あっ、運営さまが『「KAC2024」一部賞品発送遅延のお知らせ』を出してました。
卯月の「ブルブルくん」効果か……。いや、たまたまです。
「システムが復旧次第、発送いたします。
ご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます」と文末にあります。ふうっ、随分先になりそうで……。でも、良いのです。こういった「お知らせ」でみんな安心するのですよ。大変だけど頑張ってるんだなって。
さて、卯月も頑張らねば、です!
何を? うーん……。
一応昨日も書きましたけど、新たな人称視点への挑戦と児童文学探求ですかね。
児童文学については、頼りにしているのがいまは亡き、河合隼雄さま。あの御方の書籍はいろいろ残ってるんですよね。分析心理学、臨床心理学のえらいひとで、文化庁長官なんかもなさってましたか。児童文学に関する書籍もけっこうあって、本職の方よりも詳しいのではないかと思います。
まあ、まずは「ホンモノ」を知るところからスタートです。そこから「にせモノ・まがいモノ」で良いので書いてみたいなと(fateの衛宮くん的昇華をめざすのです)。
河合隼雄は、児童文学を子どものための読み物とは考えていません。「子どもの目」を通してみた世界が表現されている文学だと言っています。それは子どもも大人もともに読む価値のあるものでなければならないと。(以下、河合隼雄「子どもの目」からの発想からの引用を含みます)
多くの人の知る『ナルニア国ものがたり』の作者C・S・ルイスも「私は、子どもにしか喜ばれない児童文学は、児童文学としてもよくないものだということを、一つの規範としてあげたいくらいです」と名言されています。
いやはや、子どもに喜ばれるものを書けるかどうかも怪しい卯月には、とても厳しいお言葉です。
このルイスの書いた「子どもの本の書き方三つ」という評論があるらしく、その中で、児童文学のよくない書き方として、子どもたちの欲するものを与えようとする書き方をあげています。
河合隼雄によれば「子どもたちは『正義』を欲するだろう。『ハッピーエンド』を欲するだろう。このような考えだけにとらわれるとき、それは浅はかな主人持ちも文学になってしまうのである」と。
この「主人持ちの文学」というのは、志賀直哉の有名な言葉ですね。志賀直哉が、小林多喜二の作品を「主人持ちの文学」と評したアレ。イデオロギーという主人に奉仕する文学だとかナントカ。気になる方は自分で調べてみましょう。
小宮山量平という人の「いま創作児童文学の壁に直面して」という講演で、この志賀直哉の言葉に反論して「むしろ、いついかなる時でも、文学は自分自身の真実を主人公にした主人持ち文学じゃなくちゃいかん……と、何故言わんのだろう。そう胸を張って、なぜ旗を振らないのだろう。少なくとも堂々と旗を振らねばならぬのは、わが児童文学ではなかろうか」と述べた言葉が紹介されていました。
卯月はこの主張に似たものをどこかのラノベのコンテストの講評欄で見た気がしますが、思い出せません。「主人持ちの……」というフレーズは志賀直哉のものだと知っていれば、モノ書きの教養としては十分だと思います。
河合隼雄によれば、「大人たちの目はあまりにも曇ってしまって、真の主人を見ぬく力を失っている。大人が主人だと思ってかつぎまわるものは、多くの場合、真の主人にはほど遠い存在であり、主人持ちも文学は、プロパガンダになりさがる。このため、志賀直哉の言葉も生じてきたのだろう。とくに、日本人はつまらぬ主人でも、いったん主人と決めると盲目的に従うような傾向があるので、インテリどもが志賀直哉の言葉に傾倒したのもよくわかる。……」そして「児童文学は主人持ちでなければならぬというときに、読者が子どもであるから、子どもたちによき主人を見つけてやるのだなどと思うと、大きいあやまちを犯すことになるだろう。そのあやまちの最たるものは、知らぬまに児童文学の作者自身が、子どもたちの主人のような気持ちになってしまうことである」。
何度読んでも学びのある『「子どもの目」からの発想』です。
現在のネット上あるいは売られている児童文学についての理解の浅い卯月ではありますが、河合隼雄の薦める書籍からまずは入ろうかと思います。
C・S・ルイスはもちろんですけど、リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』とか、カニグズバーグの名作もいろいろあるし、どれから読もうか(まだ研究用のラノベが溜まっているのですけど……)。
ああ、しばらくは「読む」お勉強が続きそうです。
とりあえずはこんな現状の卯月でした。
では。