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『朝倉慶長始末記 第6話 乙葉と勝家』あとがき

 いつも『朝倉慶長始末記』をお読み下さり、ありがとうございます!
  「第6話 乙葉と勝家」のあとがきです。

https://kakuyomu.jp/works/16816700429410406879/episodes/16816700429482559588

 今回は朝倉慶長武将列伝第二回。
 一色義定です。

 小題は乙葉と勝家ですが、二人のいちゃいちゃ話はとりあえず放っておいて、作中では朝倉家に義理立てして無念の討死を遂げることとなった、義定を紹介します。

 あまり有名な人物ではありませんが、それなりに有能な人物であったと作者などは思っています。


~朝倉慶長武将列伝2・一色義定~
基本情報(史実)
生誕:?
死没:天正10年9月8日(1582年9月24日)か
父:一色義道
妻:伊也

・史実では
 義定は名門であった丹後一色氏の出身です。
 一色氏は戦国時代、権威は失墜していたものの室町幕府将軍家であった足利氏の一門でもあり、幕府の四職筆頭となるほどの家柄でした。

 しかし室町時代末期までには衰退し、戦国時代に入ると隣国若狭武田氏との抗争により、さらに力を失っていったといいます。

 そして義定の父である一色義道の代では、織田家の明智光秀や細川藤孝らの侵攻を受け、その最中に義道は死去しますが、後を継いだ義定は勇猛で知られ、徹底抗戦し、これには名将として知られる藤孝も手を焼き、結局和議となって細川家と政略結婚をした上で、丹後を分割統治することになりました。

 この時点で義定は、織田信長にもその実力を認められていたようです。

 しかしその信長が、本能寺の変で横死。
 その謀反人たる光秀に義定は味方するも、細川家は味方せず、結果的に光秀が敗れたことで義定の立場は悪化しました。

 そして最後は秀吉の命を受けた藤孝(幽斎)の子・細川忠興によって、宮津城内にて謀殺されてしまいます。

 義定の死により一色家の家督は叔父・義清が継承するものの、一色家追討の細川軍と戦い、壮烈な最期を遂げました。
 これにて一色家は滅亡することになります。

 ちなみに戦国一短気な武将として知られる忠興の顔に横一文字の一生消えない傷をつけたのは、義定の正室で忠興の妹・伊地であったといいます。
 義定との夫婦仲が良かったことや、その苛烈な性格をうかがわせるエピソードですね。

・朝倉天正色葉鏡では
 作中では色葉に丹後攻略を任された松永久秀や乙葉と戦い、戦術的に乙葉を敗北させる大金星あげています。

 義定手強しとみた久秀は、和議を試みて義定を懐柔し、色葉もこれを認めて義定を丹後の国主として朝倉家に組み入れました。

 そして色葉の死後、史実と同様に、秀吉や細川父子に滅ぼされることになるのです。

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