こんにちは、山本です。
先ほど「第十二章 ひと粒の麦」が終わりました。
じつは今朝が博多座のミュージカルのチケットの一般発売日だったので、ネットですごく遠い後方席をやっとこさ1枚確保したんですが、どうしても違うキャストも気になって電話をやってました。が、ぜんぜんつながらず。
普段だったら15〜30分でいけるのにそれがだめってことはこれは行かなくていいってことだなともう割り切りました(苦笑)。チケットは縁であるし、引き寄せなので……。
と、余談ですが、そういうことをしつつアップしました。
章の最後の更新なのであまり間を開けずにとは思っていましたが、チケットもそうですが、仕事では取材サンドイッチとかしていたのでけっきょく週末になってしまいました……。
が、この章は、これで終わりです。よかった。
以下、章タイトルと内容にふれます。ネタバレというほどではないですが念の為前フリを。
最後の「10」のアップに時間かかったのは前述した理由もありますが、ほかにも「こんなにさらっとでいいのか?」と考えたせいもあります。けっこうあっさりしてるんですよねこの章。
自分への戒めのようなものですが、いつも第3章の「You're not alone」の最後が頭にあって。
なのでいつも、書いているあいだは定期的に「3章のあの色はどこへ行ったんだろう」と自問しています。ああいう絶望が大好きなこともありますが、どちらかというとこれはもしかしたら、スタートがどこだったかという原点回帰……初心を振り返ることにも近いかも。
なので作品のキャッチが「たとえどんな絶望のただ中にあったとしても、わたしは歌うことを知っている」のままなのは、やっぱり初心忘るべからずの意味もあるし、これが根底にあるという証拠でもあるんですよね。
あれ以降そういうシーンはなく、それでいいのかという思いも毎回捨てきれないんですが、やっぱりキャラも成長していて、「そういう心境になったとしても以前ほど落ち込まない。慣れてるから」となってしまう。
キャラ的にもそう思うだろうし、作者というか、読み手……というか編集視点? で考えても、前とおなじところにいても意味がない、となるんですよね。
なのであっさりしていますが、今回はこれでいいんだろうと思います。3章のときのみそらはもういないですね。それでいい。
それでちょっといろいろ考えていたら、「舞いあがれ」と「カムカム」の演出の違い、みたいなのにやっと自分なりに腹落ちする発見があって。
「舞いあがれ」の脚本のレベルがとんでもなく高いのに、地味って言われるの意味わからん……と思っていたのですが。
もしかしたら「カムカム」は一人称の演出で、「舞いあがれ」は三人称の演出なのではないか、と、先ほどのみそらの心境を考えていたときに気づきました。
うちの作品の文章って、三人称ぽいんですけど、実際は一人称と半分半分なんですよね。
そうしたほうが、読んでいる状態でキャラと思考が同化するので、読みやすいかもしれないという思惑もありますし、たんに作者が書きやすい(同化しやすい)のもある。一人称ではないけど、一人称ぽいからできる手法ですね。
ほかにも、「三人称だと読むときに視点が定まらないと読みづらい」というのがあって。
三人称でも読みづらくない書き方をする作家さんもいますが、どうにもそれがいまいちな人はいる。下手な一人称が読み手としてとてもストレスなので、最近は無意識のうちに完全な三人称を避けているかもしれないです。
なので本編は基本みそらとみっちゃんのどっちか、番外編は番外編で中心となるキャラの視点で、と決めています。
だから前述したように、みそら、みっちゃんのどちらの視点であっても、もう心がめたくそになるくらいにつらいことはもうないんだよな、と。
朝ドラに戻ると、「カムカム」はどう考えてもそういう演出だった。安子の苦しみはまだ暗い列車の中、雨、木漏れ日、るいの開放感はミュージカル風、葛藤はテレビ番組とか。キャラの心情に寄り添った演出で、そういうのってきっと一人称の演出、つまり心象風景をそのまま描き出すものなのだろうと思ったのです。
だからこそ演出もドラマチックだったし、そのおかげで視聴者も安子といっしょに「I hate you」でホラー体験したし、あの時代の理不尽さを受け取ったし、るいの妄想に巻き込まれた。すごい手法だなあ。
一方で「舞いあがれ」は三人称。いろんな人の日常の暮らしのあれこれを、舞を中心にして、フラットに描く。だから演出も三人称。なので地味という印象になる人もいるのかもと。
そう考えたらうちの演出は、一周回りましたけど、間違いなく一人称で。その一人ひとりが前に進んだ分、現在の時間軸の演出もさっぱりしてくるんだろうなあ……と思い至ったわけでした。
個人的にはキャラの心情を追わないと精度が上がらないので、こっちのやり方を取っていますが、三人称でもやれる人もいるんだろうなと思ったりしています。
そして章タイトル。
こちらはさだまさしさんの同タイトルの曲から拝借しました。
中村哲医師の鎮魂のために書かれた歌で、ベートーヴェンの悲愴のモチーフを取り入れていたりするんですが、2020年5月20日発売のアルバムに入っていて、ちょうど……新型コロナウイルスが本気で生活に入り込んできた時期だったとも思います。自分も体調崩したりとかしてた。そんなときに出てきた歌で、なんかみょうにほんと、救われたというか、水がうるおっていくような味わいがあったんですよね……
内容はいつか書こうと思っていたこと(イベントと言っていいかも)で、それがいつこのタイトルと結びついたかはもうはっきり覚えてないんですが、でもこのタイトルで間違いなかったなと思っています。
もし気になる方はぜひサブスクなどで聞いてみてください(さださんはサブスクに積極的です)。「存在理由~Raison d'être~」というアルバムに入っているので。
そんな感じの拙作ですが、まだ……まだ終わんねえんだよな〜〜〜〜〜〜〜!!! びっくり!!!
つぎはこの終わったばかりの12章の番外編、13章はちゃんとまたピアノ科のみんなの話、そしてそのつぎがまた番外編(という、本編を番外編でやるシリーズ)になるかなと思っています。
解像度企画もそうなのですが、じっくり考えるのが好きなタイプなので、まあ書くものもそうなるんだろうなと。もう性分というか、癖というか。
「舞いあがれ」ではデラシネのおっちゃんがいなくなり、たかしくんが大変なことになりましたが、彼には思い出と「和歌」という新しい武器でありシェルターがあるんだなとうれしく思いました。
そしてわたしにとっては作品を――すくなくともいまはこの「恋するハンマーフリューゲル」を書くことが、自分の居場所なんだと思います。
そういう感じなのでどうにも長々としてしまうんですが 苦笑。
どうか気が向いた方は、もうちょっとお付き合いくださるとうれしいです。
(チケ戦争で疲れたのでちょっと日本語がおかしいかも……気が向いたら修正します)