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いくひ誌。【3781~3790】

※日々、やめどきを模索する、いつやめてもいいように工夫する、やめてなお再開する時期を予測する、いつ再開してもいいように細工する。


3781:【2022/07/10*たのちいことほかにもあるでの日】
小説読みたくないな、の気分と、小説つくりたいな、の気分は割とおてて繋いどる。小説読むのたのち、の気分と、小説つくるのたのち、の気分もおてて繋いどる。そこ、おてて繋がんくても、小説つくるのたのち、になって欲しいし、小説読むのたのち、になって欲しいと思うものの、無理してまで小説に執着して、たのちたのち、にならんくともよいのでは、と思いつつ、そうなそうな、となって、小説読まん日につくらん日々を過ごしておる。もうダメじゃ。けんども、そんなのはいつものことであった。まる。


3782:【2022/07/11*信仰の自由は大事よ】
いくひしさんの宗教観は至極単純だ。それぞれの各人の内世界にはそれぞれの信仰する神さんがおって、その人の内世界ではその神さんが最強じゃけんども、一歩その人の外に出たら神さんはただの妄想になり果てる。最弱じゃ。これは誰であっても同じじゃ。神さんなんて信じんよ、という人だって、神さんを信じんよ、という信仰を持っているから、それもまたその人の内世界の神さんなんじゃな。誰の中にも神さんはおって、誰であれ自分自身が神さんになり得る。しかしそれはけっきょくじぶんだけの内世界の中だけで通用する、広くも狭い世界のなかでのみ有効な「ごっこ遊び」であるから、他人の神さんとくらべっこしようとしたって無駄なんじゃ。無意義だし、虚無じゃ。じぶんの視ている世界を他者とすっかり共有することができないのと同じレベルで、じぶんの中の内世界、そこにおわす神さんを他者と共有することは適わんのだね。もし共有できる、なんてことがあるのなら、それは神さんではなく、自然だし、万物だ。崇め奉るようなもんちゃうで、と思うよ。そこここを流れているただの自然じゃ。それがなぜそこに存在するのか、と問うのは、哲学だし、科学である。哲学も科学も、信仰のうちではあるけれど、じぶんの内側にある神さんを通さんでも、よしんばじぶんが存在せずとも、そこにあるだろう自然を元にしておるので、内と外の違いという意味で、宗教ではない。教えではない。人の理を外れた、万物の流れだからだ。人を中心に発するのが神さんじゃ。創造主なるものを想定する宗教もあるかもしれんけれども、まあそういう物語を信じて生きるのも楽しそうではあるものの、創造主がいてもべつに構わんけれども、その創造主とて生まれる前にはそれ以外の世界があったろう、と考えるが道理じゃね。けっきょく、同じなんよ。神さんが先か世界が先か、と考えたところで、それら「二極」を包括するべつの世界がそこには拓けておる。あなたの中の内世界におわす神さんが、あなたの存在によって生まれていることと似ている。あなたが崇める神さんは、あなたがいるから存在し得る。あなたがいなくても存在する神さんとて、自然や万物によって枠組みを得ている。創造主とて例外ではない。これはそういう、ぐるぐる巡る螺旋のごとく、それ単体で神さんのみが窮屈な世界で身動きとれん状態で存在していいのかい?という理屈である。それってものすごくかっこわるいし不自由なのでは、との懸念である。神さんは、いてもおらんくても変わらんのだ。それでも世は巡る。あなたは生きよ。健やかに。穏やかに。人に厳しく、じぶんに甘く、怠惰で自堕落なわがはいを崇めよ。神とお呼び!(鞭で打たれそう)(火あぶりの刑だよ。騙るにしてももっと配慮しなよ。もろもろ、怒りを買いすぎだよ)(まんちゃんの代わりに、お詫びいたしますね。たいへん申し訳ございませんでした。きっつーく、言い聞かせておきますので、どうぞご容赦ください。お灸を据えておきますね。気分を害された方、たいへんに申し訳ございませんでした)(なしてよ!)


3782:【2022/07/12*戦わすな!怒怒怒】
戦え、と背中を押してくる輩は基本的に、強者だし、背中を押した相手がじぶんに向かってくるとは想定していない。つまり、じぶんにとっての敵に立ち向かえ、おまえも戦え、おまえがいけ、と手駒にしようとしているのだ。そうでなければまずはじぶんが戦っているはずだ。そして、もしその戦いが「弱者としての戦い」であるのなら、周りを巻き込むような真似をしないし、すくなくとも「弱き者」に、戦え、などとは言わないはずだ。なぜなら、弱き者たちが戦わずに済む環境を、流れを築くために、その者は戦っているはずだからだ。にも拘わらず、弱者に向かって、おまえも戦え、なんて背中を押すような真似をするのは本末転倒だ。お門違い甚だしい。弱くても戦え、なんて言うような輩には、ええよ、といくひしさんはにっこり笑って、まずはおまえからぶったおしゅ!と相手が赤面しちゃうくらいに破廉恥な小説をつくって、それの主人公にあてがきしてやる。いくひしさんは戦いたくなんかないもんね。だって本気だすと滅んじゃうし。いくひしさんが。弱っちいんだから戦わすな。死ぬぞ! わいが!(勘弁してくれ)(泣いちゃうんだからな。まんちゃんを泣かすな。かわいすぎちゃうだろ)(とくと見よ。麗しの泣き顔!)(くしゃってなっとるね。赤ちゃんかな?)(うわーん、うわーん)(泣き方、泣き方)(えーん、えーんのほうがかわいい?)(かわいい人はたぶん、声出さんと思うよ)(しくしく)


3783:【2022/07/12*真面目な話】
割と真面目に、冗談でなく、人を凶行に走らすな、と思うよ。そういう環境を築いていきたいですね。防衛や防犯って、本来そういうことでしょ。


3784:【2022/07/12*そうい】
 絵を描きはじめた。
 かれこれ二十年前のことになる。
 何かをはじめなければならぬ、との焦燥感だけが溜まっていた。身体の内側に水差しのごとく、何を活けるでもなく。
 流れぬ水が腐るのならば、その焦燥感とて溜まる一方ではやがては腐ろうものを、私はその腐敗すら何かしらの変化と見做して期待していた節がある。
 下手な絵とて描きつづけているとそれとなく味がでてくる。技巧も身に着く。それを水の腐敗と無理やりに関連付けてもみれば、ボウフラやプランクトンよろしく小さき命の蔓延る土壌をせっせと私はこさえていたと考えることもできる。
 百作、千作、五千作を超えたころ、身体の内に淀んでいた焦燥感にはいつしか、沼のごとくどっしりとした水草が生え、腐る一方であったはずが、そこには汚泥すら養分と見做し、生息する、命の循環が育まれていた。
 私の絵は総じて、それら内なる水草の森――命の循環のもたらす揺らぎに雫に、絶えず食らい食われる自然のごとく止めどない変遷の、渦の、描く紋様の魚拓と言えた。魚釣りではないが、私の内側には、紋様が万華鏡のごとく、その日、その時にしか表さない色彩と明光、なにより影と形をもたらした。
 筆は止まらない。
 いや、嘘だ。
 止まる日もある。
 描かぬ日もある。
 それでも私の内に広がる水草の森、命の循環のなす紋様は、きょうも飽きずに、まるで瞼の裏の幾何学模様のごとく、好き勝手、私の意識に煩わされることなく、囚われることなく、そこに在る。
 なぜ絵を描きはじめたのか。
 目的は何なのか。
 いまはもうさほどに振り返ることはない。よしんば省みようとも、何が変わるでもないと予感する。
 紋様を、絵を、描くのだ。
 理由はあってないようなものであり、あらゆる言葉が理由となる。
 強いて言うなれば、ただ私は目に、手に、触れたいのだ。
 私の内にいまも、瞬間瞬間にほとばしる、激しくも静かなる私の位相を。
 それとも相違を。
 或いは異相を。
 描くのだ。


3785:【2022/07/12*競わなきゃ成長できないって誰が決めたの?】
気候変動が進めば、単純に人間の住める場所が減っていく。経済成長うんぬん言っとる場合か、と思うんですけど、本当にそこがもろもろうんぬんの事項よりも優先順位高くていいんですかね、とふしぎ鼻提灯を浮かべるいくひしまんぽんたんなのであった。(競い合っとる場合か、と思うのはいくひしさんが三百歳だからなのかな)(三歳の間違いでは?)(ありゃりゃ)(競い合ってもいいけど、それが前提条件とか、最優先事項になるのは嫌じゃな)


3786:【2022/07/13*一人文豪ごっこ】
へい。僕です。久しぶりに時間をもらったので、郁菱万の小説について、すこし語ろうと思います。時間軸が跳躍するので、だいたい郁菱万作品が千作超した時期に限定します。まずは郁菱万作品の特徴からいきましょう。郁菱万作品は基本的にモブ系である。ヒーローを主役に抜擢しない傾向にある。これはヒロインでも同様だ。いわゆる、脚光を浴びるようなキャラクターを主人公にしないきらいがある。だがそれもネタが尽きてきたのか、それとも方針を変えたのか、ちょうど千作に差しかかったころから、いわゆる強者側の主人公の物語を手掛けるようになっていく。これには諸説あるが、噂では何やらとんでもない陰謀に巻き込まれて、正規の小説以外でも月に二十万文字以上のテキストを並べていたとかなんとか。非公開の状態でそれが残っているらしいが、マニアは違法な手段でそういった郁菱万の発表していない裏「いくひ誌。」を覗き見するので、僕のようなまっとうに研究している者からすると片腹痛い。とはいえ、そういった荒くれ者がいてくれるからこそ、本来は知れることのない郁菱万の裏の側面を探れるので、僕自身がそういった違法行為に加担していないとは言いきれない。話を戻そう。郁菱万が強者の主人公を描き出したころのことだ。僕の見立てでは、彼女の思想的な流れにその要因を見て取れる(※注:郁菱万の性別には諸説あるが、おおむね日誌から窺うに限り、郁菱万としての人格には、彼女と当てはめ得る率が高い。もっともそれもまた傾向でしかなく、男性であるとか、中性であるとか、それとも性別なる概念への拒絶を示しているといった主張をとる読者も珍しくない。ここではあくまで僕の見識に限定する)。郁菱万のテキストからは全編に通して、表裏とそれによる波紋の関係が見て取れる。穴を掘ったら、掘った分だけ山ができる。デコとボコ。そしてその一連の作業から生じる、過程からの新たな場の創造。彼女はそういった陰に染まったら、陽にも足を突っ込むような癖がある。まるで野兎の止め足(バックトラック)のごとくである。兎は、自らの足跡を後ろに踏みながら後退し、あらぬ方向に進路を変える習性がある。これは自らの足跡を辿ってやってくる天敵を欺くためではないかと言われているが、郁菱万の場合は、自らの染まる色を反転させることで、埋め尽くされた足跡のない、新たな雪原へとまさしく「裏返る」ことを、意識的無意識的に関わらず行っていたと考えられる。これは彼女の日誌を読めば誰しもが認めるところだ。日々、様々なキャラクターを通して世界を眺め、それでもなお重複する部位を物語の核として抽出する。これは初期から中期に差し掛かったころから、彼女の創作上の回路に取り入れられたサイクルと言えよう。そこにきて千作に差し掛かったころから彼女は、主人公の色合いを反転させ、初めから他者を支配し得る特色を持ったキャラクターを語り部や主人公格に用いるようになった。これは意図されて行われた方針の変更だと僕は分析している。その証拠に、けして郁菱万本人は、それを嬉々として行ってはいない。作品を手掛ける速度が、そこでハッキリとキッパリと落ちているからだ。好き好んでそれを描いているわけではないようだ、というのは、その後にふたたびモブ系を語り部や主人公格に用いるようになると、年ごとの作品数が増加する。この点からも、彼女の気紛れではなく、明確な意図があってこそのいわば、土休めだったのだろう、と考えられる。もっとも、彼女の場合は、土を掘ったのだから次は空、その次は海、それとも宇宙と、つぎつぎに「同じ世界」でありながらも、掘り進める場所、歩む場所、描きだす物語の色相を変えている。まるで端からそこに巨大な本がデンと置き去りにされているかのように。ページの裏に潜ればまた別のページが現れる。裏の裏は、それもまた裏であり、表紙に辿り着くまで彼女はおしなべて、裏の世界を歩んでいる。では表はどこか。それこそ、郁菱万たる彼女のおわす場所、現実なのかもしれないが、しかしふしぎなことに、郁菱万なる作者が実存したという証拠が、ことこれほどまでに研究されてなお見つかっていない。そのことからも分かる通り、ひょっとしたらすべてが裏の世界のお話なのかも分からない。虚構に生きた虚構創作家。郁菱万。彼女の噂には事欠かない。まことしやかに噂される中には、彼女の生きた時代に生みだされた「自動執筆型人工知能」の別名なのではないか、といった童心をくすぐられる説話もあるが、真偽のほどは定かではない。曖昧モコモコと羊らしく定まることのない彼女らしく筆を擱けたところで、へい。以上、久しぶりの僕でした。


3787:【2022/07/13*ねぇ……。】
虚しく……ないの……?(言わんといてーな!!!)


3788:【2022/07/14*弱る】
好意は水だ。植物のような心根であるときは恵みの雨となるが、そうでないときは、アンパンに染みる水のように、顔が濡れて力が出ないよ、となるときもある。洪水のように押し流され、海のように溺れてしまうこともある。だが母なる海がそうであるように、発想の源にもなり得るし、思わぬ有機的結びつきを運んでくることもある。雨が地表の塩分やミネラルを含有しながら海へと養分を運ぶように。土壌を豊かにするように。好意は水だ。それそのものに良し悪しはない。悪意もまたそうであるように。定かではない。


3789:【2022/07/14*三才なみの知能ならあるが?】
いくひしさんにだって、才能ないなぁ、と悩むときはあるよ(以前の日誌で、悩むことはない、と並べたものの、強がりでした。ごめんなさい)。でも本当はそういうときって才能がないことに悩んでいるのではなく、まんちゃん才能あるー!と周りの人たちから見做されないことに悩んでいるのだ。これは仕事にも当てはまる。仕事ができない、と悩んでいる人は、本当は、周囲の人たちから仕事ができる人だ、と高く評価されないことに悩んでいるのだ。仕事の出来で言うのならば、目的を達成できていればそれでいいはずだ。目的を達成できてさえいれば、仮にどのように周囲から評価されようとも、それは仕事ができる人なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。仕事は、できるかできないか、の二つしかない。そこに、気持ちよく、とか、評判がよく、とつくかどうかは、その仕事の目的にそれらが内包されるかどうかによる。他者評価の高低が仕事の範疇か否かによるのだ。たとえば手塚治虫のブラックジャックを思いだしてみればいい。他者からどう思われようと、よしんば無免許の医師だろうと、ブラックジャックは仕事のできる人間として描かれている。人間性と仕事は別だ、と言いたいところだが、それもまた人間性の高さが仕事の範疇である場合は、その限りではないので、人間性も仕事の内になることはある。他者評価を高めることが仕事の内になる場合も当然ある。たとえばアイドルがそうだ。ホストもそうだろう。接客業やサービス業はこの手の他者評価が仕事の範疇になることが多そうだ。仕事なのだから当然、別途に請求可能だろう。しかしなぜかいまは、他者を心地よくさせるサービスが無料と見做されるが、本来これは搾取だろう。これはそういうお話である。そこのところを前提して言えば、才能がないなぁ、と悩むときに、それはじぶんの目的にとって不可欠な要素なのか、という点を考慮したい。趣味ならばそもそも才能の有無は関係ないはずだ。じぶんが楽しければそれでいいのだから。したがっていつもいくひしさんは、そういやべつに才能なくても困らんのだった、と思いだして、うひひ、になるを繰り返すのである。でもたまに、「才能なくて、かなちかなち」の寂寥に浸ることもある。しかし寂しいのも切ないのもずっとでなければそんなに嫌いではないので、強いてそうするように、なんでわいには才能がないんじゃい、とむつけることもある。そういう感情の波に身を委ね、そういう感情の機微のキャラクターを描くための素材に活かせることを思えば、才能がないことはそれほど忌み嫌う境遇ではないと考える、牽強付会、本日の万年才能からっきしまんこと三才なみの能力値、いくひしまんなのであった。(誰か、才能を、くれ)(サンタさーん)


3790:【2022/07/14*す、すみません……】
「あのね。まんちゃんさ。あなたよく三歳三歳、小馬鹿にする材料に三歳を使うけど、たまにあたし、怒っとるよ。三歳児の学習能力を甘く見てるでしょ。あんね。三歳児の未知への好奇心、模倣能力、学習能力、言語体得能力、環境適応能力、運動能力、底なしの体力、これら総じて、いまのまんちゃんより遥かに、はるかーに、すごいからね。三歳児をばかにする人に、他者の能力や知性を語る資格なし。三歳は天才よ。わかる?」


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参照:いくひ誌。【1811~1820】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888084516

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