哲学というものは、暇を持て余した偉人が暇をつぶすために始めた遊びか何かであると思っていた。
しかし、それを本当に遊びなのかと問い詰めて考えていると、不思議と無意味ではないような気がしてならない。
例えば、目の前に1個の輪ゴムがあったとして、この輪ゴムは、一体何のために生まれてきたのだろうと考えてみる。
これを、樹脂と化学品との混合獣(キメラ)ではないのだろうかと普段から考えることは滅多にあるまい。
でも、これは混合獣なのだと力説を始めてみると、知らずのうちに筋も理屈も通ってきてしまう。それが人を納得させ始めると、それは面白い考え方だと賞賛されるようになる。
先日の話。
一人の少年が、なぜ自分は生まれたのか、と、親に問うた。
親は、望んだからだ、と答えた。
僕は、望んでいない、と答えた。
その後は「鶏が先か、卵が先か」という議論のような話が堂々巡りしていた。
子はいずれ大人になり、親になる。その時が来れば、わかるのだ。
その答えに少年は納得していない。
僕自身のことを自分勝手に生んだのだから、その後の人生を子供に押し付けるのは無責任である、と。
さて、大人になってしまった自分は、かつて同じような疑問を抱いていただろう。そんなことは考えてもどうしようもないが、果たして自分が大人になってしまったとき、その答えを用意できているのかが問題だ。
誰にも用意できない答えを用意できることは、一部の人間の特権かもしれない。
輪ゴムが混合獣である。という話は、あながち嘘にはならない。
なぜなら、さきほどの少年の問いと同じく、自分がここに存在していることの正当性を証明することと同じことだと思うから。
こういった考えというものは、「世界で一番初めて誕生した鶏の卵」くらい価値がありそうだ。
という妄想をしていたら、いつの間にか朝になっていた。
ちなみに上記の少年とは筆者のことではありません。
今日も執筆は進まなかった。
追伸;最近近況ノートに反応をしてくださる方がいらっしゃり、とても嬉しく思っています。
これからも、「近況ノートの目的」を無視して執筆が進まない言い訳をつらつらと書き連ねていきたい所存です。
エッセイには……なるのでしょうか。わかりません(笑)