※日々、繋げること、紐解くこと、視点を自在に切り替えること。
3471:【2022/03/06*世界は言葉で溢れている】
文字もはじめは絵であった。
自然にあるもののカタチを写し取ったそれこそが文字である。
なればこそ、自然こそが文字と言えよう。
文字はそこかしこに溢れており、そのときどきで移り変わる。さながら見る角度によって紋様のキラメキの移ろう水晶のごとく、それとも同じ覗き穴でありながら動くたびに刻々と紋様を変える万華鏡のごとく。
自然をそれとなく眺めるだけでも、そこここに文字の羅列は浮きあがって視える。しかし角度を変えれば文字の羅列は姿を変え、また異なる意味内容を宿すだろう。
人は真理があると謳い、探るが、果たして世界は一つだろうか。
自然がそうであるように、揺らぎたゆみ重複し、幾重かの重複する部位に、真理に映る濃淡の影が浮かぶだけではなかろうか。
文字がそうであるのと同じように、しょせんは繊維に染みこむ黒炭が、偶然にか、何の因果か、俯瞰してみるに文字の羅列に見えるだけではなかろうか。
それを意図して引いたと自己主張する者もあるところにはあるだろうが、それすら真実に、意図があったのかは定かではない。
自然に走る文字の羅列を、果たして神が引いたのかすら定かではないように。
人間の意図や意識や人格は、果たして自然――森羅万象に散らばる種々相の現象との違いがあるだろうか。植物が発芽し、芽を萌やし、枝葉を伸ばし紅葉し、落葉し、花をつけ、実をならす一連の循環と、人間の意識や人格との違いはあるだろうか。
大気の温度差によって風が生じ、渦を巻き、ときに竜巻として顕現することと、いったいどこに違いがあると言えようか。
命とは何か。
意識とは何か。
それを認識することのできる存在こそが命であり意識である、と規定するのはもっともらしいが、人間はしかし己の視野の網の目にかかる命しか「命」と認められず、また自然のそこここに宿る「意識」を読み解くことすら適わない。
蟻は真上から己を見下ろす人間の存在を認知できず、仮にできたとしてもそこに巨大な意識があることを想定できない。それでも蟻には命が宿り、意識らしきものの片鱗を覗かせる。
命もはじめは文字であり。
文字もはじめは絵であった。
自然にあるもののカタチを写し取った「絵」――それこそが文字である。
なればこそ、自然こそが文字と言えよう。
しかし、ここでふと思う。
命も意識も、自然のうちだ。
自然が文字ならば、命も意識も文字だろう。
では、文字を文字として読み解く者のいない世界に、文字は文字として顕れるのか。
文字と言葉は同義であるか。等価なのか。
文字と言葉は別物か。
なれば自然にあるのは言葉なのか。
言葉が世界をかたちづくる。
読み解く者の存在を抜きにして。
人間は人間の命や意識、人格すらも正確には読み解けないが、すでにそこには言葉がある。どんな言葉を読み解くのかの違いによって、存在としての輪郭を経て、自然と溶け込みながらも、生きている。
自然も宇宙も、神すらも、おそらくそれは同じだろう。
自己認識の有無よりも、言葉の有無が肝要だ。
いったいどんな言葉を拾い集め、存在の枠組みを規定するのか。
命も意識も、人の言葉だ。
存在も世界も、人の言葉の範疇だ。
しかし箱の中身にどんな言葉を詰めるのかによって、おのずと文字の示す事柄は深みと色味を増すだろう。
世界は言葉だ。
言葉を読み解く意識がいて、そうして文字へと描かれる。
文字は意識だ。
どんな言葉を拾いあげ、文字として形作るのかによって、存在の枠組みは命としての性質を帯びる。
命とは世界だ。
それを命と見做せぬ、数多の言葉を取りこぼす、無数の意識があるだけだ。
言葉は言葉だ。
それを読み解く者がおらずとも、ただそこここに流れ、刻まれ、漂っている。幾重もの、意識と命と性質の渦を、多層に編みこみ、重ねながら。
3472:【2022/03/07*きっかけよりも内容】
柳の木を見て、幽霊だ、と騒ぎ立てる人間がいたとしても、それによってその人物が何かしら己の知っている裏事情を白状したのならば、きっかけがたとえ錯覚や見間違えだったとしても、白状した事実は変わらない。白状した内容の事実確認をしてみたところ、いくつかの点では白状した内容に齟齬がないことが判ったとしたら、仮に白状した契機が幽霊の見間違えにあったとしても、当人が白状した事実と、それに伴う事実確認によって明るみにでた新事実は揺るがない。誰かしらが林檎の落ちる様子を見て万有引力を閃いたとして、仮にそれが林檎の落ちる様子でなかろうとも、閃いた内容こそが大事であるはずだ。よしんば、リンゴの落下した様子を見て偉大な発見をした、という言説そのものが間違っていようと、やはり閃いた内容こそが大事なはずだ。誇大妄想にとりつかれた人間がいようとも、必ずしもその人物の発言が根っこから間違っているとは限らない。まずは事実確認をしてみることである。その余裕がない、というのであれば、無視するのもまた一つだが、何か気にかかるようであるならば、無視しつづけるのは得策とは言いにくい。なにはともあれ、情報の価値はこれからますます尊ばれるようになっていくだろう、との拙い予測を最後に、本日の「いくひ誌。」とさせてください。
3473:【2022/03/07*大御所はたいへんそう】
前々から思うのだけれど、商業作家を引退することと作家を引退することは別物ではないのだろうか。お金に困らないだけ稼いだ作家がいるのなら、誰に遠慮することなく商業の舞台を引退して、好きに小説をつくればいいのに、とたまに思う。もちろん、業界や出版社や読者への恩返しのつもりがあるのは推して知れるが、そんなの商業の舞台から引退したあとでもいくらでも恩返しできるのでは、と思ってしまう。要は、商業作家こそ至高、みたいな特権意識が抜けていないのでは、とついつい攻撃的な見方をしてしまう。もちろんそんなことはないのだろうけれども、いまは小説を発表するだけならいくらでも手段はある。商業作家を引退したあとで、作家として現役でいつづければよいだけなのでは、とやはり思ってしまうな。WEB上に無料で公開してみたらよいのでは? 引退したいなら好きに引退したらよいのに。不自由ちゃんなんですね。(容易にそうできない何かのっぴきならない事情でもあるのだろう。たいへんなことである。お疲れ様でございます)
3474:【2022/03/08*すかすかなんですね】
影響力がないことの最大の利点とは、どんな妄想でも垂れ流せることだ。一匹の蟻が何を喚いたところで波紋一つ生みださない。自由と幽霊は似ている。ただし、竜巻と透明人間の関係ともなると、いささか看過するには重荷すぎる。悪霊ともなれば、おそろしい。いくひしさんだってこんなに落ちぶれていなければもうすこしマシな文字の羅列を並べます。もうすこしマシな文字の羅列を並べたいとはしかしそんなに思わないので、いまのままで充分です。ありがたーい。うひひ。
3475:【2022/03/08*目移り】
赤ちゃんは、どんなに悲しくて泣き叫んでいても、目のまえでオモチャをガラガラと振られると、「え、なにそれ」とぴたりと泣き止む。ちょいとわしにも貸してけれ、と全身で手づかみして、お気に召せばご機嫌うるわしゅう笑みを覗かせるし、そうでなければ、おんぎゃー、の再来なのである。そこのところ、いくひしさんにとってもよく似ているな、と思います。自己分析がお得意なんですね。そうなんよ。とってもお上手なんじゃいよ。
3476:【2022/03/08*空想スタンプ】
きょう気づいたことの一つなのだけれど、文章を並べたときに、一文の最後にどんな「顔スタンプ」を添えられるのか、を考えながら文章を連ねていくと、コミカルな読み味になる(ほんとか?)(まぁたまんちゃん、へんなこと言ってら)。
3476:【2022/03/08*小説つくれなくなっちゃった】
ここ二週間くらいのあいだに小説のつくり方を忘れてしまった。どないしよ。でもいよいよ小説つくるのにも飽きてきたのかな、と思えば、清々しい気持ちにもなる(飽きたらまたべつのことをして遊べばよいのだ)(何事も最初の一口が新鮮で美味しかったりする)(贅沢なひとときなんや)(無知の醍醐味ですね)。でもつくりかけのままの物語は閉じてしまいたいので、いましばらくはつづきそう。いったんリセットしてまたゼロからの気持ちでやっていきたいと思います(気持ちはいくらリセットしてもなくならないから便利だなと思う)(ほんとほんと)。
3477:【2022/03/08*小説つくれてたことあるの?】
小説つくれなくなっちゃった、とか上の項で並べたけれども、考えてみたら小説つくれてたことなんてなかったのかも。その通り。ずばり的を射た指摘でしたね。偉い偉い。やたー。
3478:【2022/03/09*単純な話では?】
どっちの勢力がいいとかわるいとか抜きに、戦争すんな、の単純な話なのでは? 好きなときに好きなものを好きなだけ楽しもうとする日々を奪わないで欲しい、というただそれしきの単純な理由ではダメなんですかね。なぜ言い出しっぺが安全圏から指示だけだして、命じられた側が殺し合わなきゃならないんですかね。端的に言って非道だし、理不尽だし、ずるいです。権威を鎧にして安全圏から他者の命を駒にする。大勢の日々の至福の余地を奪い、殺し合わせる。そんな指示に従う道理はないはずです。従わずにいてもよい世の中になってほしいと望みます。(というか誰の許しを得るでもなく、従わなければよいのでは?)(そのためには、じぶんよりも立場の上の者の指示に従わずとも生活に困らない環境があると好ましいですね)(理想論ですが)
3479:【2022/03/09*二段組みは読みやすい】
ノベルズの二段組み、と言って伝わる人はどれくらいいるのだろう。新書サイズで、一ページが真ん中で二分されて、文章が上下段に分かれて印刷されている体裁の本のことだ。二段組みになっているので必然、縦書きの場合は短く文章が並ぶことになる。一行二十文字くらいではないだろうか。いまの若者はみなスマホの画面に慣れ親しんでおり、この二段組の短い文章の羅列には好印象を覚える人のほうが多いのではないか。できれば文庫サイズで二段組みがあると、個人的にはうれしい。実際に読んでみなければわからないが、目の動きはすくないほうが読みやすいはずだ。文庫サイズの二段組みの本は、おそらくどこかの出版社がすでに実験的に出版したことがあるだろうが、小説ではどうなのだろう。そう言えば、すでに女の子向けの単行本は、小説だと横書きが主流になりつつあるのではないか。これからはスマホ画面に適応した若者が増えていく。二段組みの文庫、ちょっと考えてみてはいかがだろう(これくらいのアイディアはとっくにどこかの編集者が企画して、そして何か事情があってとん挫したか、やはり出版しても売れなかった過去があるのではないか、と睨んでいる)(定かではありません)(電子書籍で小説を読んでいる人たち、どういった行数や文字の大きさで読んでいるんでしょうね。統計をとってみたいです)。
3480:【2022/03/09*忘却の効能】
だいぶ調子戻ってきた。よかった。いくひしさんは万年孤独ウェルカムマンにして、知能が高くもなければ理性も低い。倫理観が欠けていれば人望もない。まったくない。ほぼゼロ。ましてや学歴も人脈も実績すら皆無であるとくれば、どないして生きてるの?と日々つつがなく生きていられる摩訶不思議に首をこてんとかしげたくもなるが、それはそれとして毎日楽しすぎてやんだくなっちゃうな。まはりーくま、はーりた、やんだくなっちゃうな。楽しすぎてもそれがずっとつづくとあんまし楽しくないので、ほどほどにつまらんほうがいいと思う。要するに、平凡で退屈なことの価値にいかに気づけるのか、なんですね。ただやっぱり平凡で退屈すぎても楽しくないので、好きなときに好きなことを好きなだけ好きなように楽しめる余地をどうすれば培っていけるのか。余地も余白も、かってにはできないので、お花を育てるみたいに、えいさほいさと育てていかなければいかんようです。この場合の「いかん」て「遺憾」と関係あるのかな。わからん。きょうはようやく積んでいた「攻殻機動隊 THE HUMAN ALGORITHM3巻」を読みました。このシリーズおもしろいです。絵柄も好きです。唯一の欠点らしい欠点と言えば、おちゃらけるときに絵柄が崩れるときの絵柄があんまり好みではない点で、もうすこしかわいくしてほしいな、とも思いますが、これもしかしルッキズムなんですよね。かわいくなくてもいいじゃない、と思えるくらいになりたいのですが。むつかしい。既成概念の弊害ですね。やはりむつかしいです。