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いくひ誌。【1561~1570】

※日々飢えているから、植えている、でもなにを?


1561:【ビジネス】
一般によく言われるビジネスの基本に、付加価値をつける、というものがある。たとえば、ただの石ころでも、場所によっては、そこに子どもでも描けそうな絵を引くだけで、一個900円の商品として売れる。この場合は、石ころを仕入れる場所が問題になってくる。たとえば、エジプトやアンデス文明のあった地域などだ。その地の石ころに、古代エジプト文字や、ナスカの地上絵を塗るだけで、商品になる。これは基本的にどの観光地でも行われている付加価値のつけ方だ。場所についていた付加価値を、仕入れ値の安い物に上乗せする手法といえる。さいきんでは、イベントが盛んであるから、この付加価値を上乗せしやすい。イベントで買った、ということそのものが付加価値になるためだ。イベントでは基本的に、なんにでも付加価値がつく。祭りの出店も、この構図で、割高な商品を売っている。祭りでなければ、客はそこでその商品を買おうとは思わないだろう。テーマパークや、美術館、映画館などでも同様だ。場の演出は、付加価値をつけるうえで重要な役割を果たす。では、場所やイベントを利用できないときはどうするのか。まずはパッケージが、場の演出として機能する。たいした商品でもないのに、包装が豪華なだけで、高級品を買った気分に浸れる。ことこれだけ出版不況と叫ばれて久しいにもかかわらず、一部の大手印刷会社が収益を拡大しつづけていられる背景には、このパッケージ事業が経済を土台から支えていることが挙げられる。安全や品質の高さを示すことにも一役買っている。パッケージには、信用を演出する効果があるのだ。まとめると、現代では、商品としての本質的な価値ではなく、そこに上乗せされた付加価値が、購入者の購買意欲を高める、という話になってくる。仕入れ先や売り場の雰囲気、またはパッケージを通して伝わる信用できそうな雰囲気など、付加価値の基本は、カタチのない、具体性に欠けたものばかりだと判ってくる。価値というそれそのものがカタチがないので、これは何もふしぎなことではない(ここで言う価値とは、それを手にした者への影響力の大きさとして表現できる。生活をより効率よく、便利に送るためのもの、として大きな齟齬は生まれない)。カタチのないものの大きさや強度を高めるには、同様にカタチのないものを使わなければならないのだ。そして二十年前までは使えなかった、もっとも手軽で、効果の大きい付加価値が、「大勢から認知され、評価されること」となる。ひとむかし前までは、この付加価値のつけ方が、一部の報道機関や広告代理店の専売特許だった。SNSの普及によって、誰もが手軽に、じぶんや商品への付加価値を高められるようになったわけである。本当に質のよい商品なら、すこしの労力をかけるだけで、大勢からの注目を集めることが可能になった。評価経済と呼ばれるものの土台がこうしてできあがったわけであるが、その影響で、大勢からの評価がつかないものはよくないものだ、との間違った判断が社会全体を覆いはじめている。真実(社会的に)価値の高いモノほど、多くの者は理解できない。科学やテクノロジィ技術を傍証に挙げればそれらしい(これもまた、逆説は成り立たない。多くの者から理解されないからといって、必ずしも価値が高いわけではない。また、価値がないからといって無意味でもない)。評価経済において、バズる情報(コンテンツ)にも、大きく分けて二通りある。しぜんとバズった情報と、戦略的にバズることを目的にされた情報だ。よりよいものならば大勢から評価される、が真であるならば、前者の天然ものは信用度の高い商品(情報)であると呼べる。しかし、後者の、狙ってバズらせた情報は、基本的にはCMと大差ない。CMは知名度を高めるが、だからといって商品そのものの質がよいとは限らない。むしろ、商品そのものの価値で勝負できないから広告を打っている、と言ってもそうそう的を外してはいない(付加価値とはそういうものなので、間違ってはいないが)。このように、同じ高評価であっても、そこに内包された本質的な価値は真逆になることもある。そして現代では、天然のバズと、CMじみたバズの区別を、客観的につけることは至難である。かつては、明確にCMだと判った広告も、これからはより巧妙に、広告のテイをとらずに、そこら中に溢れることになる。以前はテレビ番組が、スポンサーをよくみせるような演出を取り入れていた。しかしこれからは、テレビを見なければいい、というレベルで回避できる類の、擬態ではなくなってくる。広告と打たずに、人々の口から語らせることで、付加価値をつけるような戦略をどの企業もとるようになる。レビューしたらいいことがありますよ、拡散してくれたひとにはつづきがタダで!みたいなことも増えていくはずだ。非難するつもりはないが、そうして溢れた、付加価値をつけるためだけの中身のない情報を発信することに慣れ親しんでしまうと、商品そのものの価値を高めようとする意識が薄れてしまうのではないか、と想像せずにはいられない。なぜなら、物の本質を高めるよりも、付加価値をつけるほうがかんたんで、効率がよいからだ。相対的に効率のわるい、商品開発や発掘・改善作業が蔑ろにされかねない。どちらかいっぽうに傾倒するのも、ビジネスという観点からすれば非合理的であるが、市場を選ばずに溢れかえる擬態広告は、そう遠くないうちに飽和状態となり、相対的にその効果を薄める方向にかたむくはずだ。そのとき、真実に世の人々が求めるようになるのは、ほかのモノよりもより本質的に質のよいモノである。掘り下げていえば、明確な欲求のもとに、需要者たちが他人を出し抜ける高性能な情報や商品を買い求めるようになるということだ。評価経済が成熟するにつれて、レビューや評価は、その信用を担保しきれなくなる(フェイクニュースのように、どれが天然物のバズで、どれが擬態広告かがわからなくなるからだ)。しかし、需要者たちは、評価経済という名の情報戦略に骨の髄まで馴染んでいる。ほかの者たちよりもできるだけよいものを手に入れることに躍起になった結果(すなわち、バズッた情報にばかり触れた結果)、本質的によいものを求めてはいるが、なにがよいのかが解からない、という状態に置かれるようになる(これまでの需要者も、さほど見る目があったわけではないが、現代ほど商品の数は多くはなかった。現代では個人で商品同士を比較しきれないため、結果として他人のレビューや評価を参考にせざるを得ない状況がある)。審美眼のくもりは、需要者だけでなく、それを提供し、擬態広告を打ちだす業界の人間たちにも波及していくだろう。擬態広告を打つだけでモノが売れる時代では、いいものではなく、広告を打ちやすいものばかりが出回るようになる。しかし、それは長期的に見れば、市場を痩せ衰えさせる方向に働く(なぜなら、評判のよさに、モノそのもののよさが比例しないためだ。バブルのように、相対的に、モノの価値が落ちていくことになる)。だからこそ、評価経済が市場を支配する、なんて妄言にうつつを抜かさず、淡々と質を高めるために問題点と向きあい、改善しつづける姿勢が、長期的に見たときに、有利に働く。それは職人のように、一つのことに打ち込む、という意味ではない。評価経済のさきにあるのは、大勢からの評価など当てにならない、という意識が、みなの共通認識にまで昇華される時代だ。大勢からの評価ではなく、あなたの評価が誰かの基準となることを目指したほうが、ビジネスを展開するうえでは得をするようになる(言い換えれば、審美眼を磨こう、というしごくつまらない主張に集約する)。付加価値の底に沈んだ原石を見いだせる目を肥やすために、日々、目のまえの課題と向きあうほうが、付加価値を高めることよりも優先すべき事柄なのではないか。なんの目新しくもない結論になるが、いまは気を抜くとすぐに付加価値を求めてしまう世のなかである。いまいちど考えを煮詰め、優先順位をつける癖をつけたほうが、じぶんのためになる気がするのだが、やってくるかわからない未来よりも、いますぐに得をすると判っていることに尽力したほうがいいではないか、という理屈を否定するつもりはないので、おのおの、やりたいようにやっていきましょう。


1562:【人間性】
人間性がどうたらこうたら、と槍玉にあげて相手を攻撃しておきながら、ではじぶんはどうなのか、と省みれないひとがいる。あなたも相手とそう変わらないですよ、と思うのだが、なんにせよ、あまり好きな言葉ではないが、争いは同じレベルの人間同士でしか起こらない、というのは、まったく見当はずれというわけではないのだなぁ、とインターネットを眺めていて思いました。高度にじぶんが正しいと思いあがった自意識は、悪意との区別がつきません。きっと生身で接したら常識的で温厚にみえるひとたちなのでしょうね、と無駄に妄想をたくましくしてしまいます。インターネットさんは人間の醜さばかりを増幅させるのでしょうか。そう思ってしまうじぶんの性根の腐り加減がいやになります。うつくしいものだけを見ていたいです。それはそれで、性根の腐りはじめる前段階ではあるので、気をつけたいな、と思います。うつくしさを探すこと、見出すことは、じぶん自身の美を磨くことに繋がりますが、うつくしいものと醜いものを峻別するようになったら、それはもう、じぶん自身からうつくしさが失われつつあると考えて差し障りないでしょう。うつくしさと醜さは切り離せるものではない、割り切れるものではないのです。うつくしさや正しさを感じるのはあなた自身ですが、あなたがうつくしさや正しさを決めることはできないのです。あなたがどう思おうが、山はそこにあり、海はそこにあるのです。日々、万能感に支配されないようにしたいものですね。


1563:【敢えて腐らせる】
いくひしは周期的に、積みあげてきたスキルを腐らせる期間をつくる。コツコツと磨いてきた腕を敢えて放置して、サビつかせるわけだが、最初にサビつきはじめるのは、じぶんにとって高負荷のかかっているスキルである。言ってしまえば大技だ。ある時期までは、この大技ができるかできないかが勝負の分かれ道になる。しかし、それで通用するのはよくて五年だ。十年は確実に保たない。技を極めていっても、どこかで極限をさまようことになる。前進してはいるが、ほとんどミリ単位で、みたいな感じだ。ではどうするか。ほかの技を磨いたり、技と技を組み合わせて、新しい筋道を編みだしたりするよりほかはない。そしていくひしは基本的に楽をしようとしてしまうので、大技ができているかぎり、その大技に頼ってしまうのである。だからこそ、敢えて大技を腐らせ、錆びつかせ、できなくすることで、ほかの、あまり負荷のかからない小技を組み合わせ、新しい筋道を試す方向へとじぶんに発破をかける。武器を手放す、というのは、なかなか勇気のいることだ。それは人によっては、腕を切り落とすくらいの葛藤を抱くことかもしれない。いくひしも、じぶんからそれを捨てるのはなかなかできない。大技さえできていれば、すくなくとも、しばらくは安泰だからだ。だからこそ敢えて、怠ける、という、より楽な手法を用いることで、強制的にほかの道へとみずからを追いこむのである。もちろん、怠けているあいだの時間を無駄にはしない。まったく関係のない分野に夢中になることで、新しい筋道の素材を集めておくのである。可能なかぎり、関係のない素材であったほうが好ましい。単純に、使えない素材を使わざるを得ないときのほうが、人間は発想が豊かになる。と、いうよりも、発想しないことにはまえに進めないので、どうあっても発想しようと脳の回路が切り替わる。人間はじぶんで思うほどには、じぶんの能力を使いこなせない。状況や環境を変えてしまうほうがてっとりばやいことがすくなくない。新しいことがしたければ得意なことを捨て、発想が必要なときはガラクタを素材にし、創作をしたくば、そうせざるを得ない環境にみずからを置くほうが楽である。いくひしはスマホを使わないし、ゲームをしないし、友人知人と遊んだり、飲み会に参加したり、相談しあったりしない。いくひしにとって必要なものが漏れなく、そこにあるからだ。しかし、いくひしは、いくひしの手でそれら必要なものを生みだしたいと望んでいる。だからこそ、安易に望んだものが手に入るそれらを遠ざけ、自力で生みだすよりない環境に閉じこもることで、すこしでも楽に、欲したものを生みだそうとしている。ほかにもっといいやり方があるのかもしれない。だからときどきは、遠ざけたことや、ものに、進んで囲まれてみることもある。ただ、経験上、やはりというべきか、すこし苦しくて、満たされず、渇いているときのほうが、本当に欲しているモノが手に入るように感じている。そうしたいくひしを眺めているひとはだからなのか、何かを捨て、腐らせ、サビつかせるいくひしを見るたびに、もったいない、と言うのだろう。いくひしからすれば、みなが後生大事に抱えこんでいる武器や道具が、彼ら彼女らを縛りつけている呪具に見え、苦しくないですか、と訊ねてみたくなる。しかし、気づかなければ痛くないままでいられる傷のことをわざわざ指摘するのも野暮に思い、言わぬままでいる。いくひしは周期的に、積みあげてきたスキルを腐らせる期間をつくる。短期間で腐るようなスキルはむしろ、不要なのだ。欲しているのは、自由に、自在に、組み合わせ、編みだし、生むちからなのだから。


1564:【誰にとっての理屈か?】
稀に見かける言説に、「小説家が小説以外の文章を並べはじめたら、小説家としての寿命が尽きる前触れだと思って間違いない」みたいなものがある。傾向としてそういう兆候はあるように思う。小説をつくり、読んでもらうよりも、小説家希望の者たちに向けて、小説とはなんたるか、創作とはなんたるか、みたいなことを並べたほうが読まれやすいし、反響がある。称賛や評価を求めている者にとっては、そちらのほうが手軽に欲求が満たされる。それはそれでよいのでは? と思う。小説家でありつづけることにいったいどれだけの価値があるのか、と疑問に思うほどだ。価値があると思う者にとってはあるのだろうなぁ、と思うくらいで、とくに社会に必要な職業だとは思っていない。ないよりかはあったほうがいいのでは、とは思うが、わざわざ引き止めるほどのことでもない。けっきょく、小説家が小説家でなくなることで損をするのは、小説家を利用して利益を得ている者たちである。創作論なんて書いていないで小説を書け、という理屈は十割、出版社や読者側の理屈である。書きたいモノやコトがあるなら書けばいいと思うのだが、間違っているだろうか? いずれ文字をつかった文芸であることに違いはない。むしろ、書きたいことがあるのに書かないでいるほうが物書きとしての寿命を縮めるような気がする。これもまた、物書きとしての寿命が延びたからといってどんな意味があるのか、という解釈は、人それぞれ違ってくるものだから、書かずにいることを非難しているわけではない。ただ、無条件に、誰がどのような条件下で唱えたのかも分からない理屈を理由に、書きたいことや書けることがあるにも拘わらず書かずにいるのは、初心というか、本心というか、本当にしたいことからすると、本末転倒なのではないか、と疑問に思っただけだ。小説家と呼ばれたいのか、物書きになりたいのか、それとも文字を並べて表現したいのか、はたまた小説だけをつくっていたいのか。目的はそれぞれ違っていていい。それぞれ、じぶんに見合ったやり方を試していけばよいのだ。創作論だって、べつに作者自身それを必ず守っているわけではないだろう。どちらかといえば、じぶんの考えを整理したくて書いていることのほうが多いのではないか。或いは、これまでの手法を打ち砕くために、敢えて出力し、過去のものとしてしまう、というのは、一つの方法論として有効だと感じる。もっとも、いくひしがほかの小説家に勝っていることは何一つないので、これらの考えの正当性は限りなく低いのだが。ただしすくなくとも、いくひしがまいにち文字を並べつづけていられる理由の最たるものは、思いついたことはなんでもまずはいちど文字にして並べるのをじぶんに許していることだ、と呼べる。禁じたりはしない。それを誰かが読めるカタチで発表するかどうかはまた別問題であるにしろ。雑語りだろうと、戯言だろうと、御託だろうと、なんだろうと、書かずにいるくらいなら書いたほうがよい。いずれ物書きとは、文字を並べているあいだにしか現れない陽炎のようなものなのだから。まずは何でもいいから、思いついたことや、考えや、イメージを、文字に落としこむ習慣をつくったほうが、本当に表現したいことを掴んだときに、より自在に出力できるようになるのではないだろうか。


1565:【いいね!】
SNSの文化なのだろうか。いいね!を押されたから、お返しにいいね!を押す、みたいな人に遭遇することがある。それを責めたり、非難するつもりはないけれど、それって、いいね!の意味あります?とは思うのだ。いくひしは、本当にいいね!と思ったものにしか、いいね!は押さないし、それなりに、いいね!を、作品を評価するうえで比重の高い表現方法だと思っている(例外的に、だいじょうぶですかー、安心しましたー、という意味で使うこともあるけれど)。いっぽうでは、いいね!を単なる、ありがとうや、見たよー、といった比較的軽い挨拶のようなものとして使っている人がいることも承知しているし、それをとやかく言うつもりはない(言ったところで、誰かを不快にさせる以外に効果はないので、言わないほうが損失はすくない)。ただ、あまりに色々な評価基準があるので、せっかく、ものすごくいいね!と思って押した、いくひしのいいね!が、そのひとにうまく伝わっていないかもしれない、と思うと、すこしさびしく思うのだ。言っても、いくひしに、いいね!と思われても、そもそもがたいしてうれしくないのかもしれないが。話は変わるのだけれど、noteで、このひとすごくない?と思った作家さんを見つけた。名前が絵文字というか記号だったので、うまく紹介できないのだけれども、とりあえず掌編の「魚の子(https://note.mu/_812/n/n406d878df0e7?creator_urlname=_812)」が、久しぶりにWEB上の小説を読んで、ぐわーっとなりました。一気にぜんぶの記事を読んでしまいました。おもしろーい。たいへん、いくひし好みの文章に、物語でした。ほかの掌編や、日記も好きです。ひと目ぼれした作家さんです。長編はないのかしら?


1566:【戦うのではなく】
戦わないことと、黙認することはべつだ。放置したくないからといって、相手とぶつかりあうのは得策ではない。狩りの基本は戦わないことだ。身の周りから害を取り除きたくば、戦わずして排除する方向に尽力したほうが好ましい。あとあと禍根を残さぬように、相手に気取られないように、みずから自滅するように仕向けるのが得策だ。もし戦うのならば、片手でひねりつぶせるくらいの圧倒的戦力の差がなければいけない。戦う間もなく勝敗の決するような戦いでなければ、しないほうがマシである。むろん、生存戦略を優先した場合の考え方であるので、死んでもいい、損をしてもいい、と思うのならば、真っ向からぶつかり、勇姿を示すのも一つかもしれない。負けても損をしないなら、好きなだけ勝負をすればいい。ただし、それは戦いとは呼べないだろう。繰りかえすが、戦わないことと、黙認することはべつである。言い換えるならば、戦い方にもいろいろある。じぶんにあった戦い方を見つけよう。


1567:【平穏な日々】
やー、やー、いくひしでござる。今週はきゅうに、がっくーんと肌寒くなりましたね。そとを出歩けば、半そでのひとよりも長そでのひとのほうが多くなっておりますよ。部屋にいたほうが肌寒いので、いくひしさんはすでに毛糸のセーターを着込んでおります。セーターというか、カーディガン? よくわからんのじゃが、なんかそういうの羽織ってる。あとすこししたら、ひざ掛け毛布もとりだそうかなぁ、なんて考えてます。窓のそとじゃコオロギにカネタタキにキリギリスが鳴いておって、すっかり秋だなぁなんてなにともなしに目を細めてしまいますけれども。えぇ。まいどお馴染み、書くことない日でございます。さいきんは、ほら、いきがってるいくひしさんにこの「いくひ誌。」を並べてもらうことが多いじゃないですか。いちばん真面目ないくひしさんでもありますから、いちにちに二度更新してくれちゃったりして、もっと控えめでもよろしいのよ?なんて心配してしまいますけれども、本人がいいみたいので放っておいてます。ほかのいくひしさんたちには、毎日更新ショートショートの管理をお願いしておりますから、あまりこちらには出てきてないみたいです。ちなみにこちら「https://note.mu/ikubisiman」に掲載しております。刺激が足りなくて、飽きてきたころですかね。いくひしさんはほかのいくひしさんに、あれやって、これやって指示だすだけなのでラクちんでござる。いくひしはさいきん、積み木にはまっておりまして。三×三×三の立方体をつくるんですけど、ブロックが三つくっついて「L」のかたちになったのが、九個あって、それぞれに赤いマーキングがされてるんですね。ぜんぶで赤いマーキングは21個ありまして、立方体を組み立てたときにサイコロの目になるようにしなきゃなんですけど、まだいちどもサイコロにできたことがなくて、なんでかなー、なんでかなー、ってうんうん言ってます。ひまなのかな?っておもった? このひと、ひまなのかなっておもったんでしょ? いいよいいよ。どんどん言って。いくひし、ほかのいくひしさんとちがっておこったりしないから。なんならみんなで、ぱーっとパーチーひらきたいくらい。餃子ぱーちーしようぜ。アルコールはなしな。ノンアルコールならいいけどな。コーラがいいな。いくひしはコーラがいい。みんなはなに飲む? いいよいいよ、いくひしさんおごっちゃう。なんて言ってもだれも返事はくれないけれども、さびしくはないやい。なんたっていくひしさんには、ほかにもいくひしさんがいて、そのいくひしさんにもいくひしさんがいるから、いくひしさんは、さびしくはないのだ。文字数たまった? ムリして書かなくてもいいんだよーって言ってるんだけど、なんかほかのいくひしさんたちがせっかくがんばってるから、いくひしのせいで止めちゃうのもかわいそうだなぁっておもって、こんなしょうもないこと並べてるでござる。みんな、風邪ひかないようにな。ほんと、ぽんぽんだして寝ないように。毛布かぶって寝ましょうね。きょうはもうおしまい。オチなんてなしや。おやすみー。いい夢みるんだぞー。


1568:【んー】
前にも書きましたけどこの、近況ノート、一万字しか書けないの不便だ。せめて二万字にしてほしいけど、だったらこんなとこに文字を並べるな、と言われたら、はいそうですねぇ、ってなっちゃうから言えない。んー。


1569:【きのうの分】
きのうの分の「いくひ誌。」はきょうの分と合わせて、夜に更新します。これだけだと物足りないので、なんかいいこと言います。眠いときは、寝る! きょうも本気でなまけるぞい!


1570:【まだあった】
いくひしは鈍感なので、無視されたり、嫌われていても、それに気づかないでいることが多い。気づいても、へぇ、気づかなかった、なんで?(何が嫌だったの?) みたいになっちゃうから、相手もおもしろくないんでしょうね。ますます嫌われちゃったりして。でもそれでいくひしが相手を嫌いになることはない。いくひしの気持ちは相手の挙動や態度の変化では決まらないからだ。言ってしまえば、相手が何をしているかが基準なのであって、相手から何をされたか、は好き嫌いの基準のなかに入っていない(明確に害をこうむったら、さすがに防衛策を講じるけれど)。いくひしのことなんか気にしなくてよいのだ。

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