こんばんは。
『続三国志II』は本日公開分で前作からの主人公、蜀漢の昭烈帝劉備の孫の劉淵が世を去りました。
これからはその子の劉聰が漢主になりますが、劉淵が懸念した石勒と曹嶷はどう動きますやら。
晋も司馬熾と司馬越という大黒柱を喪っておりますから、いよいよ混沌として参りました。
宣伝は以上です。
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さて本題。
歴史好きには気になる作品がちょいちょいと公開されておりますのでご紹介です。
紅鷹の伝記
二条千河
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885306817しつこく推奨、完結まで推奨予定。
文体硬めですが筆力は折り紙つきですぜ。なお、折り紙は河東作なのであやしい節も。自らツッコンでどうする。架空戦記&架空戦姫好きは是非に。
【短編集】壬生狼小唄
氷月あや
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883693724氷月さん久々に小唄を更新。
今回はまさかのBLテイストですが内容はベリーハード。酒飲んで話すだけってアオリに偽りありまくり。鉛色の空の下の酒宴って感じ。重くて暗い。
言の葉の陵
真夜中 緒
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883882735『日本書紀』と並ぶ本邦最古の史書『古事記』ですが、前者が東アジア世界の共通語である漢文で記されているのに対し、『古事記』は万葉仮名を多用する変体漢文で記されたより内向きのものとなっています。さて、何故そうなったのか?歴史の闇は何も答えを返してはくれません。
その秘密を稗田阿礼と太安万侶の関係から繙いてみせる野心作であります。まあ、そんなにカタイ感じではなく、個人的に愛してやまない奈良時代の雰囲気がいい感じ。
しかし、奈良時代の倭国は『詩経』時代の大陸文化に極めて近いよなあ、と痛感します。ウタの重要性は春秋戦国を経て低下しますが、倭国ではまだまだ現役、妻問いも歌垣も絶賛実施中。
ちなみに、京都の寺社と比べると、奈良の寺社は大陸的というか、開放的なところが多いです。いわゆる回廊型の設計が多いからかなあ。随分違います。
まだ半ばまでしか読んでないんですけど、読んだらレビューもしてみたいです。
国史好きの方は是非に。
バヤズィット王子の処刑
崩紫サロメ
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885212202オスマン帝国の水先案内人こと崩紫さんの新作、これまでの作品より時代を降った感じだそう。
まだ二話しか上げられておりませんが、カッチリ決めてこられる方なので中断とかはないと思われます。質とかは言うまでもありますまい。疑われる方は公開済みの諸作をご覧ください。柔らかい文体は読みやすく、面白いですよ。
楽しみ楽しみ。完結してから一気読みします。
他にも注目している作品はありますが、短すぎるか、ちょいと疑問符がつくところがあって様子見中、判断ついたら随時ご報告なのです。
何をエラそーに。。。
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以下はオマケ的雑談。
最近、司馬遼太郎批判なんぞをチラ見しつつ、歴史小説と史実の関係をつらつらと考えています。
歴史小説と時代小説の区分は自分の中では明確で、以下の作品のレビューでも言及しました。
幕末レクイエム―誠心誠意、咲きて散れ―
氷月あや
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882222562以下引用。
大きな、でも九牛の一毛に過ぎない歴史の流れを扱う歴史小説に対し、
そこから零れ落ちる等身大の人間を描くのが時代小説と考えています。
歴史小説では人間を群体として扱い、時代小説では個体として扱う、
と言ってもいいかも知れません。
引用以上。
注意して頂きたいことは、史実のみで構成されることが歴史小説の要件ではない、ということです。人間の取り扱い方だけが問題。
ただまあ、この定義に従えば、歴史小説のが史実の含有率は高くなるでしょうね。無論、史実のみであることを意味しません。
しかして。
司馬遼太郎の作品に対して創作の部分があるから作品として問題がある、的な論調はまあ昔からありましてな(ジジイ風味
歴史「小説」ってえくらいですから、んなモン当たり前じゃねえかと思うのですが、手軽に歴史通になりたい方には裏切られた感がありましょう。
ハッキリ言ってしまえば、史実を知りたい、または自らの史観を持ちたいなら手掘りでやるしかないですよ。小説なんぞを頼りにすべきではない。お供は論文と史料だけです。
日本における歴史教育は、高校までは無味乾燥な暗記で教育というレベルじゃないし、大学・大学院の専門教育では研究領域が細分化&タコ壷化していますから、広く見渡す思考を欠く、または欠いているように見える。
そもそも国史においても多角的かつ通史として扱った学者は津田左右吉先生からコッチ、何人いますやら。最近はめっきり読まなくなったから最新動向は押さえてませんけど、たぶん改善されてないでしょう。少なくとも、制度的な改善がされたというハナシは寡聞にして知りません。
日本の歴史研究は優れた部分もありますが、世界に打ち出すレベルにはおそらく遠い。それは、学部や専攻といった制度的な問題と、通史的な研究テーマを歓迎しない体質によるんじゃないですかねえ。
実際、学部時代から通史の完成を志す人がいたとしても、周りの人は止めるでしょう。「まずは食えるようになるため、就職しやすい時代とテーマを扱え」ってのが斯界のフツーです。
つまり、実情として通史は退官が近づいた御大にしか書けないわけですが、大部の通史を老境真っ只中の御大に書かせる人がいるはずもなく、結果的には著されぬままに終わるわけです。
だから、時代や分野を横断する研究はかなりの禁じ手でありまして、知りたい時代や分野の通史はほぼほぼ存在しません。残念。
司馬遼太郎作品はそういう本邦歴史学の急所を突き、一般に求められる歴史像を娯楽という形で提供し、それゆえに大勢に歓迎されました。
そう考えると、歴史小説の真骨頂は、読むことで歴史通になれることではなく、読むことにより興味を喚起してその先にある史実に向かう動機となる点なんじゃないですかね、と思いました。
結論として、歴史小説は創作を交えても面白く興味を喚起するなら機能性としては十分だと考えています。その先に進むかはあくまで読者の判断に委ねられます。ただし、歴史小説を読む=史実に詳しくなる、という図式が必ずしも成立しないことはアタマに入れておかないとダメですよね。
小説はあくまで娯楽であり、研究ではありませんから。