どうもこんばんは、山本です。
今回の内容もまたタイトルどおりなのですが。
さっき思い出したんですが、わたし、どうやらアロマンティックでアセクシュアルなキャラクターを書いたことがありました。そういうつもりじゃなかったのですっかり忘れていたんですが、そういう子でした。
(数年前に書いていた「恋する〜」とはべつの話の番外編だったので、しばらく作品として登場する予定もないので言っちゃいます)
そのときは、たしか……ポリアモリーとかがわりとテレビとかでも言われるようになったくらいだったと思うのですが。
いまのいままで「そういう子がいた」ことを忘れていたのは、作者が「そういう設定」だと思って書いてなかったからではないかと。
アロマンティックでアセクシュアルということも、最初から決めていたわけじゃなくて、その子中心の番外編を書いているうちに「どうやら恋愛にも性にも興味がないらしい」とわかった、それだけなので。
なので、アセクシュアルでアロマンティックっていうのは、完全に今日(正確には昨日)気づいた「後づけ設定」なんですよね……
これで自分の思考回路が「設定をどうやってつくっているか」の棚卸しになっちゃったので、ついでに吐き出しておこうという近況ノートです。
皆さんがどうされているかはわからないんですが、わたしはあまり設定を決めないタイプではないかと思います。
たとえばみそらとみっちゃんですが、専攻以外で最初に決まっていたのは
みそら:身長は平均よりちょっと高めで声楽専攻としてはわりと細め。伴奏に困っている。ビジュアル要素はまつげが長い。
みっちゃん:進学校から音大に来た頭のいい子。音楽をやるのは大学いっぱいで一般就職したい。実家が近い。ビジュアル要素はきれいめ。
くらいです。性格も厳密には決めてない。
(ビジュアル要素はあったほうがカメラ回しやすいので軽くこれくらいあります。みそらの体型はビジュアルというより音楽的にどう影響するかなので、ビジュアル要素に入らないです)
じつはこれの前のプロトタイプのボツ案ではもう一つずつくらい設定があったんですが、それがあるとどうにも10行くらいしか書けない。というかキャラが喋らない。3日くらいやってもたしか動かなかった。えらいこっちゃです。
そこでいったん上の状態にリセットして、課題にフォーカスしたら嘘のようにしゃべりはじめた、という流れでできあがっています。
なので、昨日のノートでは「葉子ちゃんは(性的指向などに)理解がかなりある設定だったりします」と書きましたが、これは「そういう設定にした」のではなくて、葉子のエピソードを考えているうちに「こういう経験をしているなら、きっと理解がある子なんだろうなあ」と作者が(あくまで勝手に)思っているだけなんですよね。
設定が先じゃない。人とエピソードが先です。
これって、もしかしたら小栗旬の小四郎へのアプローチにちょっと近いのかな? と思ったりもしました。
たしか「どういう人であるというのを決めてかかるのではなく、役を生きていく中で自然とそうなった」ということをあさイチとかでも言っていたような(録画見直してないのでおぼろげかつニュアンスですが)。
なので、わりと鎌倉殿は見やすい。脚本と演者が「この人はこう」と決めてかかっているわけじゃないというのがわかるので。
たまに小四郎のことを悪く言う人がいますけど、あれがいまいちわかんないんですよね〜……何か先入観でもあるのかな。小四郎、かなりかわいそうな人だと思いますが。
そういえば「小四郎は黒くなったというより、雑になった」というようなツイートを見かけて、たしかに、と思いました。今週の放映後。
たしかにそうかも。いろんな手を尽くしたのにみんないなくなっちゃうし姉はあんなだしで、やれることやったのに非難されたらそりゃあもういろいろ雑に対応したくもなるよなと。黒いのではなく雑。とても言い得て妙。
十二国記の作中に出てくる「責難は成事にあらず」は人生でも大事にしたい言葉だと思っています。
小四郎で言うと、小四郎の立場になって彼以上のことができると証明できるわけでもないいち視聴者が彼を非難することはできるんですか? というマジレス具合です。
なのでこれは設定にもつうじることですが、「〇〇な人って、〇〇な人多いよね」というのも好みじゃないです。たとえば「ピアノ習ってるからロック聞かないイメージ」とか(作中でまんま出した)。「物語書いてるならこういう子ども時代を過ごしただろう」とか。いやおまえのイメージとか知らんがな。
「という傾向」はあるだろうけど、そうじゃない場合どうすんだよ。たまたまそうじゃない人がそれ見たら「よく知らん他人に勝手にそうじゃないと断じられた」になるじゃないですか。失礼の極み。と思って自分を戒めています。
話を戻そう。
まあそう感じなので、個人的には設定を決めすぎないほうが動かしやすいというか、キャラの行動の幅が狭まらないのかもしれないと思っています。
第十二章「ひと粒の麦」で白尾あきらがああいう選択をするような「設定」は、初登場の第七章の時点では影も形もありませんでした。
じゃあどう考えているかというと、「あきらは卒業後どうすんだろうなあ、もう秋だしなあ」と思いながら考えて、そしたらふと、それこそ作中のシーンのような感じで、作者もあきらの行動を「知る」だけなんですよね。
お風呂場で思いついた(知った)ときは、「まじか〜あきらまじか」とみっちゃんとおなじような反応をしていました。それくらい「設定」というのは、あとから自然と生まれるものなのかなと。
そういうことを思ったりして、自分の好きなものを書いています。