忙しさの果てに、人は心を亡くすものだと誰かが言っていた。
忙しくなればなるほど、労力は削られていく。
同僚に曰く、人員が不足しているのだと。
激しく同意をしたいところではあるが、実のところそうではない気がしている。
家の中に蜘蛛が住んでいる。
蜘蛛は家の中に住みながら、家の中に潜む虫を食らう。
朝蜘蛛やら夜蜘蛛やら、昔から吉凶の両性質を持ち合わせた生き物である。
この生き物は一体どこから湧いて出てくるのであろうか。
煙を焚いて退治する薬を使っても、ほんのしばらく時を経て、彼らは必ず姿を現す。
あの高足の8本のそれをジグザグに動かしながら、彼らは餌を食らっている。
そうすると、彼らが我が家に潜むのは(潜んでいるようには見えない、あからさまに見えるところにいて腹が立つ)、我が家には豊富な餌があるのだろう。
では、豊富な餌とは一体なんなのだろうか。
これらも結局外からやってくるしかない、そんな虫たちが彼らの餌である。
彼らを退治しても退治してもきりがないほどの巣が存在している以上、そんな彼らが活躍すべき場が与えられていることになるのである。
そんな状況は非常に不愉快である。
蜘蛛が増えれば増えるほど、餌となるものが増えていくのだろう。
きっと、本来餌であるはずのものだけではなく、違うものまで食らっているに違いない。
そうして彼らは今日まで生き延びてきているのだ。
さて、果たして、“蜘蛛”とはなんのことだろうか。
要するに、治安の悪い都市があるとして、その都市の治安を守るために警官が導入されるだろう。
結果、その成果が称えられ、さらに警官が増えることになる。
増えた警官は、必要以上に治安維持に努めるだろう。
そうしなければ、自分たちは職を失ってしまう。生きるために、不必要な正義を振りかざし、不要なまでに悪を取り締まるのである。
そうすることで、さらにさらに警官は増えていく。
なぜなら、警官を導入したものの、事件は増えていく一方だからだ。
結果として、しばらくの間その都市の治安は、数字上回復されないこととなるのである。
警官を増やせば犯罪が増える、という原理だ。
これは、医療現場にも言える。
薬が増えれば病気が増える。
教育でいうならば、教えることが増えれば、わからないことが増えていく。
忙しさとは、不必要な増殖の中で生まれるものだ。
結局のところ、忙しさに対処するのは「数を増やす」ことではない。
むしろ、その根源となるものを減らすことにある。
身の丈に合う中身を精査しよう。
そう言って、男は今日も何かに着手することはなかった。