早朝から代打で、地域コミュニティにおける「資源ごみ」出しの「番人」という不毛(?)な役回りに従事させられ、心のエナジーが枯渇しかかっている卯月です。
まあ、いつもサボってるんで、たまには顔出しして生存をご近所さまに認知していただくのは必要だとは思うのですよ。一応。
気づけば新興住宅地だったはずの卯月エリアもジジババ天国となっており、他の「番人」たちは(ずいぶん)年上が多い(うん、知ってた)。ご近所の奥様たちと軽く会話しながらいかに楽してサボろうかと思案(スマホでカクヨムの「ヨムヨム」でも)。
しかし、これが日本人(みんな昭和世代)の民度の高さなのか、誰もスマホなんて手にしておらず。(最近は外国の方も場所によっては増えているので、そっちはそっちで面倒そうだなと思いつつ)ひたすら時が経つのを耐え忍んでいました。(頭の中で小説の構成考えてましたけれども)
まあ、こんな日もあるさ。
そんでもってさっき見つけたネット記事が面白かったのでこちらに。ナゾロジーさん(ナゾロジーさんにしてはとてもまとも、というか深い)。
承認欲求というのは存在しない
https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/168393『実は、承認欲求という言葉が盛んに使われるようになったのはごく最近のことであり、その背後には人類史の闇とも言える「血塗られた歴史」が深く関係しているのです。』
いやいや、さすが。読ませにきてます(ちょっと長いですけど知的におもしろい)。
人類の進化の過程で生じた「仲間殺し」。それにたいする生物の生存戦略としての「噂話や悪口の共有」。もうこれは進化ですな。
そこで登場するのが「ダンバー数」。会社員さんならどこかで聞いたことある言葉かも(組織論とかで見た気がする)。
『ダンバー数という概念は、霊長類学者のロビン・ダンバーが提唱したもので、人間が安定した社会関係を維持できる人数の上限がおよそ150~200人程度だという仮説です。』
この流れでお分かりかと。SNS方面のことを、比較的新しい概念である「承認欲求」なる言葉の本質と繋げてお話を展開しています(ふむふむ)。
ちなみに、親密に連絡を取り合うのは5人程度(家族・親友クラス)。少し距離があるが深い関係を継続できるのは15人程度。なんとか顔を覚え、時々連絡をとるのは50人程度。名前と顔が一致し、ある程度の情報を共有できるのは150人程度。その先の500人・1500人という段階には「知人」「名前だけ知っている」などの薄い層が続く……といった具合に、脳の処理能力によってレベル別にグループが区切られている。
これはSNSも同様(まあカクヨムも同様)。似たようなことを以前どなたかが触れていたのを見たような気もします。『どんなにコミュ力に自信がある人でも「親密に連絡を取り合う1万人の親友」や「性格を完全に把握できる10万人の友達」を持つことはできません』(たとえ時間が無限にあったとしても、脳の能力的に不可能)
ですが、SNSは数百万~数億人レベルの(うっすい)繋がりは可能にしてしまう。
『人間の原始的な脳が、SNSに映し出される無数の人々を“自分と同じ群れの仲間”と誤認し脳がある種の混乱状態になってしまう』→『誤作動』
『不安を打ち消すため、人々はSNS上に「美味しい食事をした」「素敵な場所に行った」「友達との楽しい時間」など、自分の魅力・価値を示す投稿を行い続けます』
『言葉を変えれば「承認欲求」は古くから議論されてきた「社会的欲求」の現代版ラベリングに過ぎないのです。』
詳しくは記事を読まないとその論理は見えないかもですけど、ひとつの考え方としてとても説得力があります(まあ記事を書いてるのがナゾロジーの副編集長さまですし)。最後のほうに内容をまとめたSF短編的まとめもあるので、それだけでも面白いかもです。
本当に世の中には執筆の参考になる(妄想を掻き立てる)内容が溢れておりますな。
このあと、眠気を堪えてなんとか本日投稿用の一話分だけでも仕上げたいっす。
カンザキイオリが数日前になかなか、かっけえのを発表していたので。
スーツ/重音テト&初音ミク
https://www.youtube.com/watch?v=DMEmRL5YGTMでは。