2-9.「呼吸」
https://kakuyomu.jp/works/16818093088382642660/episodes/16818093088863006005中庭でのアレックスとフィルのやりとりのフィル視点です。
アレックス視点と迷って没にしたものですが、よろしければどうぞ。
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落ち込んでしまった時は、故郷が恋しくなる。賑やかな王都で、田舎の田舎であるザルアを思わせる物はあまりないけれど、そんな中でのフィルのとっておきが、騎士団の中庭にある大きな古い木。そこで乾いた幹に触れ、緑の香りに包まれて、空を見上げれば少し元気になれる。
もう1つのおまじないは、
「……アレク」
彼女がこの空の下にいると思うこと、いつか会えると信じること。
「寂しい、な」
いつもならその名を呼べば、頑張って探そうと思えて元気になるのに、今日はそうならない。西に沈んでいく日に染まる赤とそれを覆いつくそうとする夜の青……混ざった紫の色が孤独を掻き立てる。余計に呼吸が苦しくなる。
色々うまくできないと知っているのに、それでも一緒にいてくれた人。剣を握っている自分を見て、それは誰かを守ることの出来る力だと言ってくれた人。祖父たちと同じように自分を抱きしめてくれた、大事な、大事な人――会いたくて仕方のないその人はまだ見つからない。
「フィル」
「っ」
心が無防備になっていた所に突然名を呼ばれて、フィルは心臓を跳ねさせる。
「……アレックス」
見下ろしたそこに、彼がこちらを見上げているのを見つけて、なぜか泣きたくなった。
それから、自分を探してくれたのだと思い至って微笑んだら、ちょっと元気になれた。だって、笑った自分にアレックスは小さく笑い返してくれた。
「ご飯、食べに……って、アレックス?」
「結構難しいものだな……」
気を取り直して、夕飯に行こうと思ったフィルの足元で、アレックスが一番下の枝に手をかけた。ひどく不器用な仕草でその長身を枝の上へと持ち上げる。
(木登り、アレックスが……)
あまりに意外な組み合わせに、フィルは思わず目を丸くする。
「わっ、アレックスっ」
もう一段上の枝まで上がった彼がバランスを崩して落ちそうになって、フィルは上から慌てて手を差し出した。
『あと少し、アレク』
『うん……ここに手をかけて、こうして……っ!』
『うわっ、アレクっ……あ、危なかった』
『本当、危なかった……ありがとう、フィル』
(そういえば、アレクともこんなやり取りをしたことがあったっけ……)
彼に触れた手に感じた温もりと、懐かしい思い出に、じわりと心が温まる。知らずフィルは笑い出した。
「下手だと思っただろう?」
目の合った先の顔が苦笑を湛える。
「はい」
笑ったまま、フィルはアレックスと同じ位置にある枝の上へと降りると、その横に並んだ。
「木登り、やったこと、あまりなさそうですよね。なんで登ろうなんてしたんですか?」
なんだか、すごく、すごく嬉しかったけれど――。
アレックスはその質問にただ苦笑だけを返してきたけれど、それでも自分の言葉に気分を害したわけではない、と彼の空気が伝えてくる。
(あ……)
そして、頭の上にポンと置かれたのは大きな手。
「夕飯、せっかくだし外に食べに行こうか、一緒に」
投げかけられたその言葉に、フィルは再び目をみはる。
彼の艶やかな黒髪が、フィルの顔を覗き込んできた拍子にさらりと揺れる。
少し日に焼けた肌と鋭利な顎のライン。通った鼻筋と少し薄めだけど、男らしさを感じさせる唇。親友と同じ色の瞳を宿す、涼やかな目元とその上の形とバランスのいい眉。その顔が気遣いの色を浮かべて、そんな言葉をくれたことに泣きそうになる。
「ついでに甘い物も。助けてもらったお礼に奢る」
続けられた言葉に、さらに胸が詰まった。彼の口から出てきたのは自分のために用意された言葉で、頭の上に伸ばされた手は、自分を慰めるためのもの――全てフィルが半年前に失くしてしまったものだったから。
「……ケーキ?」
泣き出しそうになったのを隠したくて、俯きながら何とか探し出した言葉にアレックスは微かに笑うと、頭に置いていた大きな手で、優しく横髪を梳き上げてくれる。
「そう。やっぱりチョコレートがいいか?」
優しく言われたその声とゆっくり、ゆっくり髪を梳いてくれるその丁寧な仕草。
(……あったかい、な)
無いと思っていた物が不意に与えられたことで、隠したかったはずなのに、泣きたくはないのに、勝手に涙腺が緩んでしまう。
「……よっ」
それを悟られたくなくて、フィルは慌てて木から飛び降りると、その隙にずっと鼻をすすり、ついでに目元を拭った。そして、未だに枝の上にいるアレックスを振り仰ぐ。
(そうだ、ここが、今が、誰もいなくなった、それが現実。けれど……)
「はい。一緒に行きましょう、アレックス」
こうやって私を見てくれている人がここにもいる。こうして気にかけてくれる人がここにいる。
「私、」
この感謝をどう伝えよう? もっと上手く話が出来ればいいのに……。
「アレックスと同じ部屋になって、相方になれて良かったです。いっぱい、いっぱい、本当にいっぱい救われてるんです」
「俺の台詞だ」
そんなつたない言葉にも、アレックスはちゃんと応じてくれた。今日一日、ずっと夢うつつだったのに、不意に現実感が戻ってくる。
「行こう、はぐれて迷子になるなよ」
「……うー、気をつけます」
木から降りてきたアレックスのからかうような声にそう返せば、彼はまた笑った。その顔が嬉しい。
辺りはすっかり宵の薄闇に覆われてしまって、風もひどく冷たいままだというのに、呼吸はひどく楽になっている。
「……ふふ」
ああ、今日、初めてちゃんと笑えた――。
それからもう一つ、今日初めてわかったことがある。
フィルは隣を歩くアレックスを横目でこっそり見つめて、安堵の混ざった泣き笑いを零した。
「……月、見えませんね」
「そうだな……今日は新月だったか」
きっと私は大丈夫。ここもちゃんと温かくて、私は今日も、そして、明日もちゃんと呼吸が出来るのだろう。