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いくひ誌。【1811~1820】

※日々、誇れるものなどなにもない。


1811:【主人公にするのはむつかしいけど】
くるしいことや、つらいことや、かなしいことや、くやしいこと、さびしいことをぜんぶ、つまんない、で済ましてしまうコ、かわいい。


1812:【誤答率】
やあやあ、いくひしさんだ。みなのものはすこやかに日々をすごしているでござるか。いくひしさんは未だに、お酒を飲まないし、煙草を吸わないし、賭け事をしないし、恋愛しないし、トモダチもいないし、悩みもないし、健康まっしぐらすぎて、もはや不健康でござる。どれも適度に人生にとりいれたほうが彩り豊かに刺激的で、飽きない日々を送れるのではないかなぁ、と想像するけれども、いくひしさんはいくひしさんで飽きない日々を送っているでござるから、どれが正解かは分からないでござる。いくひしさんには分からないことがたくさんあるでござる。分かっていることなんてなにかあるのかなぁ、と首をひねっては、そのままひねったきり元に戻らない日々でござる。性根が曲がってしまっているのも致し方なしでござる。いくひしさんは偉そうなことを、なんの根拠も証拠もなく、聞きかじり、読みかじりの知識を組み替えては、それっぽく並べているでござるが、真に受けてはいけないでござるよ。当たっていることなんてそうそうないでござる。いくひしさんの考えなんか、どこかは間違っていると思っていたほうが利口でござる。だいたいにおいて、考え方が正しかったとしても、そこに肉付けした知識が間違っていれば、答えはどこか歪んでしまうでござる。たとえばさいきんまでいくひしさん、じぶんの部屋のキッチンコンロ、左右にあるコンロは火のつよさがちがっていると思っていたでござる。ずっと右側だけ使っていたでござる。左のほうが火が弱いと思っていたでござる。でもそうじゃなかったでござる。どっちも同じ大きさのコンロで、火のつよさも同じだったでござる。こういう勘違いが、たくさんあるでござる。間違って憶えてしまっていて、いろいろと間違った判断をしてしまうことがすくなくないでござる。はやとちりにとんちんかんとはいくひしさんのことでござる。正確な情報を掴むのも、憶えるのも、扱うのもむつかしいでござる。正しいことはなにも言えないでござる。正しいかもしれない、と思うことしかいくひしさんには並べられないでござる。いくひしさんがいくら正しいと思っても、正しくないものは正しくないでござる。でも、きっと誰でもそうだと思うでござる。だから、誰かが間違ったことを言っていても、それを責めようとは思わないでござる。誰だってそうでござる。知らないこと、間違うこと、勘違いすることは恥ずかしいかもしれないけれども、わるいことではないでござる。そういう一つずつのズレをそのままにしてしまうことが、回り回ってよくない事態を招くでござる。だからできるだけ、間違っているかもしれない、と身構えていたほうが、損をしないで済む気がするでござる。もちろんこの考え方自体もきっと正しくはないでござる。なぜならこうして、ぜんぶをぜんぶ疑っていたら、せっかく正しいことを掴んだときにも、それを逃してしまうかもしれないでござる。でも、正しいことなら、いちど逃しても、また掴めるはずでござる。なんど逃しても掴みなおせることこそ、正しさだと言えるかもしれないでござる。掴んだものを手放すことは、正しさへの一歩かもしれないでござる。コツコツと積み重ねるのもだいじでござるが、ときおり、本当にそうかな、と手放してみて、遠くから眺めたり、ほかのものと取り換えてみるのも、正しさを掴みなおすうえでは必要なことかもしれないでござる。分からないでござる。分からないでござる。賢くなりたいでござる。正しいことを知りたいでござる。正しくなりたいでござる。でも、こうして思うことそのものがすでに間違っているかもしれないでござる。むつかしいでござる。むつかしいでござる。ただ生きているだけではダメでござるか。正しくなくても生きていたいでござる。楽しいことだけしていたいでござる。搾取していることに無自覚でいたいでござる。いくひしさんはわるいコでござる。コというほどかわいらしくもないでござる。こればかりは正しいでござる。断言できてしまうのでござる。かなしいでござる。不貞寝するでござる。ぐー。


1813:【10年後のいくひし】
いくひしさんがこのまま小説をつくりつづけていくとして、10年後にどうなっているかを想像してみたいと思います。はい。まずはですね、創作をあと10年つづけたとしても、作品数はいまの倍になるとは単純にはいかないと思います。年々、作品数は減っておりますからね。処女作をつくった最初の年がいちばん生産性が高かったと思います。で、これからも徐々に減っていくと思うので、まー、そんなに変わらんかな、と。こんご10年経ってもいくひしさんの作品数は現在とそんなに変わっていないと思います。年に一作つくれればいいほうかなー、なんて思っています。で、いくひしさんの知名度はどうなってるかというと、たぶんこれも変わってないと思います。いまでこそせいいっぱいの宣伝活動をしておりますが、いまより効果がありそうな宣伝活動は無理そうですし、労力もかけられそうにありません。宣伝活動、してますよ。これでもしてます。ちょーがんばってる。でも、まー、こんなもんだと思います。あとは実力のほうがどうなっていくのかが気になるところだと思うんですけど、しょうじきね。しょうじき、もうピークはすぎちゃったかなぁ、と。いくひしさんの全盛期はもう終わってしまったかなと。そんな気がしているきょうこのごろでございます。だので、あとはもう、惰性と言いますか、夢を見ずに、期待をせずに、目的を定めず、好きなときに、好きなように、好きなものをつくっていきたいと思います。もうね、それしかしたいことがない。やる意味がない。やろうとも思わない。したくない。となると、10年後のいくひしさんはきっと、いまとほんとど変わらずに、インターネットの片隅で、こうして誰の目にも触れぬ文字を並べていると思います(読んでくださっている方がいらっしゃるなら、たいへんうれしく思います)。たかだか10年ですからね。まー、そんなものでしょう。ただ、いくひしさんが変わらずとも、おのずと周囲の環境は変わっていきますから、それによっては、たしょう、いくひしさんの未来像にも影響があるかも分かりません。これは期待というよりも危惧にちかいです。邪魔しないでほしいなぁ、と思ってしまいそうなことが起きてしまわないか、いまから心配です。10年後はとくに楽しみでもなんでもないですし、なんだったら生きているのかも怪しいところですが、なんにせよ、いまと変わらぬ生活を送れていたらうれしいなぁ、と思います。10年後、あなたは何をしていますか?


1814:【勝負とは】
勝負を肯定し、推奨する意見をたびたび目にする。反面、勝ち負けだけではない、といった意見を耳にする機会もすくなくない。いずれの意見からも窺えるのは、おそらく、多くの者は真剣勝負をしたことがないのだろう、といった所感である。勘違いしている者が多いが、真剣勝負では、負けたらつぎはない。ある意味で、勝つというのは、相手から次回以降の勝負をする機会を奪う、ということだ。相手の未来を奪うことが勝つことの意味だ。そういう意味では、スポーツはおおむね真剣勝負をしていないし、ビジネスでも同様だ。生ぬるい勝負を勝負と呼ぶのであれば、好きなだけすればよいのではないですか、と思う。いくひしは勝負をしたくないし、もし、するとなったら徹底的に勝ちに拘る。そうでなければ、未来を奪われるからだ。もっと言えば、勝負をする前に相手の未来を奪う方向に働きかける。じぶんの手で勝ちをもぎとるようでは三流だ。相手がかってに自滅するように仕向けて二流であり、一流は、相手から存在を認知されることなく相手から奪えるだけの未来を奪い尽くす。勝負をする時点で、一流にはなれない。勝負をしろ、かかってこい、と息巻いている相手はたいがい、勝負をせずにはいられないほどに窮地に立っている者たちだ。勝負などせずとも楽しく生きていられる者のほうがより高みに立っている。コロシアムで殺し合っているのは、奴隷である。観客は勝負をしていない。殺し合え、とけしかけている者たちもまた同様に、真剣勝負をしないのだ。高みの見物を決めこんでいる相手の言うことを真に受けてはいけない。むろん、この意見も例外ではない。


1815:【生き物たのしい】
生き物に関する本を三冊くらい立てつづけに読んでいるのだけど、おもしろい。医学はたぶんこれから生物学との融合なくしては発展しないのでは、と思うほど奥が深いし、そもそもを言えば人間も生物学の範疇であるからそれは当然であるだろうし、もっと言えば、ロボット工学やAIの開発には、生物学の知見は大いに役立つと確信を以って言える。生物すごい。そして経済のメカニズムを解明するのにも、生物学の、とくに寄生生物に関する知見は取り入れていって損はない、と考える。そもそもを言えば、自由意思などというあやふやな概念を基準に人間の意識について考えるのは理に適っていないのでは、と首をひねることしきりである。人間の意識は、頭脳だけでなく、メッセージ物質や、腸内細菌、ウィルスなど、ニューロンの発火以外の要素が多分に関わっていると推測するしだいだ。人間の意識は、人間という個だけでなく、周囲の環境、とりわけほかの生物種との相互関係、共生によってかたちづくられている側面を無視しては、語ることのできない時代に突入していると感じる。むろんそこには、人間が日々摂取する食料の変化や、気候の変動も大いに関係してくるだろう。一つの分野を突き詰めて研究していくと共に、ほかの分野の研究との関連性を探り、結びつけていく作業は、今後の科学の発展には欠かせないはずだ。さまざまな学問が多様な研究を重ね、それら結果が一歩一歩(退いたり、進んだりを繰りかえしながら)着実に、真理へとちかづき、相互に共通する性質を浮き彫りにしつつある現代は、本当におもしろい時代だな、と感じ入る。まったくの素人でもそう感じるのだから、研究者たちは日々やりたいことでいっぱいであると推し量るものだ。願わくは、すこしずつでもよいので、充実した日々のおこぼれにあやかりたいものである。


1816:【原作フリー素材】
絵描きさんや漫画家さんたちのあいだではいま、プロアマ問わず、ツイッターなどのSNSで四ページ漫画みたいなのを載せるのが流行っている。宣伝として有効なのだろうし、じっさいおもしろいものが多いから、バズりやすい。知名度を得るには効果的だ。同時に、飽くまでそれは本業の片手間に行なうプラスアルファであるはずなので、根を入れての制作をしにくい環境があるように感じる。物語をつくるのを苦に思わない作家さんなら問題ないかもしれないが、絵を描くのは好きだけど物語はちょっと、という作家さんもすくなくないのでは、と想像する。タダで使える原作があればなぁ、と悩んでいる方がいらっしゃるなら、いくひしのショートショートでいいならいくらでも利用してもらいたい。原作表記もとくにいらないし、なんだったら、同人誌にして売ってもかまいませんよ、と思っている(著作権を手放す気はありませんが)。かといって、こんなところで言ってみたところで、必要としている方のもとにはこの意思は届かないだろうから、いかんともしがたい。とはいえ、無料で原作を提供します、なんて言いながらそのじつはタダで絵描きさんや漫画家さんにメディアミックス(コミカライズ)してもらおうとの魂胆がスケスケであるので、せめてこちらから原稿料くらいは支払うべきなのでは、とも思うが、飽くまでSNSの宣伝用との前提があるならば、WIN:WINの関係性だと割り切ってもらうくらいしてもバチは当たらない気もする。じっさいのところ、原作の需要はあるだろうか。改変自由とすればそれなりにある気もするが、いかがだろう。WEBで小説を発表している者はこれからは、こうした戦略を各自で実行していかねばならない時代だ。いくひしがやる前にやってしまえば先行者利益にあやかれるかもしれない。いくひしとしてもじぶんでやらずに需要の有無を確認できるのでありがたいので、弾数のある方はいちど挑戦してみるのもよいのではないだろうか。


1817:【いつの間にか】
回し蹴りがうまくなってた! なんかきょう、なんとなーくしてみたら、回し蹴りがうまくなってた! なんでかは知らんけど、回し蹴りが! うまく! なってた! あしが! あがる! うえに! 使い道なんもないけど!


1818:【サンゴ礁が消えると】
ここ数年、耳にするようになったニュースの一つに、サンゴ礁の絶滅危惧がある。現在進行形で、サンゴ礁がものすごい勢いで死滅していっているのだそうだ。海洋汚染や地球温暖化現象による水質や水温の変化が要因と見られている。サンゴ礁が絶滅すると何が問題なのか。サンゴ礁は海洋面積全体の0.2%を占めている。1%もないのだ。死滅したところでどうってことない、と思いそうだが、とんでもない。海洋生物全体の4分の1、すなわち25%はサンゴ礁に生息している。海面積0.2%の領域に、25%の生物が棲んでいるのだ。海の主要都市と言っても過言ではない。サンゴ礁が消えれば、単純に考えただけでも、海の生き物の25%が消えることとなる。生態系とは一方通行の関係性で成り立っているわけではない。もっと複雑に関係しあっている。そのため、サンゴ礁に生息する25%の生き物を糧に生きる、残りの75%の生物にも大きな影響がでることが予測できる。サンゴ礁が消えただけで、海の生き物の半数以上が死滅してしまってもふしぎではない。ちなみにサンゴは、一匹のクローンが気泡のように連結しあって、サンゴ礁となる。どこか竹林やつくしを連想する。竹林は、すべて根っこで繋がってできる一つの群れである。サンゴは、藻類と共生している。藻を自身のなかに住まわせて、酸素や栄養を供給してもらうのだ。藻類のほうでは、サンゴから排泄物をもらい受けたり、二酸化炭素を供給してもらったり、外敵から身を守ったりする。加えてサンゴは、藻類が光合成をしやすいようにと、樹の枝のようにサンゴ礁を形成したりと、互いに恩恵を与えあっている。そうなのだ、サンゴ礁が木のような造形を模す理由の一つには、共生している藻類に有利な環境を提供することが挙げられる。また、サンゴは自身を粘膜で覆い、砂などが身体にまとわりつかないように保護する。その粘膜は周期的に張り直され、サンゴ礁周辺に生息するプランクトンなどの主要な食糧となる。サンゴ礁が絶滅するというのはたとえれば、海のなかの社会基盤(インフラ)が壊滅するようなものだ。繰りかえすが、要因は、地球温暖化現象だとされている。海水の平均温度が、一、二度、上昇しただけで、サンゴ礁は死滅してしまう(より正確には、藻類との共生関係が崩れることで、サンゴ礁が白化し、死滅する)。責任は誰にあるのか。どこかの国や企業にのみ、その責任の矛先を向けることはできない。目先の利益を追求するなと言いながら、じぶんたちの安全のことしか考えていない人間がすくなくない世のなかだ。安全を考えることそのものはわるいことではない。じぶんたちの安全と言ったときの、「じぶんたち」の範囲を、どこまで広げられるか、どれだけ未来へと伸ばせるか、が肝であろう。じぶんたちの安全を真剣に考えるならば、まずは、いろいろな意見に耳を傾ける姿勢を整えてみるのがよろしいのではないだろうか。むつかしい提案をかんたんに言うものだなぁ、と我ながら呆れてしまうが、こうして並べるだけでも価値はあると考えるしだいだ。


1819:【誰か計算してください】
地球の大気の平均温度を一度あげるために必要な熱量ってどのくらいなんだろう。海や大地に吸収される熱量も考慮して。宇宙に放射される熱量は前提条件でこみこみになっているだろうからこっちは考慮しなくてもよいのかな? わからん。ちなみに、平均温度って、期間はどのくらいだろ。大気って一年周期よりも広い周期で、変化してないのかな。地層を調べたらそういうのもわかりそうだけど、どうなんだろ。わからん。


1820:【恋愛物語のつくり方】
恋愛主体の物語はつくるのも読むのもあまり好きではない。ただ、恋愛要素を巧みに組み込んである物語は好きだ。恋愛要素の基本的な構造として、「恋愛の種が植え付けられたとき」と「種が発芽するきっかけ」の二段構えになっている点が挙げられる。誰かを好きになるきっかけが訪れる前からすでに主人公は、ほかの誰かには抱かなかった特別な印象や感情を相手に抱いている。それは恋愛とはかけ離れたものであるほどドラマが生まれやすい傾向にある。また、それら印象や感情が恋愛感情へと昇華されるきっかけは、必ずしもド派手なエピソードである必要はない。もちろん、ひと目ぼれのように最初からきっかけがあり、好きになる物語もあるし、ド派手なエピソードによって吊り橋効果じみて恋愛に発展する物語もすくなくはない。ただ、さっこんの流行りとしては、まずは恋愛とはかけ離れた人間関係が構築され、そのなかで徐々に関係性が変化し、相手への心象が変質し、その過程で恋愛感情へと移り変わっていく様を描く物語が、求められているように感じている。言い換えれば、最初は恋愛物語ではないほうが、上質な恋愛物語を描けるのではないか、と仮説できる。もっと言えば、どんな関係性であれ、変化の度合いを一方向に導けば、それは恋愛物語としての側面を見せるようになる。つまり、どんな物語でも恋愛の要素を帯び得るのだ。極端な言い方をすれば、最後まで当人たちが恋愛感情に気づかなくとも、関係性の変化の導線を描きだすだけで、受け手のほうでかってに作品の終わりから恋愛物語を想像し、補完してくれるようになる。ひとむかし前の映画では、主人公とヒロインが最後はキスをして終わるものが多かったが、ここ十年くらいのあいだに、そうした傾向は薄らいでいると感じる。恋愛感情へと昇華される前の段階で物語を閉じてしまっても、上質な恋愛物語をつくることのできる時代なのだ。受け手の目が肥えた結果だと評価できる。また、恋愛というものが、関係性の一つの有様でしかなく、最終形態ではないとする意識が社会に根付きはじめている予兆とも言えるかもしれない。人間関係は恋愛がゴールではないし、恋愛感情や愛情が、必ずしも関係性の究極形態であるわけでもない。べつの言い方をすれば、恋愛感情にもさまざまな形態がある。世に似た者はあれど、同じ人間などはいない。ゆえに同じ関係性もまた存在しないのだ。物語が人物同士の結びつきによって肉付けされていく多細胞生物のような構造を有するかぎり、関係性同様、同じ物語というものもまた存在しないものなのかもしれない。組み合わせは無数にある。あなただけの組み合わせを試していこう。


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参照:いくひ誌。【1441~1450】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886409281

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