エヒトクラング第2章をお読み下さり、ありがとうございます。前回に続き、執筆の経緯などを書かせていただきます。
本章を構想するに至ったきっかけは、若手ピアニスト、アリス・沙良・オットが多発性硬化症を発症したことで、いち早い回復を願ってのことでした。多発性硬化症はチェリストのジャクリーヌ・デュ・プレが発症し、引退を余儀なくされたことが知られており、彼女ももしかして……と囁かれていました。幸い現在では復帰して、以前より音色が明るくなったとも言われています。
今回のヒロインであるレナ・シュルツェも、日本人とドイツ人のハーフであること、また演奏は裸足で行うなどある程度の共通点はありますが、アリス・沙良・オットをモデルにしたというわけではなく、完全に作者の中で作られたオリジナルのキャラクターです。
作中に出てくるカール・ヴュルトの手記は、ピアニスト、エレーヌ・グリモーの著作「retour à salem」にて引用されていたもので、その文書はハンブルクの古書店で見つけたものだそうです。そのことが堀江敏幸著「音の糸」で紹介されていたので、その部分を以下に引用させていただきます。
「彼女(エレーヌ・グリモー)の目は、すぐさま年代ものの姿見に惹きつけられた。のぞき込んでみると、自分の背後に、北方の雪景色がひろがっている。黒い樅の木の森と凍りついた大きな湖。ポスターか写真が映り込んでいるのかと振り返ってみると、書棚しかなかった。垣間見た景色は、幻想だったのか。正札の但し書きによれば、この姿見は、一八九九年にギルフォードで競売にかけられた、チャールズ・ドジソン、つまりルイス・キャロルの所有物だという。彼女は動揺して、床に積まれていた書類の束につまずいた。崩れかけた紙の中に、楽譜の一部がちらりと見える。店を出る口実に、彼女はその山をごっそり買い求めた。二日後、ホテルで開封してみると、原稿らしきものの束が出てきた。厚紙を表紙にして、そこに奇怪なエッチングが貼りつけてある。波立つ海を背景にしたテラスのようなところで男がピアノを弾いている。左隣には、ハープを手にした人魚の姿が描かれていた。作者はマックス・クリンガー。幻想的な光景を目にして、彼女は思う。この絵の世界は、いまリハーサルでとりかかっているブラームスの《ピアノ協奏曲第二番》から感じるヴィジョンそのものだと。しかも草稿には、カール・ヴュルトという名が記されている。ブラームスのペンネームのひとつだった。(以上、「音の糸」150-151頁より)」
堀江氏はこの本を原文のフランス語で読まれたそうですが、本章での引用文はドイツ語訳(ドイツ語版タイトルは「Das Lied der Natur」)から訳出しました。これがカール・ヴュルトの原文そのままなのか、フランス語から訳し返されたものかはわかりませんが、グリモー自身、この著作の真偽の程は定かでないとしています。
いずれにせよ、筆者はグリモーの著述にとても神秘的なものを感じ、レナ・シュルツェの癒やしと回復のために用いさせていただきました。
続けて第三章ではボートピープルだった父を持つベトナム系アメリカ人ピアニストが登場します。堂島エージェンシーは彼女を招聘しようとするも、なぜか彼女は日本に来たがらない。そこで我らが矢木さやかが奮闘する……という話です。よろしくお願いします。