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菅原道真と「怨念」考察ープロット制作アトリエにて

菅原道真が、太宰府で非業の死を遂げてから
様々な事故や災害が都に訪れます。
これを道真が引き起こしたもの、
と捉えるより、もっと大きな地球規模の
自然神が成した技と考えました。

道真は、清涼殿が落雷して貴族たちが
犠牲になったことは、自分が為した
ことではなく、天罰かどうかも告げられて
いない、と言います。

人格神より偉大な自然神の意図を
測ることは不可能と。

善行を積んだから救いがあるはず、
悪行を働いたものには罰がなされる。
そうでないと、人間は神を信じられない。

こんな風に思うって、人間が神という
偉大過ぎるものを、人間の意思に
従わせる、ということに他なりませんよね。

ここでマルチンルターの信仰義認について解説です。
ルターは、人は善行ではなく信仰によって
のみ義とされるとパウロ書簡によって
説いたのです。即ち、
神の計り知れない意思を感得するには、善行を
重ねるのではなく、信仰によるべきだ、と。

善行を積むのは、得をしたいから、
なのではなく、自分がそうしたいから
という純粋な思いによるべきなのですね。
そこに救いがあるかどうかは
ひたすらの信仰によって感得すべきだ。
という。また、ひたすら信仰が
あれば自然に善行を行う
ようになる、即ち善行は信仰の
結果なのだ。という。

道真が亡くなってから、彼の遺徳を
讃えて太宰府天満宮と、北野天満宮に
祀られ、人々は彼への信仰に勤めました。
ここに、彼の非業を悲しむもっと偉大な
自然神の意思を示す
予兆が見えるのではないでしょうか。

カルヴァンが、勤労によって資本を蓄積
できたものに神の救いの予兆をみたように。

プロットの考察は続きます。

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