かつて、コンパクトカメラが俗に「バカ◯ョンカメラ」と呼ばれていた時代がありました。今から半世紀以上も前、写真を撮るにはピント合わせの技術が必要だったカメラに、オートフォーカス機能をつけることで誰でも手軽に写真を撮れるようになったため、「バカでも◯ョンでも撮れる」と言われるようになったのです。
当時は「バカでも◯ョンでも」という言い回しが存在し、教員も授業中に「こんなことはバカでも◯ョンでもわかる」と言ったりしていました。しかし、これは「特定の属性を持つ人は思考能力がない」と言い切る差別表現でした。
私は十代の頃、このカメラが小型なので「気軽に旅行に持ち出してスナップを撮れる」という意味でVacationが由来なのだろうとふんわり思っていて、友達との会話で「バカ◯ョンカメラ」の語を出したところ即座に「それ、言ったらダメだよ」と注意されました。
「え、バケーションの意味じゃないの?」
「全然そんな意味じゃないから! ◯ョンていうのはね…(説明)」
「え、でも小学校の時先生も『バカでも◯ョンでも』って言ってたよ?」
「いやいや、とにかくダメだから!」
……当時の私は、「◯ョン」自体が差別語であることすら知らなかったのです。知った以上はもう使うことはありませんでしたが、先に知ってた友達は私の反応に苛立っただろうなと思います。
似たようなことはもう一つありました。
東日本大震災の頃、現場ルポ映像の中で被災者が近隣エリアの人々が避難できたのか案じていて、その際「◯◯部落では」と発言していました。音声はその通りですが、字幕は「◯◯地区では」となっていました。
部落と言うと一般には被差別部落を指すイメージがありますが、東北のある範囲の地域では単にコミュニティを指します。全く差別的な意図も文脈もなく「あそこの部落は」「おらほの部落は」などと呼んでおり、つまりはアイデンティティを構成する要素の一つに付いた無垢なラベルでしかないのです。
しかし、その地域ではその扱いでも全国放送となるとやはりそうもいかない、という判断があったのだろうな、と字幕を見て察しました。
震災よりも以前の頃、部落という言葉については私自身もそのような感覚であることを関西出身の知人に説明したことがありますが、「それでも使うのはやめた方がいい」と真顔で言われたものでした。なので、帰省したときに相手の文脈に乗っかったほうがいいときぐらいしか使いません。
何が言いたいかと言うと、自分は差別するつもりはなくても、言葉自体がすでに差別の歴史を背負っている場合があるということです。その言葉によって差別された側に属する人にとっては、発言者の意図に関係なく傷付く(可能性がある)のです。
そのような背景を知らずに無邪気に使ってしまうことは悪いとは言えません。しかし、知る機会は得たほうがいいです。そして、知った後どうするかこそが問題です。前述の私の二つのケースは、差別の背景があることを知ってもなお、差別の意図を乗せずに使い続けようとしていて、これは非常に悪質というか迷惑なリアクションだと思います。いや、やっぱり悪質です。「最近は何でもハラスメントで、話すことがなくなってしまう」とボヤく中高年と同じです。
――と、ここまでが前フリ。
最近の読書において、そういった差別表現を、差別表現だと気づかないまま登場人物があっけらかんと口にしているのを目にして軽くモヤり、度重なるうちに傷が深くなっていく……という経験をしました。
具体的には「レズ」という単語ですが。
例えば、ちょっとあなたのボキャブラリーの中から探してみてほしいのですが、
・誰かを噂するときに使う言葉で、
・でも目の前の人に向けて言うのはちょっとはばかられ、
・とは言え自分に対して使うこともあるけどその際は自虐的な意図を込めており、
・しかしガチでその属性に属すると思われるのは忌避したい
……そんな言葉はありますか? 例えば「ブス」「ハゲ」「クズ」などでしょうか。あ、「ホモ」も間違いなくそうでしょうね。
まあそういった言葉を、「レズ」発言がある作品があったらその箇所に代入してみてください。キャラが無邪気に言ってたことは何なのか、私の言いたいことが伝わるでしょうか。
つまり「レズ」は、それらと同じく侮蔑語なのです。発言したキャラには背景知識がなくとも、もしこの言葉に対して前述のような感覚を持っていたとしたら、無意識に「レズ」という存在に侮蔑感を抱いているのではないか、と感じてしまうわけです。
キャラの環境によっては知らないのは仕方ないので、その後のストーリーで意味を知り理解していく、という演出があればこちらも救われるのですが……。その表現が話の本筋ではない場合には、そんな注文もつけられませんね。
また別の作品で驚いたのは、作品そのものよりも読者たちの反応です。それは、とてもやるせない出来事について書かれたお話なのですが、読者はこれを優れたエンタメとして評価しようとしている様子がありました。作者さまは少々戸惑っていた印象ですが。
ひょっとして、お話が重すぎてエンタメという箱にでも入れなければ受け止められないのかな? などとしばらく面食らいましたが……おそらくその方々は、「エンタメ」について私がイメージするものよりもはるかに広く奥行きのある定義を与えているのだろう――と思うことにしました。
例えば、現実の自分の人生ではほぼ遭遇しないであろうことを、物語を読むことで疑似体験し、優れた描写によって深く感情を揺さぶられる、そういう体験を与えてくれるものである――とか。(実際のところはわかりません)
仮にその定義で考えるならば、エンタメを堪能した人々の中から、感情を消費して終わるのでなく、その感情を起点として現実の生活の中で何らかの行動として反映させる人も現れてくれればいいな、できればその比率が上がってほしいな、と願いたいところです。
花火より見応えあるぞと喝采を贈られている対岸の火事 ――じゃあないんですよ、セクシャルマイノリティは。(思わず短歌調)
まあこれはセクマイに限らず、諸々の周縁化された人々についても同様です。
なお、ここで語られた作品はいずれも物語としてはとても良い作品でした。個別の作品や作者さまを批判しているのではなく、こういった表現やリアクションが生じる状況について、私個人のいわゆるお気持ちを綴っております。つまりグチのような何かですね。
後日公開するであろう自主企画まとめページに書くことでもないので、こちらに書き留めておきます。