろぎもせず、父親をせせら笑いながら神経を苛立たせる響きの口笛を吹く。

「るっせぇな親父。ンな青筋立てて、いちいち怒鳴りつけんなよ。現市長の肩書きが泣くぜ?大体さぁ、あんたが悪ぃんじゃねぇか、俺の夢を邪魔しやがって」

 そこからヒューバートが語った経緯いきさつは、僕の引いた予想の枠組を大きくはみ出すことは無かった。

 高校を留年・退学し、大学進学のための証書試験バカロレアも受けず、只ひたすらにロックバンド一筋に打ち込んできたこの年若い狼人にようやく訪れた転機。シラクサのレコード店に置かれていた彼のバンドのテープに目をつけたという本土のインディーズレーベルのプロデューサーが、そちらでのデビューを持ちかけてきたのだ。

 しかし、彼とバンドの仲間達にとって願ってもない申し出には、幾つかの条件が添えられていたのだ。

 一つ、これまでのバンド発表曲をテストアルバム用として編曲し直すこと。編曲に関する指示はこちらで受け持つ。

 そして二つ目に、アルバムタイトルを飾る精魂込めた新曲を作成すること。

 この二つのうちいずれが欠けても認められない。以上をもってデビューを飾る準備を進めるので、20日以内に当社へ上奏して欲しい。

 昨日の正午、レーベルの営業担当を名乗る女性が、本土からわざわざ足を運んできた。打ち合わせはシラクサで一番大きな市場のコーヒースタンドの脇のテーブルで行われ、彼女はシラクサ一安く芳しいカプチーノのカップに手を付けるそぶりも見せずに前述の条件を切り出した。

「こちらとしても、シラクサの埋れた俊英と、かねてからその存在に目を置いていた君達を売り出したい。そのためには既出の曲目にアレンジをつけ、更にアルバムタイトルとなる未発表曲を新たに付け加えるという体裁が、より望ましいのだが?」

 やり手の雰囲気を全くさせない公務員のような地味なスーツのシャム猫人の女性は、神経質に眼鏡を拭いてそう要求した。

 また、これは一つのテストでもあった。プロとして与えられた期間にそれなりの曲を作ることができなくては、どこのメジャーレーベルも相手にはすまい。

「我々は君達がタイムリミットに打ちのめされ、このチャンスをフイにする可能性があることなど、杞憂であることを信じている…」

 底光りする眼鏡の奥の瞳はとても意地悪く、その点だけは業界人としての抜け目なさを匂わせた。

 実のところ、シャム猫人の営業担当本人ではなくそのレーベルの新人発掘担当者(恐らくベテランではない)が惚れ込んでくれているわけで、本土どころかシラクサでもぽっと出の扱いなヒューバートらにとっては、こんな誘いは千載一遇の大チャンスなのである。

 しかしなんとも間の悪いことに、ヒューバートの父親の市長が、それまで潤沢に提供し続けた資金…つまり彼のバンドの生命の綱である…「小遣い」を打ち切る、と宣言したのも同じ昨日のほぼ同時刻だった。

 ヒューバートは椅子にさらにそっくり返り、長く伸ばした前髪をざくりと掻き上げる。

「いやー、あんときほど親父に腹立ったことは無いね。ムシャクシャしてムシャクシャしてさぁ、臭い口に便所掃除用のモップでもブッ込んでやろうかってなもんさ」

 父親の懐を頼り、蕩尽とうじんに蕩尽を重ねてきたヒューバートには、まとまった預金など一銭も無く、楽器の調達も収録も彼に一から十までおんぶしてきたバンド仲間といえば、たった一回のセッションのための場所を用意する甲斐性すら無かった。さりとて彼にも彼の財布にも甘えてきた半同棲中の恋人に泣きつこうにも、服飾への費やしが過ぎて貯金どころか借金まで負っている始末。

 アリバイ証明として僕と先生の前に出した貸しスタジオの領収書は、日付が空欄になっていたところに自分で記入しただけの過去の代物だったのだ。

「八方塞がりさ。貸しスタジオの社長にもさ、結成の時から贔屓にしてたんだから今回ぐらい無料ただで使わせろ、っつってもなんでだかシカトされてよ」

 大方それは、彼の横にいる父親、激昂のあまり牙を食いしばる口元から血が垂れてきているクラウディオ氏の横槍がちらついたのではないだろうか。彼が一言息子のバンド活動を妨害しろとほのめかすようなことを口にすれば、シラクサで商売する者はそれこそ将軍の命令を下知された古代ローマの兵のごとく逆らえまい。今後の選挙でも市長としての再選を志す父親としては、ドラ息子に本腰を入れて勉学に励んで貰う機会を与えたつもりなのだろうから。

「そんでま、景気付けに部屋でヴィチェとよろしくやった後、なんとなく一人になりたくて酒瓶片手に夜の街を歩いてたらさ」

 どこをどう歩いたのかは覚えていない。ただ、湧いてくる怒りのままに自作の歌をがなりながら彷徨しているうちに、吸い寄せられるように蛸橋広場の愛称で呼ばれている、あの広場に出たのだ。

 建てたばかりの台座にふんぞり返る、憎い父親の胸像。まるで立体化された映像のように実物と瓜二つ、というのがまた良くなかった。腕の悪い職人が片手間に作ったものであれば、いかな彼とてそばに積み上げられた機材から金槌を取り出して打ち壊しにかかるなどしなかったろう。

 ーーーー貴様のしていることは只のお遊戯だ。作詞だか作曲だか知らんが、どれも幼稚過ぎて童謡にもならん。ワシの敷いたレールに従って、粛々と進めば良い。脇道に外れず大人しくしていろよ。

 まるでこう宣言されたみたいだった、と狼人は眉根をきつく寄せる。

「この指先はよ、俺にとって唯一の宝物だからな。勉強はからっきし、働くのは大嫌い、努力なんざ犬にでも喰われちまえって俺が、ギターを弾くことと歌うってことだけは人一倍にやれる。ーーーーーやりたかった。たったこれだけなんだぜ。俺が、俺自身が持ってるもんはよ」

 両手を愛おしげに見やり、くしゃりと唇を歪めた。

「親父の金とか権力とか俺の見てくれだとか、ライブハウスはこの連中はそんなもんに関係無く純粋に俺の曲に、歌に酔ってくれんだぜ。あれが俺のこの世に生まれて初めて味わった本物の幸せだった………ステージに上がった時に分かったんだ。俺にはこの先これしかねぇんだ!って。これさえありゃ、俺はーー俺はーーーーー!!」

 一度言葉を切って、狼人はへへッと浅く笑う。

 自分の天職。これなら生涯を掛けても良いと信じられる、命よりも大切なもの。僕にとってのそれが探偵であるように、この人もそれを見つけたんだ。だから、指を壊すようなことは絶対にやりたくないんだろう。そのこだわりは理解できる。

 犯罪者に同情の余地は無いけど。

「んっとに悪趣味だよなぁ。なぁオバサン、マーシャル…とかいったっけ?あんた?あんたが耐えられないっつのも分かるぜ。しばらく顔も見てない親父のしみったれたツラがこう、立派な台座の上でデデーンと偉そうにしてるのがムカつくんだよな…おまけに、あの像は硬くってさぁ。掌に豆はできゃしなかったけど、顔面をすっかり崩しちまうだけでも2時間ぐらいはかかったぜ。マジで自分でもよくやったもんだと呆れちまうね。実は今日は少し指が痺れて気持ち悪いんだ」

 自分の恋人のヴィチェが女史に毒液のような言葉を浴びせるのをほったらかしにしていたくせに、自分から話しかけたのは、ひとえに己を庇うこの人物が得体が知れずどうにも気色悪いからではないだろうか。

 女史の方も、会合で飲みすぎたアルコールの熱を飛ばすために、一人で散策していた途中で広場に立ち寄ったというのは本当なのだろう。犯行に立ち会っていたからこそ詳細な説明ができたのだ。もしかしたら警察官への暴行を止めることができたかもという罪悪感がそこで芽生えたかもしれない。

 女史は控えめに顔を背けた。ヒューバートは独壇場を続ける。僕はふと疑問を感じた。女史は、なぜこの甘ったれの政治家の息子を庇ったのだろう?本当に、この犯人が血を分けた甥だからという点が一番の理由なんだろうか?汚名をかぶってまで偽証し、探偵の目を欺こうとしたのは親族愛からだけなのか?

 何かが、僕の左脳の論理のひだの隙間に引っかかっている…

 警部が気を取り直して口を挟んできた。

「胸像に嵌められとった金歯はどがんした?まだ持っとるんか?それとも売り払いよったんか?おう?」

「…はじめはガメて、どっかでカネに換えちまおうかと思ってたんだけどよ 」

 そこでヒューバートは、宙に向かって手首を軽くスイングさせる。

「運河に棄てた。あんまムカついてたから。そこのオバサンはそれをどっかから見てたんだろ?」

 さらりと言い放つヒューバートの頬を、市長が電光石火の素早さで叩いた。打ち抜いた頬から噛みタバコ混じりの唾が飛ぶ。

「この恩知らずの馬鹿者が!あの像に一体幾ら遣ったと思ってる!?」

 知るかよそんなん、と鼻を鳴らすヒューバート。警部はあまりといえばあまりに程度の低い親子喧嘩にげんなりしつつも「9月15日、13時7分、犯行自白」と告げて彼に手錠をかけた。

「動機は下らん、実に下らん。が、そがんもん関係なか!!貴様が俺の大事な部下を手にかけた償いはたっぷりさせてやるけん、覚悟せぇよ!!」

「そのことでありますが」トレイを持ってきた警官が言う。一回外に出て戻ってきたらしい。「殴られて運河へ転落した警官が、先刻息を吹き返しました。確認したところ、首に髑髏の紋様を持つ狼人の若い男にやられた、と供述しているそうです」

「…なんだ、あのマッポくたばってなかったのか。そうか」

 ヒューバートがホッ、と小さく、ほんのわずかに胸の空気を抜いた………ように、僕には見えた。

 警部が「そがんね!」と嬉しげに頬を緩める。そしてそれとは裏腹に、憎むべき狼人の手首をひねり上げ、連行の姿勢をとった。

 ギターより重いものを持ったことのない犯人の手首をなんの気なしに眺めていた僕は、そこにあるものに目を留めた。そして悟った。

 女史がヒューバートを庇った理由。彼のポスターを壁から外したがった理由。そして今もなお口を閉ざしている、ある事実を。

「お待ちください警部、皆さんも。真の真実を、裏の裏を見てみたいとは思いませんか?」



 全員が立ち上がり、退室の寸前の状態でいた。そこへ投じられるチータ人の男の子、ガナッシュの疑問詞は、哀れな犠牲者に瞬時にして絡みつく蜘蛛の精アラクネの糸のようにこちらの動きを封じる。

「この事件の真の問題は、誰が石像を壊したかという点にはありません。なぜ偽りの犯行自白があったのか。それに尽きるのです」

 得々としてガナッシュが周囲の大人達を挑発した時、私ことダイオナイザ=ダンテスはいい加減な屋台で調理された不味い揚げ物が胸に詰まるような不快感がこみ上げてきた。

 まずいな、と思った。推理に関する私の予感は外れることにかけて定評があるが、人の間に起こりうる感情的な事柄にかけては、あやまたず的中するのだ。

「おいおい坊主、そいはもう終わったばい。後は調書に記録して検察に送るだけやろうが」

「いいえ違います。それでは片手落ちです。警部、貴方は変に思わないのですか?親族とはいえ、甥の起こした事件に首を突っ込み、その罪を被って下手人を逃がすような行為を、礼儀を重んじる常識人がすると思いますか?もっと大きな要因があると用意に予想できるではありませんか。そこに」まだ小さな手指を揃え、チータ人は女史の右手首を示した。「ーーー一つの有力な証拠があれば」

 やはり気付いたか。私も先程彼女が手袋を外した時に察知していた。

 女史の秘密。女性の真実。女というものの業深さ、情の重み、私達男に比べてしまえば飴細工よりも儚い尊厳というものを。私の右手が、数枚の紙片を呑んでいるコートの内ポケットをまさぐった。

 私のコートのポケットをわずかに膨らませているのは、私自身が警官にことづけて持ってこさせた書類だ。そこにはまだ目覚めのベルを聞いていない過去が記されている。その眠りを妨げべきではないのだ!

 窓を照らしていた陽光ひかりが巨きな影に遮られた。折しも署の上空に飛行船が近づきつつあり、眩しいほどだった室内がまるで夕暮れのような翳りに包まれる。

「マーシャル女史、貴女の手首の三点痕は、L5型肝炎のワクチン注射の痕ではありませんか?」

 今度こそ、女史は震え上がった。その痩せた脚が体重を乗せるをいとい、くらくらと卒倒せんばかりに椅子に寄り掛かる。スカッツィガ神父が支えるために素早く寄り添わなければ、本当に転倒していただろう。

「…答えられませんか。それは事実、ということですね。もちろん調べればすぐに分かることです。

 そしてヒューバートさん。貴方の手首にも同じものがありますね。…しかし、貴方の母親の女性には、恐らく手首の接種痕は無かったのではありませんか」

 ガナッシュが市長へ向き直り、市長の禿げかけの頭部の毛並みをまたもやざわつかせる。

「違いますか、Mr・エンフィールド?」

 ぐむむ、と市長が喉を詰まらせる。それと言われなければ見落としてしまうような痕のこと、市長の妻の記憶には、手首がどうだったかと断定するだけのビジョンがないのだろう。

 だが私は、このダイオナイザ=ダンテスはそんじょそこらの男とは違う。たとい夫が気にもかけず見落としてしまう特徴のあるなしであったとしても、それが女性のものであれば寸分の狂いもなく正確に憶えているのだ。

 私が止しなさいと口を塞ぐ前に、ガナッシュは青年に指を突きつけて告げた。

「L5型肝炎は、シラクサ内陸部における極めて土着的な風土病です。肝臓の門脈の細胞に潜伏し、低い確率ですが肝癌や門脈閉塞を引き起こす原因となる恐ろしい病気でもあります。そして、僕の知るところでは、主な感染経路は胎盤経由、つまり母子感染ということです」

 その言葉の意味が集められた人々の耳の奥、脳髄に達し、論理を司る左脳の細胞のことごとくを激しく動揺させるのが目に映るようだった。

「ガナッシュ、もういいのではないか?充分なのだろう」

 何がです?と少年は反抗的な視線で私をふり仰ぐ。

「探偵は真実を追求し、解明し、社会へ知らしむる事が職責です。これは僕達が解かなければならない謎じゃないですか」

「う、うむ。なのだが、これ以上は…」

 先生には役不足、口を出して頂くには至らない問題ですよ…と、まるで出来のいい生徒がボンクラな教官を小馬鹿にするかのようにガナッシュは私を蚊帳の外に置いた。

「皆さんが分かりやすいように説明しましょう。この肝炎の根治薬ができたのはヒューバート氏の生まれた年とほぼ同じ頃です。そしてその時点で感染していた、もしくは感染を疑われる総てのシラクサ島民に、政府主導による無料のワクチン接種が行われました。これは僕達のように探偵でなくとも国内で医療に携わる者ならば誰でも知っている史実です。

 ご存知のように、マーシャル女史とヒューバート氏の母親であるところのルーイーズ夫人は腹違いの姉妹です。ということは、胎盤感染の経路は違っても当然。そして、ルーイーズ夫人に罹患・治療の経歴が無いとすれば、市長夫人と市長令息、この二人の母子関係を肯定する道は、閉ざされます」

 私は記憶を手繰るまでもなく、数ある社交パーティのとある場面を引き出す。

 壺から流れ出した糖蜜のような亜麻色の髪、ショーウィンドーの宝石を透かしたような青い瞳、情欲を燃え立たせざるを得ない茫洋とした微笑をたたえた美女。ナイトブルーのカクテルドレスに身を包まれたルーイーズ夫人の熱い掌を、触れた瞬間の彼女のえも言われぬ痺れに似た肌の余韻を、今もそこにあるかのように感じることができた。

「ーーー再調査するまでもないのだぞ、ガナッシュ。夫人は、私が亡くなる前にお目にかかった際にも、その手首に肝炎ワクチンの注射痕は無かった。断言する」

 私はコートのポケットからシラクサ保健所のワクチン接種記録を取り出して全員の目の前にかざした。そこには、小さくマレリー=マーシャルと記載されている。できればこれは隠したままでいたかったのだが…

 私は眼の端でヒューバートを観察した。彼は気丈にもショックに耐え、ただ背筋に力を入れて俯いている。

「ーーー今度は悪い冗談か」

 市長はテーブルも割れよとばかり拳を打ち付けた。

「ここにいるこいつは、ワシが18年もの歳月、貴重な資金を惜しまず与えてやったこの餓鬼は、ワシと妻の子ではなく、この奥地育ちのほうき女がどこかの馬の骨とつがいになってひりだした赤の他人だということか!!」

 女性に対するとんでもなく無礼な発言。私は自分を押さえつけるために精神力の大半を削がねばならなかった。そんな私の横で、得意そうにガナッシュはかぶりを振った。

「他人ではありません」

 ああ、やめろ。やめてくれ!

「他人でここまで毛並み・人種の酷似は生じないでしょう。つまり、産みの母はマーシャル女史、そしてその遺伝の半分を担った父は」

「もうやめて!!」

 今度は悲痛な金切り声が私の耳朶を撃ち、鼓膜を切り裂く。それは胸にまで届き、恐ろしいまでの後悔の吹きすさぶ海原へ私を放り出した。

「…お願いです…もう…後生ですわ…」

 私が第一に嫌うもの。それは、女性の痛ましい姿だ。

 ああ、なんということだ。なんという失態だ。こんなことになるならば、事務所の存続などうっちゃってしまえば良かった。女性を悲しませるぐらいならジョージに面目を潰されたとしても構わなかったではないか。探偵協会の会長の孫という立場や世間体など悪魔にでもくれてしまえ!

 ガナッシュを連れてくるのではなかった。せめても、彼に大切なことを教えてからにすべきだった。

 今まさに道を踏み外しかけている小さな後輩。ガナッシュは死の天使が酷薄な大剣でもって余命幾ばくかの病人の寿命を根こそぎ斬って捨てるように、得意げに、明るくすら思える口調で問いかけた。

「彼が、間違いなく市長と自分との間に産まれた子供であることを認めますか?」

 法衣をまとうスカッツィガの身体が、炎の雨に打たれる花を守るように夫人の前に出る。

「馬鹿なことをほざくな!夫人は純潔を生涯貫き通していると私に誓言…」

 神父は、はっと口許を手で抑えるが、もう遅い。

 聖職者であるスカッツィガが知り得る堅牢不変な真実。

 告解だ。神父と板一枚を隔てて薄暗がりに座って打ち明ける、魂の真実。嘘偽りの無い言葉。

 ガナッシュの口舌はとどまることを知らない。

「スカッツィガ神父。貴方は、職務上の機会を得て、女史が清らかなままであるということを確かに聞いてご存知なのですね?

 神の御前における秘密は人の司る法廷の天秤より重いものですが、女史の名誉のために、今ここでその点は保証しますね?」

 神父が苦々しげに頷くのを見計らい、先を続ける。まったくなんということだ!

 ここにいる誰もが苦悩の釜の煮汁に浸されているではないか。この状況を、まだ12歳にも満たない童子が作り出したというのか。

 息をもつかせずにチータ人はその秘密を舌に転がした。

「人工授精。言葉を聞いたことはあるでしょう?」

 信じられない言葉を放り投げられて、会議室は阿鼻叫喚の坩堝と化す。

「まさか!」「何年前のことだ」「今ならその方法があるにはある、が、そんなことをそんな昔に!?」「第一誰が協力する、技術的に相当の無理がないか?資金は?」

 ガナッシュは女史をジッと見つめる。

 女史はしばらく持ちこたえてはいたが、やがて降参した。ガックリ額を垂れたさまは、地獄の門へ辿り着き希望を捨てるしかなくなった罪ある霊の風情を匂わせる。

 もはや封印の解かれた秘密の箱から、うちしおれた女史は過去を取り出して語らざるを得なかった。

「…確かに、そこにいるヒューバートさんは、私がお腹を痛めて産んだ子です。それと同時に、市長エンフィールド氏のたねと証明できます。…とはいえ、あのときのカルテが今も残っていればですけれど…

 皆さんの懸念に反し、小さい探偵さんの言う通りです。私は人工授精をされました。男性側の、その、遺伝子提供者は…市長としては若輩ながら、正義感に燃える駆け出しの政治家と聞いておりましたわ」

 クラウディオ氏の肩が深々と沈み込む。これから語られる事実を飲み下そうというのではなく、むしろ仏陀の教えでいうところの眼・口・耳を塞ぐみざるいわざるきかざる姿のましらの心境なのだろう。

「過去この島に、不妊に悩む夫婦のためのそういった施設があったというわけではありません。ちょうど19年前、私はとある産婦人科に入院しました。そしてそこには当時、本土から研修に来ていた優秀なドクターがいました。彼の専攻は不妊治療。それも低温凍結による精子での人工授精の論文を書いていましたの」

「その件についての尋問はできませんが、カルテが残っていれば当時の論文も医師も見つけることは容易いでしょう」ガナッシュは「さ、先を続けて下さい」と育つ余地を十分備えたかいなを差し伸ばす。

「事の起こりはわたくしの妹…ルーイーズが、市長の妻となったところからなのですわ」

 女史は遠く壁の向こうの地平が見えているような様子で、過去に心を飛ばして物語をつぶさに語りはじめた。

「ーーーそう、あのには…ルーイーズには私には無いものが与えられ、私に付与されたものが欠けていました。私の母、つまり父の一番目の伴侶には肝炎と知性と堅固をきわめた容貌が、あの娘の母親には誰しも振り向かずにはおれない美貌と一途な惚れっぽさがありました。そしてそれぞれを私達姉妹はより向上させる形で受け継ぎました」

 女史は意志の強さと聡明さを文才へと昇華させた。と同時に肝炎の影響を反映して、虚弱な女性詩人としてひっそりと文壇の一角に花を咲かせた。

 その妹は、母親にいやましてつややかな髪、恋を誘う唇、星の光を放つ双眸をしていた。そして慢心することなく美貌に磨きをかけた。結果として、総ての外見の美しさが相乗効果を生み出し、男性の魂を理性もろともに蕩かす魔性を手に入れ、代わりに自制心や人情というものをやすやすと手放したのだった。

 同じ父親を持つ二人の娘の運命は交差することもなく、互いを憎むことはなかったが尊敬することもなかった。依って立つスタンスも価値観も違いすぎ、ただ血縁の存在だけが、海王星と太陽ほどに隔たりのある彼女らを辛うじて繋ぎ留めていた。

 結婚というものに対しても、二人は対照的だった。マレリーは男性的なもの総てを厭い、苦手としていた。それは彼女が少女時代に近所の悪たれ坊主から浴びせられた陰湿で尾を引く酷い野次に根を宿していたのだろう。

 進学し、成人し、三十路も後半をすぎたところで女史は愛を詩の中だけにとどめることに決めた。それまでに操を求める誰の手を取ることもなく、愛の囁きの尊い代償として肌を許すこともないままに。

 対してルーイーズの男性遍歴は華美そのものだった。およそシラクサの貴公子で彼女のベッドに立ち入らなかった者はなく、夜を共にした後で、たちどころに忠誠を誓わなかった名士もいなかった。

 ルーイーズが手当たり次第に男をなびかせる手腕たるや、もはや魔術の領域と言えた。そして最大最後の成果が、市長の正式夫人ファーストレディの称号であった。

 この際、倫理観に照らして彼女らを引き比べる事に意味はない。男漁りがすぎるからといって、それが何だ?かつて売笑婦であったマグダラのマリアは魂が腐れていたか?

 純潔、至高であり続けたからといって誉めるべきだろうか?その代表格、かつて光輝に包まれた大天使ルチフェルは天の高みに居続けられなかったではないか?

 こと女性の人生として評価した場合、確かに姉妹のうち妹の方が成功を収めたかに見える。

 しかしルーイーズの子宮が(女史は口には出さねども、度重なる避妊と堕胎のためだろう)すっかり退縮し、麦の種ほどの妊娠能力も宿していないと分かった時、事態は一変した。

 端的に言えば、ルーイーズは狂ったのだ。

「あの日はよく晴れていましたわ。私が妹に呼び出された待ち合わせ場所は、品の良いアッパー・ベイサイドのマリーナにあるヴィクトリア王朝風のレストランバー。…あの子ったら、生まれて初めて私より先にーーーつまり、遅刻せずにということですけどーーーVIP用のテラス席についていて。私のために、とシェリーを専属バーテンに頼みましたの」そこで女史は瞼を伏せると、クッと皮肉な笑みで頬を歪ませた。「私がアルコールアレルギーで、父がささやかな晩酌をしただけでも、お寝みのキスもできなくなる場面を子供の頃から見ていたのに、ですよ?」

 椰子の葉をすり抜けて海風がそよぐ、最上級のレストラン。ブルジョア、セレブがくつろぐ空間に、女史はまるで自分が鮫の縄張りに迷い込んだ小魚になったかのような気分になった。

 VIP用にとウッドデッキのテラスにしつらえられた、プラチナ張りの衝立が囲むボックスに女史が向かうところを、気位という牙を持つ者達がそれとなく観察しているのが如実に分かり、手足が鉛のように重く感じた。

 ボックスの内側で席に座っていたのは、風の精霊を纏わせるビーナスの形をとった彼女の妹であり、執念の塊と化した狂女だった。

 ただただ己の地位を守りたい、それにしがみついていたいだけのルーイーズと、妹が真に幸せになるには包み隠さず総てを良人おっとに打ち明けて養子をとるべきだというマレリーの主張は、終始平行線を突き進んだ。もとより利害も思想も噛み合う筈がない。

 あからさまに我欲を押し付けようという相手の態度に嫌気がさして、不毛な交渉を途中退場しようと椅子から立つ女史の手首を、異常な握力で市長夫人がとらまえた。

 狂気にかられた人間の瞳は美しい。それは、瞳孔が開いていてよく照り返すからだ。レストランの庇の下のような僅かな陽光でも。

 おまけに、ルーイーズのぬるぬると潤んだ生来の眼光も合わさり、怪物にひと睨みされたごとく、女史は硬直した。

 ーーーいいじゃないの姉さん。私は赤ちゃんを産みたいおんなだけれど、神様の間違いのせいでこうむった不幸に苦しむ不妊症なのよ。翻って姉さんはどう?ご立派に清らかな愛を説くロマンチストだけれど、万年処女の嫁き遅れ。このまま宝の持ち腐れにするのなら、後生だからその子宮をあたしに頂戴!

「恐ろしい狂気に取り憑かれ、精神に綻びができた常人ならざる者の言葉。その核にあるのもエゴだけでした」

 まるでそこにルーイーズ夫人の亡霊がいるかのように、女史はぞくりと背筋を震わせた。

「父を捨て、自分を産んだ母を顧みることなく、私の忠告にも耳を貸さず享楽と虚飾のために身体を売り春をひさぎーーーその挙句の石女うまずめですもの。当然と言えば当然すぎる結果でしたわ。その上、今度は私に対して、自分のために産み腹を貸せと言うのですよ」

 ーーー貴女は一体何を考えているの?どこまで、いつまでそうして身勝手を貫くつもりなの?お母さんの…貴女を産んでくれた人のお墓に、そんなことを報告できると思っているの?

 ルーイーズは反省を求める姉にキョトンとして答えた。

 ーーーだって今のままで暮らしていくには赤ちゃんが必要なんだもの。仕方がないじゃない。

 赤ん坊を身籠るのは母となるため。母となるのは市長の妻たる座を守るため。市長の妻であり続けるのは、これまで積み上げてきた女としてのキャリアとプライドを手放せないため。

 女史は愕然とした。もう言葉が通じない。いや、言葉は通じているのに、思考も論理も取り返しのつかないまでの齟齬が生じている。

 原理の違う世界に生きているのだ。妹はまるで空は青ではなく、重力は上に働くと信じるような頭の持ち主になってしまっていた。…少なくとも女史にはそう思われた。

「私は悟りましたわ。女の尊厳を踏みにじるのは同じ女である、と。…このような絶望的な真理など得たくはなかったのですが………」

 マーシャル女史はいつからか咽喉の髑髏の紋様をなぞっていた。心を落ち着けるための、彼女の控えめな癖なのだろう。

「どうしてルーイーズの頼みを聞き入れたのかと言われれば、それは私にもうまく説明できません。あまつさえ私はその時まだ…その、現在も、ですけれど…男性を知らなかったのです」

 彼女を取り巻く我々は全員男だった。四辺を見回す女史と目を合わせられる者は誰もいなかった。ガナッシュも、私も、警部も市長も実子ヒューバートも、警官の群れも、ただ視線を下げる。

「愚かと思うでしょうね。なんと不埒な、神をも恐れぬ愚行をと、そしられるのも覚悟しています」

 人工授精は密やかに、緻密に、しかし迅速に行われた。女史は妹がこれほど頭の働く人間であると初めて知った。燃え尽きた理性のたがが彼女に新たな知性を与えたかのようにも見えた。市長…その頃は市議会の長として名を連ねたものの老獪な年長の議員からは軽んじられ、しかし汚職や贈賄にも染まらぬ議員であったクラウディオを、ルーイーズは体調を崩しての長期療養という理由をつけて追い払った。そして病院に篭り、彼との褥の内でこっそり採取した精子でもって、ものの見事に姉を妊婦に仕立ててみせたのだ。

 そう、洋服を裁断するデザイナーもかくやという手腕だった。ルーイーズは手続きも研修医への報酬も総てをなめらかにこなし、義理の弟の子を孕んだマーシャル女史はあれよと言う間に臨月となる。

 女史の膨れてゆく腹部を撫ぜながら、ルーイーズはこれで大丈夫、何もかもがあるべきところへ収まるのだと誰に聞かせるでもなく繰り返した。

「私は…自分に身勝手な要求をする妹を憎みました。その要求をはねつけ、憤死させてしまいたかった…でも、同時にあの子の最後の味方でありたかった。それは、私と、私の両親のために…そして………」

 科白を忘れたのか。そういう間だった。

 辺りはシンとして、宙に浮かび上がる埃も静止したように見えた。

 女史の横顔は大理石の彫刻のように血の気が引いて、そこに凄絶な自嘲が浮かぶ。

「…何よりも…お腹の子供のために…でしたわ………」

 女史の出産を境に姉妹の狂騒劇は締めくくられた。それ以降女史とヒューバートは、実の母と息子は今日まで言葉を交わすこともなく生きてきたのだ。

 ヒューバートは切れ長の整った目にがらんどうの宙空を映し、ただ顎を上げている。

 沈黙、眠り、これらは死に相通ずるものとされてきた。そして今、この空間は完全に死した。

 ごとん、と椅子の脚が床を打った。テーブルに両手をついたクラウディオ氏が、膝の裏で席を後ろへ押し出したのだ。

 立ち会う者達がハッと我を取り戻し、わざとらしく咳払いをしたり目ばたきをしたり時計を確かめたりしている。

 えー、では、とガナッシュが引き継いだ。

「近年学会を賑わす新語に生命倫理バイオエシックスというものがあります。理論上、人工受精が可能となった現代の技術では自家生殖による完全なクローン作製が危惧されていますが、それだけでなく人工受精がもとで引き起こされる超法規的事態を含めあらゆる課題の想定を我々は突きつけられているわけです。

 マーシャル女史はヒューバートさんが成人するまで面会したことは無かったのですね?」

 ええ、と女史は力無く笑う。「先週、あのレコードショップで彼の活動を初めて知ったのですわよ。それも芸名というの?本名はポスターに載っていませんでした…」

 けばけばしい衣裳を身につけ、素顔の輪郭がぼやける位のメイクを施した若い狼人。その首元に、かつて産み落とした赤ん坊とそっくりそのままの髑髏の紋様を見つけ、女史は脳髄を雷で撃ち抜かれたような衝撃を受けた。

「ルーイーズの生前から何度となく赤ちゃんとの面会を求めましたが…その度にすげなく断られました。おしまいには、これ以上自分の幸せを妨害するなら赤ちゃんを巻き添えに自害してやるとさえ言われて。なにせ狂人の発する言葉、いつ真実になるやもと思うと恐ろしくてたまらず、我が子を遠目に姿を見るのもためらわれて…」

 レコードショップでの女史の歓喜を思えば、私は胸を熱くせざるを得ない。まさに偶然の生んだ奇跡の巡り逢いだ。

 ああ、これぞ自分の息子。父親の胤はまみえたこともない赤の他人のものでも、確かにそれと直感できる。

 ここに、自分と同じ咽喉仏の上に、髑髏の斑紋が!!

 ポスターの冷ややかなプリント面をなぞり、どうしても、何を言われようともこれを手元に置いておきたいと女史は願った。…そうなのだろうと私は想像する。

 したがために、壁から外そうとしたのだ。母が息子の絵姿としてそれを所有したいと願う気持ちを、検閲という形で叶えようとしたのだ。

「ヒューバートさ…んの、恋仲のお嬢さんには、おかしな誤解を与えてしまって済まなかったですわ。こんなにも自分がなりふり構わなくなるなんて想像していませんでした………彼女に対して無礼な態度をとってしまい、慚愧の念に耐えません」

 そしてまた、沈黙。静寂ではない。

 ここには無限の言霊が、音になりそこねた感情の発露が浮いては消え、沈んでは現れている。

 傲慢な父親。反発するあまり罪を犯した息子。秘密を暴かれて消沈するその実の母。彼女の弁護をするつもりが意外な真実に戸惑いを隠せない神父。第三者たる大勢の警察官。

 そして鼻高々にふんぞり返る、有能な探偵の少年。

 彼の暴走を阻止できなかった、無力な私も足しておかねばならんのだな。

「さぁ、事件は無事に落着しました。それでは皆さん、お引き取りを。僕と先生は、事件の記録を書面に起こして、このまま窓口に提出していきしょ」

 ね!と瞳を輝かせ、チーター人の少年は私の股下で手帳をパチンと閉じた。



 僕、ガナッシュ=コントラバーユは背中に羽が生えたような心地だった。

 今日一日で僕が成し遂げたことは、僕のこれまでの人生の中で最高の快挙!スキップスキップ、ウノドストレス!警察署の廊下のタイルの継ぎ目を軽快に跳んでいく。

 学校の成績は良かったけれど、実践で推理模擬演習エチュードが役に立つのか、もしかしたら現場では足を引っ張ってしまうのではないかとちょっぴり心配していたのだ。

 そんなのは全くの取り越し苦労!僕は陽にさらしてしまったフィルムより使えないダンテス所長を探偵協会の面子のために持ち上げながらも、首尾よく三つも事件を解決できたんだ!

「あらボク、そんなに浮かれてどうしたの?」「かっわいいわねぇ、うちの弟もあんな子だったらなぁ」「ねぇ、一緒にいるのダイオナイザじゃない?あの人の子かしら?」

 婦警さんに子供扱いされたり、先生の子供に見られたりなんかしたりするのも許せるぐらい、僕は喜びに満たされていた。

 早く自分の活躍をお母さんに電話で知らせたい。そう、電報でなく絶対電話だ!カードに印刷された味気ない言葉じゃなく、直接やりとりがしたい。お金は張るけれど、着任して早々いいスタートを切れたよって、伝えたい。

 今ぐらいの時間なら、髪結い仕事に入る前の休憩をしてるだろうな。仕立てと髪結いでお母さんは僕を育てて、探偵学校まで出してくれた。僕の報せを心待ちにしてくれてるはずだ。受話器越しでもいいから、とにかく声が聞きたい!きっと嬉しさに上ずること間違いなしだよ!

 公衆電話はどこにあるかな?探偵協会から支給されたコインを使えば何時間でも話せるんだし、新しい土地のことも含めてちょっと長めに報告だ。 (業務外だけど、これぐらいはいいと思う。事件も解決してるんだし)。

 跳ね足から駆け足になってしまうのを抑えながら、僕はロビーに行こうとした。

 鉤爪が肩にグリッ!と食い込む。僕は思わず悲鳴を上げる。唇をへの字に曲げて憤怒の形相をした獅子人が、背後から僕の肩を掴んで引き留めていた。

「どこへ行こうというのだ」

「そんなの決まってるでしょう?事件解決費ギャラを公安委員会に申請するために、書類をきちんと書いて、それから」

 お母さんに電話を…と言いかけた僕の口を、重々しい声が塞ぐ。

「そんなもの必要ないのだ」

「えっ?でもこれだけじゃないんですよ?必要経費の上算とか、メディアへの情報開示の打ち合わせを警察関係・司法関係としなきゃいけませんし、あ!忘れてましたー、あのとんでもなく無礼千万な企業エージェントのステファノフさん、先生のお相手のあの人にもちゃんとお伝えして前言撤回をっ、おっあっえっ!?」

 地面が横向きの壁になった。いや、獅子人が僕を小脇に抱え、(うわー腋の下がなまあったかい!)、そしてロビーとは真逆の方角へ歩き出した。

「先生!お気が触れたんですか!?そっちは出口じゃありません!一体どこへ!?」

 何度かジタバタ手足を振ってみたけど、通りすがる誰からも「父と息子がじゃれあってなんだか遊んでいるなぁ」という和やかな視線を向けられてしまうため、観念してこの屈辱的な格好を耐えることにした。

 僕は探偵なんだ、探偵には耐え忍ぶことも重要なことなんだ。

 通路は入り組んでいて、いつの間にか古めかしい石造りの建物に入り込んでいた。

「ジャッジドメン・ウォーク」

 ごつんごつんと岩を削ったタイルの通路に足音を響かせる獅子人。

「この建物は今から80年の昔、裁判所を兼ねていた。当時、判決を受けた罪人が連れて行かれる独房への通路と、咎を免れた者の案内される出口への通路とが交差する場所があったのだ。それが判決の廊下ジャッジドメン・ウォーク。そら、もうすぐそこがそうだ」

 三つの通路がYの字に合わさる少し広めの空間。先生はそこに近づくと歩くスピードを緩めて壁にぴったりと身を寄せた。

「なんなんですか先生、こんなところで。尾行の基本形の復習ですか?」

 しっ、聞きたまえ、と僕の口を塞ぐ。

 通路の交点に誰かいる。複数人かな?

「お許し下さい神父。罪深い私を…」

 この声と話し方。マレリー=マーシャル女史だ。

「神聖なる僧衣に触れるな」

 これはスカッツィガ神父?なんであんな刺々しい声音なんだろう?

「どうかお分かりください神父。貴方を欺くつもりなど無かったのです。懺悔をさせて下さい、私は、私は…」

 僕は堪らなくなって、壁の横から目だけ出した。

 ちょうど神父が、すがりつくマーシャル女史を振り払っている場面だった。ビシ、と僧服のきぬが張りつめる。

 女史の指が握ったあたりを、まるで野良犬にまとわりつかれたように乱暴な手つきではたく神父。

「神聖なる僧衣に触れるな。主の代理である私に嘘を吐いたお前のことは、もう信徒として認めん。言い訳めいた懺悔など聞くまでもないわ」

 急に病み衰えてしまったような犬人の女性は、厳しく懺悔を断られ、足をぐっと後ろに引き、その場に佇むしかないようだった。

「二度と私の教会へ近づかないように」

「はい…」

 目を伏せて頷く女史は、まるでかつてこの廊下を引かれていった人々の姿を再現しているかのようだった。

 しわがれた咳で咽喉を通し、神父はさらに言い募る。

「呆れたものだ。主の御業みわざを人工授精などという汚らわしい行為で愚弄しておいて、のうのうと女性の人権擁護団体の長におさまっていたとは。こんな女と知っていたら、わざわざ警察署まで来ることもなかったな。賤しむべき売女め!」

 神父が撃ち降ろされる鞭の一閃のごとく最後の一言を言い終えるやいなや、先生の巨体が蜂より素早く飛んでいった。

 大きく跳躍した先生は、神父と女史、対峙している二人の間に着地し、強靭な左パンチを神父に見舞った。

 手加減をしたのかどうかは分からない。神父の身体は独楽のようにグルグルグルときれいに回り、回転による安定が途切れたところで真後ろにドウと倒れた。

「貴様のような無礼者が聖職者を名乗るのではない。いかさま神父!」

 全身の毛並みが生きた黄金の縒り糸のように逆立ち揺れている。先生は憤怒の矛先を呼吸で鎮めてから、尊崇する女流詩人へ、無実のひとへ振り向いた。

「ダ、ダンテスさん」

「先程は失礼を、レディ。私のことはどうかダンとお呼びを」

 獅子人が差し出す右手を、迷うことなく女史は受け取る。二人の間に柔らかな空気が生まれた。

 出口までご案内しましょう、と勝手知ったる署内をエスコートする先生。僕はその巨躯に身を隠してついていく。まともに女史を見上げることも、何か喋ることもできなかった。

 頭のてっぺんが固くて重い。そこだけ血流が停滞しているみたいだ。あんなに、あんな風に人が傷つけられる様子は初めて見た………。

 勿論、スカッツィガ神父のことではない。すぐそばにいる女の人、マレリー=マーシャル女史のことだ。

 僕は、ただ職務と責任をまっとうしただけだ。だって、真実は何にも替えられない。だからこそ意味と価値がある。それを明らかにすることが、僕達探偵の存在意義じゃないか。

 僕は悪くない。どう考えても、悪くなんかない。

 それなのに、このもやが晴れないような気分はなんなんだろう。言い知れない胸の痛みはなんなんだろう。吐き気がしてくるのはどうしてなんだろう。

 どうして、僕は、泣いてるんだろう。こんなの、おかしいよ!

 先生は堂々と歩きながら話の水を女史に向けた。

「聴いたことはありますか?彼の…ヒューバートのテープを」

「あの子の成長ぶりもしていることも、知ったのはつい先週のことですのよ」女史は苦笑しているようだった。「お恥ずかしながら、一悶着あったせいで、テープは購入できませんでしたの」

「でしたら、テープを私が出版社にお送りする。そちら経由で貴女に差し上げよう!是非聴いてご覧になると良いのだ。ーーーそれと、彼のバンドは若者にありがちな、奇をてらうばかりの粗悪なものとは一線を画しておりますぞ。その旋律も歌詞も、美しく切ないものなのだ」

 こんなふしです、と先生はメロディをなぞる。ヒューバートがライブで披露したという歌詞を、とても深く広がる静かな声で。それは水面に波紋が伝わるように、エントランスの大理石の壁に響く。

『ーーー少し哀しい話をしようか

とてもかわいそうな子がいたのさ

誰もが彼女を嘘つきと言った

誰も彼女を信じなかった

「ティンカーベルの羽がもげてしまうの

美しいものが一つ、また一つ壊れていくの

愛しいものをいくつ滅ぼしたら私達は賢くなれるの?」

あの子はそれを悼んでいただけなのに』

「それは!」

 僕はビクリとしてしまった。反射的に見上げてしまい、まともに女史の面が目に入ってくる。

 犬人のまなじりに深く皺が刻まれていた。こらえにこらえて、それでもせき止め切れない涙が左の眼からスウっと流れ出てきた。

「ーーーまったく、なんてことでしょうね。作者たる私の許可も取らずに、本の一節を歌詞に転用するなんて。手順違いも甚だしいですわ」

「やはりそうであったのだな。ライブハウスで聴いたときの内容が、貴女の玉稿、『硝子の丘に吹く風』にあった詩とそっくりだったので、ずっと気になっていたのだ」

 手袋で涙袋を抑えようとした女史は、「私の作品通りですわ…『涙よ、流るるままに。我が瞳を洗え、曇りを取り払い真実を見せよ』」と呟く。

 先生もその後に唱える。「…『美しきものよ、止まることなかれ。汝が水底に現れ出でたるものこそ真実なり』…」どうやらこの科白もまた女史の詩集の一節であるらしかった。

 いやなひと!何でもかんでもお見通しになさらないで!と女史は噴き出す。まるで少女のような笑い方で。

 そのときの女史の顔を、きっと僕は忘れられない。忘れたらダメだ。そう思った。

「彼、ヒューバートもまた、無意識に貴女に憧れ、惹かれていたのだろう。息子と母を結ぶ親子の繋がりは、余人の目には見えずとも、確かにあったのだ」

「そう…であれば、少しく胸のつかえも楽になります」

 そう応える女史はもう泣いてはいなかった。

 警察署の出口で女史はスカートをつまむ恭しい挨拶をし、先生の隣にいる僕にこう話しかけた。

「Mr・ガナッシュ=コントラバーユ。貴方に告げます」

「…はい」

「私は貴方を赦しません。ええ、一生、何があっても。貴方には私の失望と絶望と悲しみを挽回する機会はありません。二度と、絶対に」

「………はい」

 うなだれるしかなかった。

「だから、小さな貴方にとても大きな使命を課します。よく聞いておいてくださる?」

 僕は思い切って胸を張った。しっかりして聞いていないと、卑怯者になってしまう気がした。

「まぁ、真っ赤な眼!こんなに泣き腫らして」

 マーシャル女史は厳しい詰問の表情はしていなかった。その代わり、ふわりと微笑んで僕の頬を撫ぜた。山百合の蕾のような良い香りが鼻腔をくすぐる。

「優しい探偵におなりなさい。人の心に寄り添うことのできるよう、その痛みや悲しみを汲めるように。貴方になら、きっとできますわ」

 そして獅子人の探偵、僕の当面の師にして先輩へ、たなごころをかざす。

「あちらの、立派な紳士のように」

「ぶぁい」

 はい、と言ったつもりの返事が涙と鼻水に押し流されてしまった。

 まずい、何をしてるんだ僕は!

 こんなところで泣くなんてダメなのに!

 ぶすっ、べそっと、涙が出てきて、こするたびにひどくなって、女史はそんな僕にまた笑う。

「ーーーでは女史、一層のご活躍を期待しております。今日この日からはもっと自由に、さらに精力的に詩作にお励みくださるようになのだ」

 はい、と頭の上で女史の応えがした。気配が遠くになっていく。

 やおら先生の科白が降ってきた。

「ガナッシュ、君が今考えていることを当てて見せようか。自分にはあのレディを慰める資格はない、と己を責めているのだろう?」

 うぐえ、と咽喉の出口で涙と空気とが渋滞を起こす。それら全部を勢いをつけてお腹に吸い込んでから、僕ははっきり答えた。

「は、はい!」

 ならば!と先生は僕の身体をすくい上げ、またしても肩車をする。

「せ、先生!?」

「ならばどうするね!我が弟子、ガナッシュ=コントラバーユよ!まだこの事件は解決してはいないのだ!君がその手で」

 僕を下から仰ぎ、茶目っ気たっぷりなウインクをする。

「ーーー決着を、落としどころをつけてみたまえよ」

 僕は、拳を握る。

 そうだ。先生の言う通りだ。失敗して、泣いて、隠れて、落ち込んで。そんな風に同い年の子供達みたいにするのは簡単だし、楽だし、誰からも責められないだろう。

 けど、僕はもう探偵なんだ。一人前の探偵として歩き始めたんだ。それなら。

 チータ人の尻尾で、ビシリッと音を鳴らして先生の背中を打つ。

「先生、行ってください!」

おうとも!我が愛しい弟子よ!」

 マーシャル女史はちょうど運河のへりに停泊していた水上バスに乗り込んでいた。僕と僕を担ぎ上げた先生は、ダッタカダッタカと駆けに駆ける。追いつく前に船が発進する、そう、便数が多いので停泊時間が短いんだ。

「並走するぞ、ガナッシュ!」

「お願いします!」

 接岸していた桟橋を離れ、加速する船。その横腹に並ぶ窓の一つに、薄いクリーム色の毛皮の犬人の寂しい顔を見つけた。

「女史ーーーマーシャルさん!」

 女史がこちらを向いた。表情から察するに、「えっ」という声を立てたのだろう。僕はガラスの向こうにまで届くように声を張り上げる。

「僕はーーー僕はきっと、必ずご期待に沿う探偵になります!誰よりも優しく、思いやり深くあるように!もう誰も悲しませずに済むように!ーーーだから!!」

 どうか見ていてください。見守っていてください。

 ーーー誰かのために、救いとなることができるように。そんな存在に、真の探偵であることが、できるようになるまで。

 僕に名探偵ができるまで!それまでいましばらくの猶予を!!

 さすがの先生の脚力でも並走し続けるのは限界があり、女史の横顔がどんどん小さくなって、やがてシラクサの風景の彼方へ消えた。

「僕の誓い、あの人に聞こえたでしょうか」

 先生は腰を曲げて僕を降ろす。その拍子に額から大粒の汗の玉が幾つも転がってレンガの舗装に落ちた。灰色の汗の染みはその足元に不揃いな模様を作るや、すいっと吸い込まれて、消えていく。

 ぜぇーぜぇーと肩で呼吸をする先生は、首をしごくみたいに汗をぬぐい、尋ねた僕に笑いかけた。

「う…うんむ、聞こえて、いた、のだろうさ。その、証拠に、彼女は微笑、んで、いたぞ」

「そうですか」

 良かった。僕がしたことは彼女を傷つけてしまったのは間違いない。今回の件を無駄にしないために、これからは経験すること、感じること、そして想像すること。それが僕の課題だ。大切なのは、どうやって、どんな探偵を目指すか、なんだ。

「さぁて、事務所に帰ろうか。君に美味い紅茶を煎れてもらってだな、もう遅くなったが軽く昼食といこう」

 しゃんと背筋を伸ばし、タッセルのような房が付いた尻尾を振る獅子人、ダイオナイザ=ダンテス。シラクサ探偵事務所の所長。このひとには僕には無いものがある。

「先生は、僕が良い探偵になれると思いますか?」

「君は何のために研修期間があると思っているのだね?」

 そんなに不安がることはない、気を楽に持つのだよ。生地のよれたコートを肩に引っ掛ける大男はそう僕に言って、色も形も野球のグローブのような手を差し伸べてきた。

「君のことはその尻尾の先から可愛らしい耳のてっぺんまで私が責任を持つ。まだ先は長いのだ、おいおい学んでいけばいい」

 駄目な大人だと見切りをつけていた相手を、眩しい思いで見上げる。僕は、この人のことを分かったつもりになって、侮っていた。

 この人は固く閉ざされたマーシャル女史の魂のかんぬきを外し、僕が傷付けた彼女を救ってみせた。

 それは素晴らしいこと。とても魅力的で、今の僕に足りない、欲してやまない能力ちから。先生に対してほのかな憧れさえいだき始めている自覚が僕にはある。

 ーーーだから、この際、はっきり聞いて確かめておこう。僕がついていくと心に決めたこの人の本懐を。その手を取る前に。

「先生にとって探偵とは、なんですか」

 ぐんっ!と僕の方へ身を屈め「お人好しは、探偵には向かないと誰しもが言うが、私はそうではないと思うのだよ」と即答した。僕は後ろへ仰け反りそうになったのを踏ん張ってこらえる。

「いいかねガナッシュ。人の弱さを分かりたいと思うのは無駄なことではないのだ。被害者なり加害者なり、それぞれの事情があったのではないかと、想像してみるのだよ。犯人の痛みや傷を察する気持ちは探偵には不要だと言う輩が多いが、それなら私は探偵なんかいつでも辞めてやる。人そのものに対して愛情がない探偵に、事件に関わった人々の人生を左右させる資格はない」

 ギョロリとした眼にひたと見据えられる。試されているんだ…先生から?いや、もしかしたら先生自身はそのつもりじゃないのかもしれない。そうだとしたら、僕はもっと大きなものから試されているんだ。たとえば、僕の運命そのものから…

 僕は先生の言葉を頭で噛み砕き、胸底に沈めて消化させた。ーーー多分1・2秒のことだったろう。

「簡単に辞めるなんて、もう二度と言わないで下さい。先に言っておきますけど、僕、後ろ向きな発言は本当に本当に大っ嫌いなんですからね」

 そして負けずに、相手の瞳から目を離さずその手を握る。

「僕も先生のそのお考えに賛同しますから」

 よしよし、それでこそ!と、獅子人が握り返す掌には、今度はちゃんと手加減がされていた。




 さて、二人の探偵のいる場所から離れて。

 シラクサ警察署の判決の廊下の奥。罪が確定した者が裁判まで収容される留置施設の造りは古めかしい。四方の壁も床も石組みで、そこに昔ながらの鉄棒が嵌められている。出入りするには鉄棒の一箇所が内開きになっているドアをくぐることになり、この暗く、壁が結露で濡れた部屋で夜を明かしたことがない初犯の者は、大抵ドアの上から突き出している鉄棒の先端に頭をぶつけるか耳を切ってしまう。

 ヒューバート=エンフィールドもまた、今日新たにその列に加わった一人だ。左耳にかぎ裂きをこさえ、監視役の警官から貰った絆創膏を張った姿で作り付けの寝台に寝そべって足を組み、ずっと鼻歌を奏でている彼に、ついに警官のほうが我慢できなくなった。

「いい加減にその歌をやめろ!耳障りだろうが!!」

 瞼が降りたままの狼人は「今いいとこなんだよ…コードが降りてきてんだ。野暮なこと言いっこなしだぜ、お巡りさん」と眉をしかめて続ける。

「貴様、自分の立場を弁えろ!傷害の罪状に本官への侮辱罪を加えても良いんだぞ!」

 腰の警棒を振り上げ、鉄棒を打って威嚇しようとしたところへ、開け放した入り口からギョレメ警部が広い肩幅を横にして入室してきた。

「威勢のよかにゃー。あんまし犯人ばいじめたらいかんばい」

「け、警部!」

 牛人は自分の息子ほどの年齢のヒューバートをじろりと一瞥し、警官が気を利かせて開いたパイプ椅子に背もたれを前にして座り込んだ。

「なんだよ、嘲笑わらいに来たのか?このとおりさ」と、狼人は手錠を鳴らす。「俺は向こう何年かは塀の中なんだろ?…親父殿の助け船も今度ばかりは望めねぇし。何もかも終わった。終わっちまったよ」

「何が終わった」

「チッ………見りゃ分かんだろうが。こんなザマじゃ、レーベルのマネジャーにも期限を守れねぇし、それ以前に犯罪者だ。デビューなんざ夢のまた夢、そのまた向こうのドブ溝にボチャンと消えちまったさ」

「そがん程度の夢なら諦めんね」

 背もたれに上半身を預けた警部の低い声。一拍遅れてヒューバートは早回しの画像のように鉄の檻に己が身を叩きつけ、そして跳ね返された。

「…あんたに何が分かるってんだ…!」

 再び檻に突進し、隙間から顔を出して吼える相手にギョレメ警部は懐中の紙片を取り出した。

「分かるも何も、俺にとっては貴様は仲間を殴りくらしよった只の傷害犯や。ばってんが、ダンのやつ…あん探偵がこんな手紙かきつけば押し付けて行きよった。お前に一言伝えたか、言いよってな。問題なか思うけん俺が読んでやる」

 警部はその紙を取り出すと、抑揚もつけず棒調子に読み上げる。

『ーーーヒューバート=エンフィールド。恐らく君の量刑は現在の推定よりももっと軽くなるだろう。もし保釈されなかったとしても、塀の中で罪を反省し、規則正しい生活を送ることだ。

 君は罪を犯した。それは変えられない事実だ。しかしまた、君が根っからのアーティストであることも変えられない事実であることをよく覚えておくのだ。

 君が真に音楽のみちに足を踏み入れたいのなら、真に歌手を、作曲家を目指すのならばーーー人の世の罪ごときに潰されるな。

 どんな困難も悲劇も芸術家にとっては成長の糧となる。それをそのまま受け入れるような軟弱者に、芸術の女神ミューズは微笑まない。彼女のお好みはタフな男なのだよ。

 かく言う私も君の一ファンとして、再来を楽しみにしている。そして、今回君のことを庇った素晴らしい女性もまた、待ち焦がれているだろう。それを忘れるな。

 何年かかったとしても、君が本物であるという証拠を、この世界に知らしめてやるのだぞ。』

 素読みを終えた警部は鼻をブルンと鳴らし、つまんだ紙を弄ぶ。

「…あいつ、やけにお前に肩入れしよるな。あがんこつやけん探偵として芽の出んとやろ」

「…それ」

 ん?と片眉を上げる警部に、ヒューバートは右の掌を上にして檻から伸ばす。牛人が頷いて立ち上がり、相手にメモ用紙に書きなぐった汚い文字の陳列を渡す。

 ヒューバートは一度始めから最後までを細めた目で追い、するするとその場に膝を折った。

「割と長い一言じゃねえか…」

 ヒューバートの声は鼻にかかり、身体が小刻みに震えている。

「…芸術の女神は、タフな野郎がお好み、か。いつか、歌詞に使ってもいいかな」

「俺には音楽やら詩やらいっちょん分からんばい」

「…へへっ。なら、そんな奴でも感動させてやるような曲にしてやんなきゃな」

 ヒューバートは手首の付け根で湿りはじめた眼窩を押さえ、なんとか持ち前の飄然さを崩さずにこらえる。

 警部はのっそりと背中を向けた。「こいで用事は済んだばい」と出て行く間際。

「お前がまた人前で歌うそん時は………ダンと坊主ばんでやれ」

 と言い捨てた。

 警部がいなくなると、そそくさと警官が椅子をかたし、寒々とした簡素な獄の沈黙が満ちてくる。

 しばらくして、またあのメロディが留置所から流れ出した。今度はそれに歌詞が付いている。

 紛れもなくダイオナイザ=ダンテスのメッセージの一部が引用されたもので、誰にも聞こえず、立ったまま居眠りをする警官にも理解されない、まだ誰も知らない未来へのメッセージだった。



「さて、もうそろそろこの手を放して下さいませんか」

「なぬ、なぜなのだ?」

 水上バスの第9運河ドゥオーモ前停留所で降りた僕と先生は、事務所に向かっていた。

「ただの握手だと思っていたら、ずーっと手を繋がれてるんですもん、いい気はしませんよ。僕は迷子になるほど子供じゃないんです」

「じゃあ何なのだね」

 探偵です!と胸を張って答えたら「いやぁ、可愛いなぁ」という反応を返すので、僕は尻尾の後ろから襟首までフーッ!と逆毛を立てて応じる。

「まぁまぁ、船の欄干に君一人で居るのは危なっかしかったろう?中にも座席はあるのに景色が見たいと外に出たのは君なのだぞ」

「それはまぁそうですけど、僕は出かけるたびにこうして先生と手を繋がないとならないんですか?」

 日光は依然として衰えない。まだお茶時どきだというのに、停留所の前には幾つかの屋台が帰宅者のディナーを供するために早々と開店準備をしていた。

「そうだなぁ、君の背がもう30㎝伸びるまではそうしておこう」視線にも舌なめずりという表現が適すなら、屋台のケバブや焼き貝に注がれるこの獅子人のにやけた目つきは、まさしくそれだった。「君自身に理解してもらいたいのだが、いくら私を投げ飛ばせる程の武道の達人であっても、薬を嗅がされ急に拉致されるという危険もある。何より犯罪者に警戒されないよう無力な子供と錯覚させるにはこの方が良い」

「…なるほど!つまり僕を必要とあらば内偵などにも使うから、そのように周囲の人達に思わせておけということですか!」

 これには感心だ。さすが年季の功。そういう意図があったのか!それだったら僕もつまらない意地を張らずに、つつかれれば泣いてしまう無力な普通の子供を演じよう。その方が確かに探偵活動には利がありそうだ。

 先生が「…小さな可愛い子の手を引くのはたまらんのだよなぁ」と漏らした声は、僕には聞こえていなかった。

「あれ、私は鍵をかけていなかったのだろうか」

 事務所のドアノブに手を掛けるなり首を捻る獅子人。僕を振り返るので、ちゃんと施錠したところを見ていましたよと肩をすくめる。

 僕と先生の科白が「ということは…」とユニゾンした。

 僕達は尻尾を翻して飛びすさり、身を低くして自分が一番得意な体術で迎撃の構えを取る。先生はブリティッシュスタイルのボクシング、僕は手刀を構えた合気道。

 侵入者を通してしまったらしいドアからジリジリ離れて様子を見る。ここまでの流れは探偵協会生え抜きの卒業生としてセオリー中のセオリーだ。さてこの白い漆喰壁の入口、模様も色も鼈甲に似た一枚板のドアから出てくるのは鉛の玉か、鈍色の刃か。

 緊迫に味つけられた期待が砕かれる音が、黒い毛玉となってドアをぶち開けた。

「ダンちゃんガンちゃんお帰んなさァ〜い♡」

 両のかいなを広げるふくよかな女性…いや違った。

 胸があるから一瞬男勝りな外見の中年婦人かと思ったけれど、そんじょそこらの女の人よりも濃いめの化粧で目力めぢからも唇も迫力満点、もっちりな洋梨体型を漆黒のスーツで引き締め、襟元を派手なファーで飾ったペルシャ系猫人が満面の笑みで仁王立ちしていた。

「ジョ、ジョージ=ステファノフ!」

「先生の恋人さん!?なぜここに!?」

 いっ、いやいやガナッシュ、そんな恐ろしい代名詞を使うのではない!と否定する先生の首根っこを、猫人は鉤爪で引き寄せ、嫌がる首筋にキスをする。

「いやぁんもう♡そんな他人行儀にしないでよダ・ン・ちゃん♡さ、どうぞ中に入って入って!ほらガンちゃんも。アタシからのほんの気持ちを用意しておいたのよ♡」

「ガ、ガンちゃん?それは僕のことなんですか?」

「そ、ガナッシュだからガンちゃん♡ほら早くう♡」

 自分より上背のある先生を引きずっていく企業エージェントに続き、事務所に入ると、僕が整理整頓の限りを尽くした書棚もデスクも、応接セットのソファも、ガラスを天板にしたテーブルも、みんな花束に彩られていた。

 そのうち、有田焼(レプリカらしい)の一輪挿しに活けてあった大輪の薔薇を二本指で優雅につまみ、ジョージさんは「ンフフフ♡」と鳥肌が立ちそうな含み笑いをする。

「こういうのはオーソドックスなのがイイわよね?親愛の情を表すのに花の種類は多いけれど、やっぱりアタシはこのクリムゾン・グローリーが好きよ」

「ははは、そうなのだな。で、それはさておきジョージ、どうして私達の事務所に忍び込んでこんな真似をしているのだ」

 あまり余裕の感じられない先生は、空笑いとともにじわじわとジョージから距離を取る。

「お祝いに決まってるじゃないのぉ。聞いちゃったのよアタシ、貴方達の数々のご活躍を♡」

 麗しいステップを踏みながらペルシャ系の長毛をなびかせ、エージェントは薔薇で新体操のタクトのように軌跡を描く。

 僕は現在時刻とシラクサの主要な新聞各紙とシラクサ警察の情報開示までの手続き一切を、記憶のページから引用して分析した。

 あり得ない。公的に発表される情報からでは、手段をどれだけ講じても今日の僕達の足取りを追うなんて不可能だ。

 ーーー正規の手段を講じなければ、大いにあり得る話になるけれど。

「というわけでぇ、アタシの少ーい特技の中からぁ、ピッキングを使ってそこのドアからちょこちょこっと入ってぇ、ぱぱぱっとお花を運び込んでみたわけ。お分かり?」

「うん、分かった、ありがとうジョージ。もう十分なのだ、さぁそろそろお暇願おう」

 口元を薔薇で隠したり、胸の谷間に挟んだり、股間に近いあたりをまさぐったりと、嬌態しなを振りまく猫人。彼に対してバリアを張るように両手をかざして蒼ざめている獅子人の絞り出すような科白に、その目前でプリプリと動いていた尻がピクリと反応する。

「…そうかしら。まだ充分ではないんじゃなくって?」

「?」僕と先生は顔を見合わせる。声も言葉も重なって相手に問う。「それは?」

 猫人は膝から上を全く動かさずに、クルリと向きを変えた。視覚的にも身体コントロール的にも、悔しいかな探偵としての心理掌握的にも高等なテクニックだと言わざるを得ない。

「それはね。今朝がたのアタシの言葉の撤回よ」

 ジョージは柳の枝のように腕をしならせ薔薇を放り投げた。空中で花びらがほどけ、ふわふわと僕と先生に降りかかる。

「勝者には栄光を、敗者には屈辱を。約定を違えず遵守せん。我が憎き友にして愛すべき敵である汝らよ、御照覧あれ!」

 まるで幼稚舎にいた5歳の頃に初めて観たオペラのようだった。企業エージェントでも辣腕で名高いという、矜恃も傲慢も今まで出会った誰よりも持ち合わせている筈のジョージ=ステファノフ。

 その人が、信じられないことに、僕と先生の双靴に挟まれた狭い場所で[[rb:額>ぬか]]づき、床に猫人の耳が着いてしまうほどに腰を高く上げて頭の鉢をこすりつけた。

 これには僕も先生も言葉を失った。

「今朝は本当に御免なさい。三日の期限どころか、たった一日で3件もの事件を解決して見せるとは感服の至りよ。ーーー本当に、お見事としか言いようがない。貴方達がこんなにも実力派だったことを見抜けなかったアタシの非礼を、この通り、詫びるわ。これは東洋の土下座ド・ゲーザといって、自分の首をねてもよいという恭順の姿勢よ。さぁ」

 どうぞ、思うがままになさい!猫人の絶叫が、あっけにとられた僕と先生の意識を押して我に返らせた。

「いえ、そう言われましても、僕はそもそもあの侮辱的な発言が撤回されれば満足ですし、…ここは先生に!」

「ののの!?わ、私に振るのか!?ま、まぁだな、…ゴホン!(慣れない咳払いでウホッ、ケホッと余計に出てしまったのが情けない)

 あー、君のその態度でよく分かった!もう水に流そう!もともと君と私は同じ学舎で学び同じ道を夢見てきた仲間であり同志なのだ。まだ宵には早いがガナッシュの歓迎も合わせて宴を張ろうではないか。さぁ、その顔を上げてくれ、我が友ジョージよ」

 やっぱりこういうのは大人じゃないといけないな、と僕は胸を撫で下ろした。立て膝になり、敗者もといジョージの背中を優しく叩いてやる先生が、誇らしく思える。

「さぁ、そんなに泣くものではない。君もいい大人ではないか。涙を拭いて頭を上げてくれ、ジョージ」

 うんうん、いい絵図だなぁ。ねじ曲がった心根を、改悛の涙で矯正されるエージェント。大らかに頼もしくそれを赦免する探偵協会の先輩。やっぱり、僕はここに来て正解だったんだ。この、ペンタニコス県シラクサに。

「ジョージ…おいジョージ?いくらなんでもそこまで嘆くことはないだろう?おかしいのだぞ?」

 …あれ、確かにちょっと長すぎる陳謝だな。もうそろそろ、笑って握手しておしまいの頃合いなんじゃ…?

 ーーーーーふ。ふふふ。ふふふふふふふ。

 先生が総身の毛並みをブワッと膨らませて猫人から離れた。どうしましたか、と尋ねる僕も、豊かな毛並みの先端からみだらな気配を妖しく立ち昇らせているこの肥り肉の男に、ゾワリと嫌な雰囲気を感じた。先生の肩の上で、Mr.ジャクソンがそわそわと角をあらゆる方角に向けている。

「…うふ、うふふふふふ♡悔しくて腹立たしくって涙が出ちゃう…それぐらい…わ。ああんっ!もう我慢できない、こんな屈辱耐えられない!!」

 ジョージは土下座とかいう姿勢から陽炎みたいにゆっくりと立ち上がる。その眼光は神話のメデューサのように紫の毒気を帯び、両手を突き出した指先は烏賊の触手のごとくわきわきといやらしく動き、涎の筋を引く口許は、かのトロイアの巫女を犯した将のように歪んでいた。

「こんなに気持ちが昂るのは生まれて初めてよ♡さあ…すぐ食べさせて。貴方達のどちらでもいいわ…うふ、うふふ、うふふふふふふふふふふふ」

 無意識に後ずさっていた僕達は、背中に冷たい壁を感じて逃げ場が無いことを悟った。

 窮地に陥ると名案が浮かぶ。僕は先生にタッチして宣言する。

「僕は小さいし、子供ですし、ジョージさんの欲望には応えきれないと思います!ですのでーーーーここは先生にお譲りします!」

「のわっ!ずるいのだぞガナッシュ!ここは弟子として師の窮地をたすけるのが君の務めだろう!ジョージ、彼はこんなに可愛いし育てがいのある子だ、君の欲望も清童どうていの汚れなき魂の方が満たされるのではないか!?」

「なっ、弟子である僕を生贄にするなんて、それでも師ですか!?この、うすらでっかち!!」

「弟子がなんという口を利くのだ、このひよこ豆!!」

 互いの糾弾にやっきになってしまった数分が、どれだけ無駄で無益なことだったか…思い返すだに嘆息が溢れてくる。痛恨の極みだ。

 器用な猫人が上着を脱ぎ、フリル付きのシャツのボタンを外し、ズボンから足を抜き、僕が想像したくもない何らかの性的な行動に臨戦態勢を取るまでには十分過ぎる時間を与えてしまっていた。

「…もういいわ。貴方達二人、アタシの今夜のフルコースよ。どちらを前菜にしようかしらね♡」

 僕と先生は恐怖に身がすくみきってしまい、抱き合い震えるしかなかった。そこへ一歩、また一歩と裸身のペルシャ系猫人が歩み寄ってくる。

 その影に覆い尽くされるまさにその時に、僕…ガナッシュ=コントラバーユと、先生…ダイオナイザ=ダンテスは揃って叫びを上げた。Mr.ジャクソンは、コテンと気絶して床に落ちた。

助けてお母さんマンマミーア!!」






おわり

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シャトヤンシーチェイサー~公立探偵D&G~ 鱗青 @ringsei

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