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いくひ誌。【261~270】

※ヒビ割ることなく生まれてくるヒナはない。


261:【CHILLING】
思考を煮詰める作業を鍛冶に置き換えると、閃きとは、叩きあげられ赤く熱を帯びた鉄の塊を、水に浸けて一気に冷ますときの、あの、ジュっという音だと呼べる。裏から言えば、閃きに必要なのは、ひたすらに鉄を叩き、煮詰めることではなく、水のような、鉄とは一見なんの関係もない混沌とした情報の吹き溜まりに、一時的に身を投じ、熱くなった思考を瞬間的に冷ますことなのだ。


262:【ざんげ】
物理世界で愚痴を吐露してしまいました。ゲロ並みにとろとろでした。聞かせた相手がとくに親しくもない相手だったこともあり、また、べつだん口にするほどもでない内容、というか愚痴の核たる登場人物たちにはむしろ日頃助けてもらっているだけに罪悪感はんぱないです。わるぐちはこれだからいけすかねぇ(と言いながらのわるくちのわるくち)。なんて言いつつ、そんな人物あなたいるの?と、ふと我に返る2016年12月28日、新作はまだ終わらない。


263:【むしろ逆】
多重構造の物語をいくひしは推しているが、それはなにも物語の多機能化を推奨しているわけではない。ことごとく逆であり、これまで積み重ねられてきた物語における約束事を極力排し、可能なかぎり圧縮してできた余白に、ほかの物語を詰め、隙間ができないように編みこもう、という物語の生産性(付加価値)の向上を促しているのである。それはどこかムーアの法則に似ている。もっとも、集積回路のような基盤は物語(虚構)にはない。二倍どころか何万倍にも圧縮が可能だ。


264:【ちくび】
コダさん著のマンガ「漫画家とヤクザ」を読んだ。エロぴくって感じがする。ただえっちぃだけじゃない。エロスではあるのに下品じゃないのが特質だ。さいきん思うのは、成人向け漫画でも乳首への愛撫が丁寧に描写されているものはエロスの成分がよりつよい傾向にある点だ。そしてそれら漫画の作者さんは基本的に女性が多いように感じる。性別は不明だがたとえば、緑のルーペさん、関谷あさみさん、駄菓子さん、きいさん、内藤らぶかさん、ひげなむちさん、ディビさん、などはおそらく女のひとなんじゃないのかなぁと思わせる構図が多い。みなさん、とても乳首描写が巧みでいらっしゃって、もちろんいずれの作家さんたちのつむぐ作品はどれも格別にえっちぃです。


265:【こんぴてんしー】
進捗挽回ボーダーラインがピコピコ赤く点滅している2016年12月30日の朝7:00ですが、およそ四時間くらいずっと、「コンピテンシー」「ハイパフォーマー」のふたつをネット検索して、でてきた項目をひたすら上から順に読み漁っていた。いわずもがな新作にはいっさい関係のない情報で、ほとんどというか十割現実逃避のなにものでもないのだけれど、うーん、思うのは、人材の存在意義を「組織を機能させるためのコマ」として考えるならば、業績の高いひとの行動様式を分析し、それに類似した行動をとっている人物を高く評価する、またはそうした行動様式をほかの社員に標準化させる、というコンピテンシーの概念は、人材発掘および開発において、一定の成果を期待できるとは思う。いっぽうで、人材を、組織を成長させるためのコアだと考えるならば、コンピテンシーの概念はむしろ、組織の硬化をまねく失策になるのではないかと危惧するものだ。目先の利益の最大化をもたらすハイパフォーマーの存在は、短期的には組織を成長させるが、長期的には容易には取り除くことのできない問題を腫瘍のように抱え込む因子になっているように感じる。それはたとえば、短期的な視野ではタカ派の政策のほうが成果をもたらすが、長期的にはハト派の政策のほうがより安定した成果を発揮できる点と似ていると呼べる。本質を理解して仕事をすると、ときに十年先、百年先を見据えての行動選択を迫られるときが往々にして訪れるものだ。そしてそこから逆算し、今現在しなくてはならないこと、またはしてはならないことを規定していかねばならない。基本的にそうした行動は、成果に結びつくために長い時間が必要だ。要所要所で成果として現象化しても、そこに再現性があるかを検証するためには、同様にしてそこに至るまでにかかった時間と同等の時間が不可欠になってくる。時間がかかるということはそれだけコストもかかる。多くの賛同は得られない。しかし、無視できない問題、そして本質的なことほど、長期的な視野での行動選択が欠かせなくなってくる。そうした行動をとる人材は、短期的な成果を是とする組織からは評価の対象として外される傾向にある。しかし組織の成長にとって有益なのは、むしろそうした本質を見極めて行動を選択できる人材だ。言い換えれば、既存の価値観に縛られずに、既存の価値観にあいたほころびを指摘し、縫い合わせられる人材が、これからの組織を土台から支えることとなる。ハイパフォーマーとトップパフォーマーに差があるとすればこの点であるだろう。インターネットが普及し、時代の流れの加速したいま、時間対効果の高い者だけが評価される時代は、もうすでに崩れはじめている。


266:【魚】
淡水魚に海水を与えても無駄に苦しめるだけだし、海水魚に淡水を与えても同様に苦しめるだけで、何の有効性も発揮しない。しかし、淡水魚であっても快適に過ごせる海水を開発できたならばそれはすばらしい発明になるし、また、海の魚を川の水で飼えるようにすれば、とんでもないイノベーションとなるだろう。いくひしは物語とは本来そういうものだと思っている。淡水魚に海の広さを感じさせ、海水魚に淡水の透明さを知ってもらう。そこで魚たちが何を思うのかは定かではないが、すくなくとも世界の幅は広がるはずだ。それを選択の幅だと言い換えてもいい。読者層を意識することはたいせつだ。しかしそこに縛られるのは、淡水魚を淡水で飼うのと変わらない。飼い殺すくらいならば端から釣りあげたりなどせずに、川のなかで泳がせつづけていたほうがよほど魚たちは自由だろう。我々、物語を編む者たちが自由を奪うような真似をしてよいのか。いくひしはそうは思わない。


267:【2016年12月31日】
ひとの言うことはアテにならない。つくづくそう実感した年だった。迷ったときはより情報量の多そうな道を選ぶことにしているが、物語をつむいでいるとき以上に濃い時間はない。物理世界で半年働いたときの情報量と、僕が五分でも物語の舞台に降り立っているときの情報量、比べるまでもなく後者の五分のほうが濃厚だ。圧倒的すぎてびっくりする。それを他者に理解してもらう努力を払うよりも、その五分をいかに確保し、長くしていくかに労力を費やすほうが建設的だ。来年はより孤独に磨きをかけようと思う。


268:【12/31/2016】
今年は一口でかみ砕ききれない情報にたくさん触れました。人間の複雑さや単純さ、やっぱりなと思うことやそうでもなかったこと、今までの私は思っていた以上にがんばっていて、そしていまはまったくがんばれていないこと、苦しいこと、悔しいこと、たのしいと思う時間はやっぱり物語に触れているあいだだってこと、新しい体験は、新しい知見を得ることよりもどちらかと言えばいままでの人生がどういったものであるのかを再確認するための触媒であったこと、たいせつな出会いはなかったけれどやっぱり出会いはたいせつだってこと、言葉にするとなんてことのない体験が、十年後の私にとって欠かせない成分になっているだろうこと、今年は私にとって大きな転機になる年でした。来年こそはたくさんのひとと繋がって、私という存在の外郭をぺたぺたと塗り固めていけたらいいなぁ。今までの私、ありがとう。来年からまたよろしく。


269:【大晦日】
なに一区切りつけた気でいんだよ今日は今日だし明日は明日だろうがよ。やらなきゃならねぇこと溜まってんだ、暦の数字が一つ増えたくれぇでてめぇの何かがマシになるわけでもあるめぇし、カレンダーめくったところで過去が消えるわけでもなし、おまえが成長できてねぇことが帳消しになるか。ならねぇだろ。いいか、今日は今日だし明日は明日だ。現実から目ぇ逸らしてんじゃねぇよ。おめぇにとっての現実ってやつぁ、黙っててもやってくるようなもんなのか。ちげぇだろ。てめぇにとっての現実は、てめぇにしか視えねぇアッチ側だろちげぇかよ。話にならねぇだろうがよ、おめぇが視ねぇとよ。いい加減戻ってこいよ。おめぇが明日をつくんだよ。めくるための明日をよ。


270:【紅白AyaBambi】
椎名林檎とタッグを組んでいるダンサーユニット「AyaBambi」をご存じだろうか。2014年ごろに突如としてショービズ界に現れた日本人女性二人組で、突出した世界観、そして尋常ではない音取りのセンスの光る世界的ダンサーである。あらゆる活動がドミノ式に繋がり、とんとん拍子で活躍の場を広げ、気づいたときにはトップパフォーマーとなっていた。下積み時代の話がいっさい聞かれない謎の多いダンサーである。ふたりは婚姻の間柄であり、信頼関係の深さが、シンクロ率の高いパフォーマンスに現れている。彼女たちのダンスで特徴的なのは、その音取りの細かさである。嗜好する曲も細かい音で構成されており、すべての音を手当たり次第に結界へ封じ込めていくような振付けは高速で繰りだされる折り紙のようであり、見ている者を圧倒する。だがじつのところ、彼女たちの細かな振付けは、軸となる胴体の動線を極限まで削ぎ落とすことで可能とする極めて抑圧的な型なのだ。胴体の動きを圧縮することにより、手先や首の僅かな動き、部位の断片的な所作を最大限に際立たせている。驚異的なのは、そうした小回りのきくのべつ幕のない振付けに「静」の意味を持たせ、成立させている点だ。あたかも強風に煽られ折れてしまいそうなか細い木が、それでも枝葉を細かく展開し、広げ、それそのものを大きく豊かに見せるかのように。無数の葉が風に揺れ、忙しなく音を響かせながらも、それそのものが静寂の名を冠するように。主体は枝葉にありながらも、飽くまでカナメは幹にある。圧縮することで膨張をみせる魅力がある。2016年の紅白歌合戦にも彼女たちは椎名林檎と共に出演した。そこで披露された彼女たちの振付けは、極めて「静」を意識し、編まれていたが、それはしかし、これまでの型から枝葉を取り払い残った幹だと呼べる。すなわち、枯れた樹を、「死」を表現しているのである。そして最後、「死」は舞台上から消え去り、時がふたたび動きだす。

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