伏線願望が年々強くなっているように思います。
長編にしろ短編にしろ、どんでん返しというものを大多数の人間が好んでいるように感じられます。それは映画の謳い文句で見かける頻度からも明白でしょう。
とは言え、伏線回収とそれによるカタルシスが主軸となってしまうと、道中の物語が陳腐なものになってしまうように感じられます。要は、どんでん返しの鍵となる部分を意図的に隠すことにより、淡白な話になってしまうのです。あるいは、「先が気になる」という欲求を超えて、一向に話が進まないモヤモヤを抱えることになるかもしれません。カタルシスを得るというのは、心の中に鬱積していた感情を放出し、快感を得ることですので、それが強いということは、それまでに大きなストレスを抱えることになるということに他なりません。大きな見せ場を見据えて、伏線を張って張って張り続けても、読者からしてみれば「まだ引き伸ばすのかよ」と苛立ちが溜まってしまうのです。ある境を超えると、ワクワクがイライラに変わるのでしょう。話の引っ張り過ぎに注意ですね。
それでも、人は伏線回収を望むものです。私もそれを望んでいる一人です。しかし、伏線回収に物語の善し悪しが左右される風潮は苦手です。評価に加味されるのは問題ありませんが、あくまでも伏線は必須ではなく物語のスパイスですので、「伏線回収が素晴らしいから名作!」があったとしても、「伏線回収やどんでん返しがないから駄作!」というのは如何なものでしょう。伏線回収に重きを置いていて、どんでん返しを受けて「してやられた!」という感情が先走った結果、名作判定を出したとしても、それ以外の部分、例えば回収した伏線以外の謎が謎のままであったり、伝えたいことが明確でなかったり、そんな単純に「伏線回収するだけの物語」というものばかりが絶賛される風潮は好ましくありません。伏線回収がなくても心に訴えかけてくる物語はありますし、熱くなれる物語もあります。無論、伏線回収が見事でありながらテーマもしっかりしている名作もあります。ただ、伏線回収に比重を置いている人が多いように感じられるのです。インターネットでの書き込みを閲覧することが多いので、そう感じるのかもしれませんが。
好き嫌いの話ですので、だからと言って「自分が間違っていた」「貴方が間違っている」ということではありません。世論に従った物語を書いたとしても、それを良く思う人もいれば悪く思う人もいる、ただそれだけなのです。ならば、自分の好きな物語を書き上げるほうがとても幸せで、カタルシスを得られるのではないでしょうか。それが世論の求める伏線回収の流れに沿っていれば、皆がカタルシスに包まれる快楽の世界、いわゆる名作をとなり得るでしょう。