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今週は試験。

統計学の勉強をしています。

十数年ぶりに積分やらなんやらに触れ、

悪戦苦闘しております。

何故そんな勉強をしているかというと、

なんとなく面白そうだと思ったからです。

ただ、それだけ。


職場で勉強しているというと、

多くの人は「どういうキャリアを考えているの」とか、

「何系の仕事をしようと思ってるの」とか、

お金を稼ぐことと必然的に結びつけて質問してきます。

社会とは、そもそも金を稼ぐ、

あるいは社会的に広く認められる価値を創造する、

ということ以外にまるで興味がないようです。

それは悪いことではないですが、

もう少しそれぞれが自分自身に関心を持てばいいのになあ、と思います。


たとえば、私はなにが好きなのだろう、とか。

どんな時に幸せを感じられるだろう、とか。

そもそも私ってのはいったいなんなんだろう、とか。

そうしたどうでもいいことをもっとたくさん考えればいいのに。


アイデンティティの形成というのは

思春期やそれ以降の過程ですでに済ませている

と考える人が多いのでしょうかね。

そんなの、一生付きまとうのに。


キェルケゴールは以下のようなことを言っています。

"
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。
"

自己がこのように定義されるのであれば、

私たちはそれを生涯かけても捕まえることができません。

それを彼は"絶望"と呼んだりしています。

背景にはキリスト教的文脈があるのかもしれないので、

あまり深い部分はわかりませんが、

絶望とは大袈裟な……と思ってしまいます。


むしろ私は、それを人間とでも名づけたい。

私が誰なのか、それを常に脅かされて、

曖昧で、それを失うのが怖いのか、それを持たないことが怖いのか、

それもよくわからないまま惑う存在。

それでいて、

他者との関係のなかで、

"自分"っぽいなにかを漠然と見つけることで安心できるという、

そういう存在。


まあようわからんけど。

とにかく、試験頑張ります。

あと、書くのも頑張ります(昨日久々にサボってしまった……)



さ、まだまだ!

2件のコメント

  • Testest様、こんにちは。

    人々が自分自身に対してとても無関心であることについては私も東京で生活していて頻繁に感じてしまいます。自分自身への興味がそのまま他者への人としての興味にもつながると思いますし、そうなれば素敵だとは思いますが、、

    現状、自意識過剰さや劣等感などネガティブな感情から芽生える憧れや刷り込まれた固定観念が支配的な気がします。

    ほんとうに自分という存在、湧いてくる感性などに人々の関心が向くともっと素敵ですね。

    難しいテーマですが、ひとつの回答、解釈をありがとうございます。
  • @TheYellowCrayon様

    >自分自身への興味がそのまま他者への人としての興味にもつながる

    おっしゃる通りだなと思いました。
    さらにその他者への興味が合わせ鏡のようになって、再び自分にも返ってくるのだろうなとも思いました。
    関係のなかで変化して、また自分を見直して、また他者を見て、その繰り返しのなかで、「私」というものが作れていくのでしょうね。

    コメントいただきありがとうございました!
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