共感とはなんなのだろうか、と、ふと考えてみた。
何かを見たり、聞いたり、体験したりしたことを共有し、複数人が似たような感情を持つことなのだろうか。
だとしたら、世の中は残酷である。
人は皆、自らが物事を考え、自らが感じたことを自らが表現していると思い込まされているのだと気づく。
実は、そのほとんどが誘導された思考であり、仕込まれた感情なのである。道徳心の名のもとに、そう思い込むように考えさせられてしまっているのだ。
太古の昔から、人類は常識という名のメガネを掛けさせられ、世の中を見ていた。世の全てはこう見えているのだ、これはこう感じるべきなのだ、と、知らぬうちから刷り込まれてきた。
世界の最端に何があるのか。
地の周りをなぜ天体が回っているのか。
それを疑わぬ限り、我々は常に真実と疑わない。
だからこそ、今見ている現実は、本当に現実なのかと疑うべきなのかもしれない。
男は、その目の前に広がる光景を疑った。
日曜日、久々に訪れた安息の時間。男は映画館へと旅に出た。
男は、ポップコーンのラージサイズとコーラのラージサイズを両脇に抱え込み、客席のど真ん中を陣取る。
映画とは素晴らしいものである。虚構の世界でありながら、それをいかにリアルに表現できるのか。それが現実とは違う世界であるとわかっていながらも、英語で言えば「What you're name ?」というセリフを聞いたときに涙が出るものだ。
しかし、果たしてこの涙は本物だろうか。
いや、確かに涙がこぼれていた。
それもその筈だった。
男には声が聞こえたからだ。
「この映画は一人で観に来るものじゃないよな」と。
ここで男が感じたもの。涙の正体を感じ取れる者が、一体どれくらいいるのだろうか。
それは、その価値観を刷り込まれたからにすぎない。
映画は別に、何人でも見ていいではないか。
それでも、少しずつ心は傷んでいく、歪んでいく。
涙の正体に、男はようやく気がついた。
現実に引き戻されたとき、男の両サイドにはカップルが座っていた。
今日も執筆は進まない。