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いくひ誌。【2631~2640】

※日々、身の程を知ったつもりで生きている、すこしはマシになってはいるのだと思いこんで。


2631:【オチがありゃいいってもんじゃない】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん夕方に公園におさんぽしに出かけるのが習慣化しはじめたでござる。ひなたぼっこがきもちよいでいござる。もうもう、よいお天気がつづいてうれうれのしいしいでござるな。おしっこしいしいではないでござるよ。でもたまに、きのうまでのぽかぽかはどこにいったでござるか、となるので、きょとんとしてしまうでござる。風さんがびゅーびゅーだったり、雨さんがぽつぽつだったりしてお天気さんはせわしないでござる。いくひしさんを見習うとよいでござる。いくひしさんの万年ぼけーっとを見習うとよいでござる。ぼけーっとにビスケットをつけたら最強でござる。ぼけーっとのなかにはビスケットがやまもりたくさん、ぱくぱくする時間も含まれるでござる。万年ぼけー、を座右の銘にしてもよいでござるよ。きょうはおいしいたこ焼きを食べたのでまんぷくぷくの大満足でござる。でもたべたりないのでもっとたべるでござる。おなかがぺこぺこのぺこでござるな。食欲の春でござる。万年おなかぺこぺこなくせに、万年おなかぷにょぷにょでもござって、んなー、どっちかにしてほしいでござる。うそでござる。どっちもいやでござる。万年おなかまんぷくぷくがよいでざる。どっちにしてもおなかはぷくぷくなんでござるか? あやー、やったー、でござる。ラッキー、でござる。ぼけー、はよいことづくしでござるな。やや、ツッコミがないでござる。それはボケでござるよ。ほげー。


2632:【2020/03/26雑感】
いまはあまり軽率なことは言わないほうがよいので、ぼんやりと脳裡に浮かんだ灰汁のようなもののみを並べておく。これまでの社会はあまりに人口過密型を基本とした社会の仕組みを構築しすぎてきたきらいがある。ビジネスの手法にしてもそうだ。物理的な集客数を競うようなところがあった。だがもはや環境は変わってしまった(変わりつつあるのではなく、すでに変容している)。社会の仕組みの脆弱性が顕わになったと言ってもよい。元に戻そうとするよりかは、いまの環境に適応させるように進歩していくほうが合理的だ。いま目のまえに降りかかった問題を収束(終息)させたとしても、また似たような事態に陥れば、同じ規模で社会が大打撃を受ける。もっと人と人とが直接かかわらずに済むようなシステムを社会が構築していくほうが好ましいのではないか。いまはその分水嶺と言えよう。完全自動運転車やドローン運搬の需要もこれで高まったのではないか。バスや電車は、衛生管理の点でやや難がある。また、公共機関や医療機関を含め、現代社会はいささか過剰な仕事を前提とし、それを常態化する傾向にある。つねに百パーセントで仕事をしていたら、不測の事態が生じるごとに破たんの節目に立たされる。もっと余裕を以って仕事にかかることを是とする風土を築いていくほうが短期的にも長期的にも功を奏するのではないか。現状において、社会基盤が崩壊する閾値があまりに低すぎるように思う。これは教育の問題でもあり、経済の在り方の問題でもある(教育と経済の問題でない社会問題というものがあるのかは知らないが)。国が――つまり国民が、何に金をかけ、何を優先して施策すべきか、をいまいちど洗い直してもよさそうに思うが、いかがだろう。社会基盤、ことさら福祉の重要性を時間をかけて熟慮してほしいところだ。(筆者は引きこもりであるので、引きこもりでも生きていける社会を望んでしまう欲目がある点は否定できない。可能であれば、大規模イベント施設における衛生管理設備への投資をもっと国が支援していけると、現行のビジネス形態を維持できるのではないか。いまのままでは物理的な集客を前提としたイベント興業は今後、ビジネスとして成立しなくなるだろう。空調設備の増強がもっとも容易で汎用性が高い対処法なのではないか。とはいえ、空調ダクトの増設を含め、規模の大きい会場ならば数億円の投資が入り用となるだろうし、電力消費量が激増するので気候変動対策との相性がよろしくない点で、あまり得策とは呼べそうにない。いっぽうで、土地は余っているのだから人口を全国津々浦々に分散すれば効果的な施策となり得るのではないか(新たに土地を開拓せずとも、居住区だけならいまある住宅街や市街地だけでも間に合うはずだ。なぜなら長年の過疎化に加えてこの国の人口は減少しているので)。リモート勤務が常態化すれば、都市部近郊に住む利点はなくなるし、街が増えればそれだけ社会基盤や医療福祉を増強しなければならなくなるため――つまり学校や病院、ほか公共機関を増やさなければならないため、国としての基盤はよりつよくなるはずだ(エネルギィや資源問題に拍車がかかる懸念があるが、自治体ごとに再生エネルギィを利用できれば原発がなくとも電力を確保できるようになるかもしれない)。工場にしても、機械による自動化を推進するよりも人件費をかけたほうが安上がりだったこれまでと打って変わって、人を一か所に集めて働かせるほうがコストやリスクが高まるようになるのならば、これからは否応なく自動化が進むのではないか、と妄想するしだいだ。失業率は上昇し、格差はさらに開いていくだろう。したがって社会の発展と正比例してこれからはますます福祉の整備が求められる。とはいえ、これは以前からすくなからずの人々が指摘してきた隘路でもあるので、いまさらなのだが)(都市部の人口過密と脆弱な福祉が根本的な問題だと言ってそれほど大きく的を外してはいない気がするが、あくまで雑感ですので、いつも通り、真に受けないように注意してください)


2633:【物書きの海外展開が容易になる】
翻訳AIにじぶんの文章を英語訳させ、さらにそれを日本語訳にしたものをじぶんで読む、ということをやっているのだけれど、そうすると文章としておかしいところが可視化されるし、同時に、元の文章よりも翻訳変換後の文章のほうが読みやすかったり、味があったり、読後感がよかったりして、翻訳AIすごいな、わしダメダメやん、となっておもしろくなってしまった。時間がかかってしまうかもしれないけれども、いちど英語訳してさらに日本語訳にして推敲チェックすることを自作の創作に取り入れてもよいかもしれない。本当、新しい語彙も増えるし、第三者の目でじぶんの文章を見詰めやすくなるので、あとは小説の翻訳の精度があがってくれるのを待つだけだ。翻訳AIサービスの利用者やその層が増えていけば、しぜんと翻訳AIの精度はあがっていくと想像しているので(そういう仕組みではないのかもしれないけれども)、今後、物書きの海外展開はいまよりずっと簡単になるのではないか、と妄想している。これはもう何年も前から予想できたことなので、やはりこうなるよなあ、という感慨のほうがつよく湧くが、それにしてもじっさいに目の当たりにすると、便利だなあ、と目を瞠るしだいだ。※※※以下、上記テキストを英語訳し、さらに日本語訳したものを載せておきます。「自分の文章を翻訳AIに英訳してもらって、その和訳を自分で読んでみるという方法をとっていますが、この方法だと文章のどこが悪いのかが可視化されると同時に、翻訳された文章の方が元の文章よりも読みやすく、味があり、読み応えがあります。時間はかかるかもしれませんが、英訳文と和訳文を自分の創作物に取り入れて、さらに見直してみるのもいいかもしれません。本当に語彙が増えて、第三者の目で自分の文章が見やすくなるので、あとは小説の翻訳の精度が上がるのを待つばかりです。AI翻訳サービスの利用者が増え、利用する人が増えれば、AI翻訳サービスの精度も徐々に上がっていくのではないかと想像していますし(そうはいかないのかもしれませんが)、将来的には今よりもライターの海外進出が格段に楽になるのではないかと妄想しています。何年も前から予測できていたことなので、そうなると信じたい気持ちの方が強いのですが、実際に目の前で見ると、こんなに便利になるんだと目を見開いてしまいます。Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)」


2634:【翻訳AIは小説に不向き?】
文体に癖がないほうが翻訳AIで翻訳したテキストは読みやすくなるだろうし、小説においては会話文、要するに「かぎかっこ」がないほうが翻訳の精度が向上しやすいはずだ。翻訳AIを利用した小説の海外展開を考えるうえでは、ショートショートのような短文で、かつ会話文のない作品が、しばらくのあいだは有利となると言えそうだ。とはいえ翻訳AIがSNSのビッグデータを活用可能となれば、会話文の翻訳精度は飛躍的に向上するだろうし、そうでなくとも翻訳精度はそのサービスを利用する人々、もっといえば、入力されるテキストの数が増えれば増えるほどに進歩していくので、小説を高い精度で翻訳可能となる未来はそれほど遠くはないだろう、と妄想するしだいだ。もうすこし言えば、小説の翻訳を精度高く行うよりも、自動で小説をつくる小説創作AIのほうがさきに誕生する気がするが、どうなるだろう。物語はパターンなので、会話文をSNSのデータから引っ張ってこられれば、読書に耐え得る小説は比較的容易につくれるようになるはずだ。これからの物書きにおかれては、しばらくのあいだは、翻訳可能な短文と並行して、翻訳AIに翻訳され得ない独自性の高い物語をつくれることが、物書きとしての市場価値を高める、と言えそうだ(言い換えれば、類似性のない物語、パターン化できない物語や会話文、がそれにあたる)。翻訳AIは統計的に情報を処理する傾向にいまはあるので、独自性の高いテキストであれば、そこに滲む読み味が翻訳にすぐさま反映される可能性はいまのところ低いと判断できる。とはいえ、読まれるテキストの人気をAIが文章反映の判断基準に取り入れたならば、その限りではないので、やはり翻訳AIや小説創作AIが、あらゆるテキストの言語の垣根を払しょくするのは、時間の問題と言ってそれほど大きく的を外してはいない気がするが、じっさいのところはどうなっていくだろう。(いくひしさんがこうしていくら妄想したところでじっさいの現実社会にはなんら影響を及ぼさないので、気楽でよいなあ、と思っている)


2635:【コメディはむつかしい】
言い間違えっておもしろくないですか。真剣な場であればあるほど言い間違えがあると笑ってしまうし、口にしている本人が言い間違えに気づかずに、熱弁すればするほどおかしさが増してしまう。笑っちゃいかんのだろうけれども、コメディの基本的な型の一つな気がする。言い間違え。ツッコミがなくても成立するのでいいなと思う。使えるようになっていきたいです。


2636:【不潔ですか?】
レシピを見ずにつくるのでけっこう料理は失敗してしまうのだけれども、それでもまあまあ食べられるくらいに簡単な料理しかしないので、人に食べさせないのであれば支障はない。で、さいきん思うのは、パスタはとりあえずニンニクを入れて炒めてしまえばたいがい美味しくなるな、ということで。ベーコンの有無よりもニンニクの有無のほうが風味への影響が大きいし、玉ねぎが入ればもはや言うことがない。無敵かと思う。でもベーコンが入ったほうが美味しいので入れるけれども。ともかくニンニクと玉ねぎが偉大だな、という所感と、それから改めて炒めた玉ねぎの美味さよ、の気持ちが変わらぬ日々の控えめさよ。あとこれは以前との大きな違いなのだけれど、ことしに入ってからパスタやらチャーハンやらをすこし大きめのマグカップで食べるようにしたら、気持ち料理が美味しく感じる。入れ物なんて関係ないでしょ、どれも一緒だよ、皿なんかいらんよ、葉っぱでいいよ葉っぱで、箸ぃ? 枝ぁ拾ってこい枝を、の精神だったいくひしさんであったけれども、いよいよ見栄えの良さ、見た目の虚栄に味覚が左右されるくらいの文化的性質を身に着けた様子で、いやはや人は変わるものですね。それでいて飲み物用のカップはいちど使っても洗わずに数回は使いまわしてしまう自堕落さと衛生管理の抜け具合には、まだまだ未熟であられるね、と胸を撫でおろす場面でもないのに撫でおろしてしまうな。変わらぬことに安堵するのは進歩とは真逆の性質であるようだから、いやはや、知らぬ間に退廃がはじまっておったよね。進歩しないのに退廃できるなんて人間ってなんて便利。万年未熟者のなまけもの、歳相応、分相応のいくひしまんでした。


2637:【みんなあたまいいなぁ】
社会制度の手続きについての文章を、おそらくはかなり親切に解かりやすく説明されているだろう文章をざっと流し読みしてみたのだけれど、やっぱりむつかしく感じる。口座にお金を振りこむくらいの手軽さでできるようにならないかなぁ。それか手続きの流れや形式を全部同じにしてほしい。一回覚えたら全部の手続きができるようにしてほしいけれども、それはそれで何か問題があるのかな。あまり簡単にほいさとされたら困るから敢えてむつかしくしている面もあるのだろう。それはそれとして、やっぱりもうすこし簡単にしてほしいなぁ。あんぽんたんがあんぽんたんのまま生きていくには社会はむつかしいことばかりだ。とはいえ、むかしに比べたらだいぶよくなっているのだろうし、改善したときのほうが多くの問題が生じて制度自体が破たんしてしまう可能性もあるだろうから、いかんともしがたいのかもしれないな。いちど複雑化したものを単純化するのって、どうしてこうもむつかしそうなのだろうね。本当にむつかしいのかはやったことがないから知らないけれども。むつかしいことをうんうん考えてあんぽんたんは余計にあんぽんたんになってしまった。みんなお利口さんなのだなあ。


2638:【うねうねが好きかも】
全部同じ濃さの文章よりも波打っている文章のほうが読みやすいというか、小説なら長編を一気に読み通せて好みだ。ただ、一気に読み通すことの利点って消費しやすいだけなのかもしれなくて、もっとちんまりちくちく読み進めていくことの楽しみを覚えてもそんなに損はない気がする。でも忙しいときとか、ただただ刺激を、快楽を得たいというときには、一気読みしやすい好みのうねうねうのほうが親しみやすく、手が伸びやすいのかもしれないね。


2639:【ゆるやかな変化には気づきにくい】
きのうは肌寒かったのが、きょうはよい天気だ。いつもはこの「いくひ誌。」は夜中か明け方に並べているのだけれど、さいきんは真昼間に並べる日が増えた。よいお天気の日はお散歩にでかけたくなる。万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんはお外にいようがお家にいようが誰とも接触しないので、空気の流れのあるお外にいるほうが健康的と言えるかもしれない。自転車コキコキして、人通りのすくない道を通って、これは田舎なので必然的にそうなるのだけれども、大きな公園に行く。広いグランドのうえをちっこい子どもが走っていて、サッカーをしている子たち、フリスビーを投げ合っている子たち、あとは犬の散歩と幼子の散歩をしているひとたちがちらほらと見られる。花壇の植え替えをしているおばさま方がおり、よくもまあそれだけきれいにお花を規則正しく並べられるなあ、と機械みたいな手腕に舌を巻く。休日は気持ちひとが多いけれども、平日はそれほどでもないかもしれない。夕方だからかな。ベンチからは地下鉄の陸橋が見える。ほとんどひとが乗っていない。自動車の交通量が多くなったなあ、と感じていたので、みな自家用車を好んで選んでいるのかもしれない。高校生、大学生くらいの女の子三人組の姿を比較的よく見かける。男の子の姿はあまり目にしない。反面、年齢が低くなると男の子の集団をよく見かける気がする。公園を出る。カフェやファーストフード店を遠目に眺めると、けっこうお客さんがいて、ふうん、と思いながら通り過ぎる。家に戻って、ふう、と息を吐く。きょうも何の変哲もない日々が終わる。でもたぶん、気づかないところで何かがすこしずつ変わってきているのだろうね。社会というか、自然というのはそういうものだから。


2640:【2020/03/31雑感】
バタフライエフェクトをこんなに日常的にかつ短期間で実感したことはたぶんかつてなかった気がする。短時間での長距離移動が可能な現代社会の交通網と、人口過密型の都市設計が、ちょっとの危険因子を爆発的に増幅させ、社会の基盤を揺るがせた。ものすごく短絡的なことを言えば、医療機関の設備や人員に余裕があればいまですらさほどに脅威と捉える必要がない(重篤化しやすいひとたちは罹患すれば高い確率で死亡してしまうので、国民の行動制限はどの道しなくてはならないが。要するに、人混みに出向くな、だ)。トリアージの赤を黒と判断せざるを得ない事態が差し迫り得る社会構造のこれは問題だ。因子は極小の弱弱しい存在そのものではない。ちょっとの危険因子を爆発的に増幅させ得る社会の構造に、根本的な瑕疵がある(そしてそういう社会構造が構築されやすい土壌を、教育と経済が支えてきた背景がある)。社会の在り方を変えていかなければならない時期なのだろう。極小の存在を過剰に恐れる必要はない。人混みを避け、人と無闇に接触しなければよいだけなのだから(そのためには引きこもっていられるだけの資本が入り用となるので、やはりこれもまた社会システムの問題と言えるだろう)。ちなみに、現状を「極小の弱弱しい存在との戦争だ」と表現する言説を耳にするが、どこが戦争なのだろう、と疑問に思う。一緒にしないほうが好ましいのではないか。もちろんこの文章はあんぽんたんのただの妄想であり、雑感ですので、真に受けないように注意してください。(世代や体質で致死率が天と地ほどに変動するのなら全体の平均値を基準に物事を判断するのはあまり利口とは呼べないのだろう)(まとめると、人口過密型の都市設計と、余裕のない医療機関が相互に関係して問題を大きくしている。日常的に国民がおいそれと医者に罹れないような制度下であると、医療機関は縮小していく傾向にある。まずは誰もが気軽に医療を受けられるシステムの構築を目指すほうが好ましいのではないだろうか。経済の困窮については、今回に限ったことではないので、いつであっても国民の生活保障を高めていくほうが望ましいと言えるだろう)


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参照:いくひ誌。【2131~2140】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054890363062

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