※日々の記憶は断続的で、茫洋とした連なりを線で紡いでいくときばかりが記憶の輪郭を補強していく、それ以外はすべて泥水、このままじゃ泥の海ができちゃうよ。
241:【過度】
わたしがいちばんかわいいのに、男どもはあのコばかりを遠巻きにする。わたしにはベタベタ触れるくせして、あのコばかりが無菌室ですくすく育った花のよう。じゃあわたしは何なのかと考えたらなぜだか小学生のころの教室にあったサッカーボールを思いだす。男の子たちは昼休みになるとこぞってそれを奪いあい、ときに蹴って、回して、駆けまわる。チャイムが鳴ったら、あーたのしかった、の一言残し、サッカーボールは砂場のかげに置き去りで、まともに仕舞ってももらえない。なのにつぎの日になると、また男の子たちはサッカーボールを奪いあい、そして蹴って、回して、あーすっきり。べつにいいよ。不満はない。全世界の男どもがわたしを奪いあえばいいのだ。それなのにどうしてあの男はサッカーボールには振り向きもせずに、無菌室で育ったくそつまらない花なんぞを愛でているのだろう。あんな花のどこがいいのか、蹴ったら一発で散ってしまうようなあの花のどこが。わたしはその花と仲良くなった。無菌室のそとには連れだせないから、わたしのほうでわざわざ花に扮した。わたしのほうが優れていると間近で眺めてそう思った。ブーケひとつつくれやしない。海に行っても泳げない。なのにどうしてこいつはけろっとしているのだろう。なんでもないような顔で、わたしのことを褒めていられるのだろう。なんとか花の歪むところが見たかった。わたしは花にとってのミツバチを、その男を、誘惑した。たくさんの嘘をつき、たくさんの男どもを使って、ミツバチに、その花には毒があると吹きこんだ。わたしはミツバチに、その腹から生える針を使わせることに成功した。ミツバチは散った。あとには、ミツバチの訪れなくなった無菌室の花だけが残った。元の、孤独な、高嶺の花だ。わたしは花に、針をしきりに刺そうとしているミツバチの情けない姿の納まった動画を見せた。興信所を使ったと嘘を言った。花は、そう、と言って、それを眺めた。「言ってくれればよかったのに」花はなぜか微笑んだ。「これ、相手、あなたでしょ。わかるよ。ほら、ここのところ。ホクロがある」ミツバチのしたで針を刺されている花モドキの腰のところ、わたしも知らなかったホクロがあった。「好きだったんだね。ごめんね、気づいてあげられなくて」なぜか花はいつもと変わらぬ眼差しで、こちらにそっとほころびだ。「おめでとう。しあわせになってね」言ったあとで、彼女の目元からは光の筋が垂れさがった。わたしは途端に息ができなくなった。無菌室などではなかった。否、無菌室ではあるだろう。菌ですら生きていられない瘴気にここは満ちている。関わるべきではなかった。わたしはいまさらのように合点した。男どもは正しかった。コレは、遠巻きに眺めているのが正解だ。しかし、それに気づいてしまった今、コレに触れ、じかに瘴気を吸ってしまったわたしからは、可憐に咲きほこるこの花から逃れる意思はいっさい失われているのだった。「そうだ、ねえ、あす、また教えて」息を呑んだまま身動きのとれなくなったこちらに花は言った。「私もつくれるようになりたいの。あなたみたいなきれいなブーケ」わたしは、うん、と言うほかないのだった。
242:【エクレアをぼくに‐も‐ひとつおくれや】
はい。というわけで、百合アンソロジー「エクレア」を読みました。さっそく影響を受けました。受けちゃいました。えへへ。おすすめは、天野しゅにんたさんの「人間的なエモーション」です。
余談2:【ワイロいずクソ】
HONG10の進化の止まらなさは、勝ち負けで決まらない価値がある。それに比べてスポンサーの傲慢さにはうんざりさせられる。三年前から顕著だったが、ことしのはない。
243:【どうしてぼくはぼくなんだ……】
明け方に、「あの娘にキスと白百合を」の既刊五巻分を読んだのさ。ウツウツなけだるさに埋もれた目覚めだったのだがね、読み終わったときには、もう、それはそれはすばらしい心持ちで、いくひしのなかの乙女どもが、「わたしもそういうのがいいーー!!!」と総動員でがなり散らしておったのだと。それはそれは、もう、すばらしい心持ちは、十六時間経ったいまでも健在で、いくひしのなかの乙女どもが、「いいなぁーーいいなぁーーやっぱりわたしもそういうのがいいーーー!!!」とやはりがなり散らしておるのだった。
244:【普及からの融解】
登場しはじめのころインターネットは、王様の耳はロバの耳と叫ぶための穴としてその役割を機能させていた。現実ではないが、どこかできっと日常のふうけいと繋がっている。いわゆる社会の影としての一面があった。ところがインターネットが普及し、言葉を覚える前からすでにスマホをいじりインターネットにアクセスする赤子がとりたてて珍しくもなんともない時代にあって、いまはもう、若い世代たちにとってインターネットは実存する社会となんら変わりない存在となっている。現実と地続きで繋がっているのではなく、それもまた現実の一部として溶け込んでいる。ひとむかし前ではインターネット内での振る舞いは、現実のじぶんとは大きくかけはなれたものとして扱われてきた。現実で溜めこんだ鬱憤を吐きだすための肥え溜めとして機能したわけだが、いまはそうすることで訪れるだろうそう遠くない未来での負債を誰もが容易に想像できるようになった。インターネット内のじぶんも、飽くまで現実のじぶんとして、じかに影響を受けるのだとする認識をみなが、とくに若い世代は共有しはじめている。匿名か否かは関係がない。ひとむかし前ではネット弁慶なる言葉がなんの違和感もなく悪口として成立していた。しかし現状、それは他人へのそねみの域をではしない。ひるがえっては、物理世界での振る舞いよりもさきに、インターネットのなかにおいて輝かしいじぶんを演じることができたならば、それは現実であってもヒーローになれるのだとする逆転現象がいまはすでに起こりはじめている。もっと言えば、インターネットを虚構として扱い、これくらいならだいじょうぶだろうと大袈裟な物言いでひとを騙すようなことをしていると、物理世界においてもそういう人物だとする認識を、段階を踏まずに直結して持たれるようになる。ここのところの認識の切り替えが、企業を含めて、インターネットの普及したころの時代に生きた人々は、ややできていないのではないか、とさいきんちょくちょく思うようになったけん。クリエーターも例外ではないけんね。もうちいとば意識してみてもよかよ。ねえいくひし、きみのことやけんね、ちゃんと聞いてた?
245:【みんな、もすこしおちつけ】
内なる乙女たちが未だにぎゃーぎゃーかしましく、わたしもああいうのがよかったんですけどー、と責めたててくる。ぼくの責任なのだろうか。そういう生き方をしたのはむしろきみたちのほうではないか。説得を試みたが、それがよくなかったようだ。彼女たちはいよいよを以ってぼくをこてんぱんに詰りだした。ぼくは大いに傷ついた。たしかにね。しょうしょうというか、無視するにはいささか過剰に、彼女たちは苦難の道を辿ってきた。そういう顛末の物語に登場していた。しかしそれは彼女たちの人生であり、ぼくの人生ではない。ぼくはただ彼女たちの人生を俯瞰的に観察し、そしてそれを文字に落としこんだだけだ。わたしたちの人生をなにかってに盗み書きしてんのよと責められるのならば、傷つきはすれど素直に謝罪の言葉をつむぎたくもある。ところが彼女たちは、あろうことか、じぶんたちで歩いた道のことまでぼくのせいにしている。その道を辿ったのはほかでもない、あなたたちだ。断じてぼくのせいではない。正論を吐きつけたところ、「あン? もっかい言ってみろし」彼女たちは激高した。なんで! ぼくは憤懣やるかたない。
246:【見んな、とすこしの躾】
内なる彼らがわたしに抗議の念を発している。なにゆえぼくたちはこうまでも情けないのかと。はいはいごめんなさいね、わたしがわるうござんした。これでいいでしょほら、もう喚くのやめて。お願いするも、彼らは黙ることを知らない。わたしの堪忍袋の緒がほとほと緩んだのにはそういうわけがある。誓って理不尽な怒りではないことをここに表明させてほしい。わたしは言った。知るかばか、ズドンと。「じぶんの性根が曲がってんのをひとのせいにすんな。なんで情けないのか? おまえがおまえだからだろ、それ以外に理由はない。以上、異論は受けつけない」ぴしゃりと言ってのけると、いっしゅんの静寂のあと、百倍になって抗議の念が押し寄せてきた。そんな正論はぼくらこそ受けつけない、なんだってあなたはぼくたちをこうまでも情けないままに生みだしたのか、断じて許される所業ではない、まるで悪魔だ。彼らの言い分を要約するに、そういう恨み節が籠められていた。情けないオスどもの情けない言い分である。いとあわれなり。わたしは言った。「まるでじゃねえ悪魔だ。文句あっか、わたしは悪魔だ! 悪魔が悪を働いてなにがわるい、わたしがてめぇらを奈落に突き落としてなにがわるい。文句あんなら抗えよ。がむしゃらに奈落の底から這いあがってみせろよ。いいか、わたしはな、何度でも突き落とすぞ。ああそうだとも、おまえらが情けないのは、ぜんぶがぜんぶわたしのせいだ。だったらどうする。そうして奈落の底から喉を枯らすだけか? まさに情けないの見本市だな、雁首揃えてほんとなっさけねぇでやんの。はっは、ざまあねぇな」煽った。煽ってやった。彼らは黙った。そうするほかないだろう。喚けば喚くだけみじめであり、わたしを余計に楽しませるだけだ。「なんだ、もう終わりか? ただ喚きつづけることもできねぇなんて、負け犬にもなれやしねぇ。ほんと愉快なコたちでちゅねー」言ってからわたしは目のしたにちからを籠め、「どうした、喚けよ」シンと静まりかえった奈落の底へ、声を落とした。反響音のひとつもない。静寂が闇の底にたむろしている。
247:【夢】
いくひしの夢は、大金持ちになって、「なんで売れてないんだ、こんなにおもちろいのに!」という作品をつくりだす作家さんたちを見境なく養って、好きなだけおもちろい物語を紡いでもらうことです。お金持ちになるぞ。
248:【無限の住人】
沙村広明さんの漫画「無限の住人」はいくひしにとって、ジャンルとしての時代物への抵抗感を完膚なきまでに打ち砕き、その破片までをも完封勝利がごとく殲滅してくれた非常に思い入れ深い作品である。たしか、ちょうど北野武監督の映画「座頭市」を観返していて、その圧倒的なテンポの良さに遅まきながら舌を巻いた矢先での、固定観念の破壊からの木端微塵を体験した。時代物にタップダンスかよ、という笑いからの、時代物に不死身かよ、それもファンタジィ寄りでなく!? そんなんありですか、みたいな幼稚な所感を、なんの違和感なく当時のいくひしはひとつの革新として感受した。そんな漫画「無限の住人」をこさえてくれた沙村広明さんの最新作「波よ聞いてくれ」を読んだ。一巻、二巻はすでに読んでいたのだが、たしかにおもしろいが、そこまで絶賛できるものではなかった。しかし! しかーし! 2016年12月11日現在、最新刊として発売されていた三巻に目を通し、いくひしは大いに脳汁噴きだした。ブシャーッ! おもしろい! 絶賛したい! させてくれ!!! キャラだけでもおもしろいのに、作中作までおもしろいなんてどうかしてるぜ! なにより三巻からはこれまであった恋愛要素がほぼカットされている。サービスとして主人公とそれを支えるアシスタント女子との友情があざとく百合として描かれているが、それがまたなんとも心地よく、あざとさ上等、あざとさこそあでやかさのあらたかさ、とでも言わんばかりの堂々たる面目、絶妙な塩梅でごじゃった。やっぱり詰め込み過ぎはよくないね。芯がスって一本通ってるほうがよいと思う。それはたとえば、makotoji先生の「月が爆発したので(ラジオDJ編)」だったりする。キャラがラジオを垂れ流しているだけなのだけれど、ただそれだけのことが上質な脳汁をダクダク流させる。すばらしい技術であり、才能であり、原石をガリガリ爪で削っていくような、荒々しい刃の鋭さを、いくひしは全身で感じるのであった。
249:【たいへんにしつれい】
天野しゅにんたさんの「philosophia」(元は同人作品)がすばらしすぎて、どうしてこんな才能を無駄に使い潰すような真似をするんだ、と、ほかの天野さんの商業作品を読んで、とても悔しく思う。ちがうんだ、このひとはもっとすごいものがつくれるんだ、ほかのもたしかにおもろいけど、なんかちがう! うがー! いくひしはたいへん失礼な憤りに胸を焼かれている。ごめんなさい。でも、うがーってなる! そうじゃろ!
250:【ホントに? なんかふあんだ】
革命は革命を目的にしてはならない。調和の目指すところにより成し遂げられる変化であるべきだ。しかし調和に囚われてはいけない。調和は停滞の前触れであり、革命と同じく、そこを目的にしてはならない。