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1月読んだ本。

今年は150冊を目標にしています。

冊数にどれほどの意味があるかは疑問ですが、

とりあえず読み続けるための目安として、

毎月の冊数を気にしようかと思っています。

というわけで、先月に読んだ本、13冊です。

・『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』ジョン・ケージ
・『指輪物語』1-6 J・R・R・トールキン
・『笑い』ベルクソン
・『読書について』ショウペンハウエル
・『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』桜庭一樹
・『ほんとうの花を見せにきた』桜庭一樹
・『やさしい統計入門』
・『統計検定2級 公式問題集』

1冊だけ問題集とかいうのがあるけど、

13冊(*12で150以上)に届かないと思って焦って

無理やり入れたわけじゃありません!!!!


ごめんなさい嘘です無理やり数にカウントしました来月からはもうズルしません。



なんというか、統計学の本は別として、

なかなかの良い作品をたくさん読めたように思います。


桜庭一樹はどうせ面白いだろうなと思いつつ読み、

良くも悪くもまったく期待を裏切りませんでした。


指輪物語は今も読み途中ですが、

こりゃもうどうにもならんくらい面白いです。

何回でも読めそう。というか、すぐにでも再読したい。(でも150冊いかなくなるからなあ、どうしよう。


読書について、や、笑い、は哲学の中ではかなり読みやすい部類の本ですね。

特に『読書について』は哲学書とは呼べないとは思います。ゆるい。

『笑い』はどうでしょう、微妙なラインなのかな。

二冊とも面白かったです。


『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』が、

私にとっては1月のベストかもしれません。

近頃私が考え続けているのは、

シンボルグラウンディングという問題で、

言語(記号)の経験との結びつきに関する問題(?)なのですが、

どこかしらでつながっているような気がしました。

(実際には今自分が考えていることに引き寄せて捉えがち

音楽における記号性や体系、あるいは権威だったり歴史だったりと、

そうしたものを背景にしてインタビューが進んでいくのがとても面白かったです。

ニュアンスとしては、音楽から音を取り戻す、みたいな話です(?)

音楽という体系や、歴史によって権威づけられたコンテキストから

音そのものを解放してやろうじゃないか、

みたいなことをジョン・ケージは試みてきたのだとか。

そのインタビューで「ああ、そうそうそれそれ」と思ったのが、

既存の権威を失墜させるための革命家や対抗馬であってはいけない、

みたいな話で、

音楽に革命を起こしたのであれば、

既存のそれに代替する新しい体系が形作られるだけで、

いずれにしても音はまだ囚われのままだという考えです。

だから、アンチテーゼとして既存のテーゼと対立させるわけではない。

むしろ枠組みそのものから逸脱していく感じ……(うまく言えない

放浪する、流浪の音楽になる、みたいな感じ……(うまく言えない

「そうそうそれだよ」

とか、勝手に一人で思ってました。



文学においては、

既存の枠組み、権威、体系から完全に逸脱することは不可能です。

言語の性質そのものが意味を伝達するための体系を前提としているからです。

また、物語もまた、言語に類似した伝達の体系を持つと考えられます。

そこにはやはり文法があり、慣習があり、なによりも使用があるのです。


使用。


これがあまりに大きい。

ウィトゲンシュタインの言語ゲームという考え方では、

言語ゲームという将棋の盤上においての使用だけが、

言語の意味(のようなもの?)を決定する、

みたいな感じなことをいっている。

たとえば金の駒があるとする。

棋士が特別、金を愛でているとする。

そして金を打つときだけ、そこに将棋盤には現れない意味を込めたとする。

もちろん相手には伝わらないが、棋士にとっては大事な一手となる。

この一手に、盤上の外の意味はあるだろうか?


ウィトゲンシュタインの主張では、

私の個人的な金への思いは好きに抱いて構わないが、

金は金でしかなく、

盤上のルールに従って、

その制約の範囲内でしか機能しない。


だとしたら。



言語は、言葉は、(あるいは物語は、)

そもそも解放なんてことができないものなのではないだろうか、とか。

個人的な言葉に対する"思い"なんて無意味なのではないか。

あるいは、個人的にある"語"に込めた特別な思いなんて無意味なのではないか。

たとえばChatGPTが

"ぺろぺろな雲は、夕暮れの空に浮かぶ、夢見心地の軽やかな姿です。その柔らかな触感は、風にそよぐ優しい愛撫のようであり、夕陽の光を受けてキラキラと輝きます。そのふわふわとした姿は、まるで天使の羽のように、心を癒やし、魂を解放するような魅力があります。見上げるだけで、空に思いを馳せ、愛に満ちた幸せな気持ちに包まれるのです。"

とか言い出してみても、その説明があってはじめて盤上に乗るのであって、

「ぺろぺろな雲」だけではそれに意味などないのではないか、とか。



意味からの逸脱、というのが好きです。

私はしばしば意味から逸脱しようとしがちです。

でも、できる限りは意味のなかにとどまろうとします。

盤上からはみ出すわけにはいかないからです。

私たちにできる限界は、

盤上内であたらしいルールの提案をするだけなのです。

だから、完全な逸脱は許されない、





って、んなわけあるかー。


まあ良いんですよね、

好きに書いて。

私の好きを私の好きなように書いてもいいのです。

それは許されている。


ただ、それが誰にも通じないだけ。

だとしたら、

私は永遠に壁打ちを続けるだけの、

孤独な文章作成botなのでしょうかね。


死ぬのが怖い。

あー、死ぬのが怖い。

testtestでしたー

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