※日々おもいがおもく、のしかかる、おもいをとても、おもくおもう。
151:【応答不能、理解はどう?】
病気かは分からないけれど正気ではあるよ。異常かは分からないけれど起動はしてるよ。無能でも機能するよ。不動もひとつの動きだよ。
152:【温度差】
キャラクターの掛け合いでだいじなのは温度差だ。落差があればあるほどおもしろくなる。ただし同じ温度を共有していながらにおもしろくできたならば、じつはそれがいちばんおもしろい。身内ノリで笑えるのがいちばん楽しい理論である。しかし輪のそとから眺める身内ノリほど冷めるものはない。
153:【融合】
まったくべつのジャンルを各々極めたとして、それらを融合させるには、それら複数の型をいったん解体せねばならない。せっかく積みあげてきた経験を投げ捨て、いちどまっさらな状態に戻らないことには、それら複数の型を融合させようとしても、余計なダマができ、うまくいかない。つうじょう人は、自らが積み上げてきたものを放擲するには並々ならぬ抵抗を覚える。全身全霊で愛をそそいできた我が子をその手で殺すようなものである。だが、それをせねば乗り越えられない境地というものがある。中途半端ではいけない。それをしたところで、なにも得られないかもしれない。しかし、やらねばならないときもある。型はできた。いざ、まだ見ぬ境地へ。
154:【うっかり】
いっけね。極めたつもりがぜんぜんだった。実のつもりが蕾だった。うっかり切っちゃうとこだった。あっぶねー。
155:【琴線の赤い糸】
平穏世代の韋駄天達なるWEB漫画がある。作者は天原氏である。いくひしおすすめの作品なのだがなぜだか商業出版されない。声がかからないのだろうか? あれだけのセンスの持ち主で? ながらく疑問に思っていたのだが、なるほど。どうやら原作者として色々ご活躍のようである。あの独特の絵柄と構成が好きだったのですこし哀しい気もするが、絵柄が変わっても構成の妙は変わらずのようである。本日、「おっ?」と思った作品がじつは天原氏原作だったのはうれしい発見であった。いいものはいい。ぜひとも活躍の場を広げていってほしいものである。
156:【レビュー「★☆☆☆☆」】
姉から留守番ついでの子守りを頼まれ、暇になったらこれでも読んで、と手渡されたのがこの本でした。ちょうど姉の娘、一歳になったばかりの姪が寝つき、暇になったのと、前評判がよかったのとで、ワクワクしながら手にとったのですが、まず引っかかったのがそのタイトルです。局部怪奇譚ってなに? いきなり下ネタって、と若干の不安を覚えながら、サブタイトルを見てさらにげんなり――人造乙女って男のひとたちが己が欲望を思う存分ぶちまけるためのアレでしょ。百歩譲ってそれはよいとして標章登録に問題はないのかと小一時間問い詰めたい気分に蓋をしつつ、ようやく本文に目を落としました。「手を拾った。人形の手だ」からはじまる本文は、なるほど、導入としてはまずまずと言っていいでしょう。ですがその後につづく長々とした「拾った手」との共同生活は現実味がなく、漫画のようで、「拾った手」を妖精に置き換えても成立するフワフワ感はどこか夢見がちな少女漫画を彷彿とさせます。少女漫画とちがうのは、どこを読んでもその根底に性欲じみた淀みが漂って感じられる点で、読んでいてただひたすらに苦痛でした。冴えない青年の書いた孤独を紛らわすための日記を延々読まされているようで、こんなものははっきり言って読書とは言えません。中盤、ようやく話が動き出したかと思えば、本筋とは関係のない要素がバンバン挟みこまれ、レストランのゴミ箱に顔を突っ込まれたような戸惑いばかりが終始つきまといます。最後はなんだかわからないうちに主人公が真実の愛に目覚めるあたり、読者を置いてきぼりにするにもほどがあると、怒りで我を忘れそうでした。何かに八つ当たりしなければならないほどの、それは怒りで、気づくと物置小屋から幼いころに遊んでいたドールハウスを持ちだし、そこに仕舞ってあった人形を八つ裂きにし、なんとか怒りを鎮めようとしていたほどで――バラバラになった人形からは四肢が飛び散り、ゆかに散らばったそれらの中から、小さな手を拾いあげ、なぜだかわからないがそうしなければならない衝動に駆られ、それを口の中に放りこむと、そのちいさな手は黙ってグニグニと咀嚼されればよいものを、バリバリとかんたんに砕け散り、怒りをやわらげてくれるどころの騒ぎではありませんでした。このままではいけないと思い、なにか代わりはないかと家のなかを見回すと、おとといからちょうど遊びに来ていた姉家族の荷物が目に留まり、ついで、いつ目覚めたのか、一歳になったばかりの姪の無邪気な鳴き声が、あーうぁーきゃっきゃ、と襖の向こうから聞こえてくるのでした。やわらかいぷっくりとしたコッペパンじみたそのちいさな手を思い描きながら、読んでいた本、「局部怪奇譚~~人造乙女は心臓を止め~~」を丁寧にゴミ箱へと投げ捨て、ついでにハサミを手にし、鳴き声のする部屋へと、一歩、二歩、と歩を進めるのです。
157:【スキル】
他人と競いあうとスキルは伸びる。スキルは、観衆を沸かせるために欠かせないものだ。しかし、スキルではない、たいせつな何かは、孤独に地道にあれこれ手探りで試行錯誤するほかに身につける術がない。お手本が、ない。そして基本的にスキルと、そのたいせつな何かはトレードオフだ。両立して体得するのはむつかしい。沸かせるスキルもだいじだが、見る者を魅了し、黙らせる、そんな静寂を生みだす何かも捨てがたい。どちらがいいという話ではなく、両方身につけたいというわがままである。
158:【――きみもしらないものがたり。】
2016年8月28日現在、ちまたでは新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」が流行の兆しを見せている。ネタバレにならないていどの概要としては、精神転換してしまった、見知らぬ少年少女が、間接的な交流で以って互いに惹かれあっていくといったボーイミーツガール、青春映画である。キモとしては、精神転換したふたりが、互いに見知らぬ赤の他人である点が挙げられるであろう。どうあっても直接の交流を図れないため、環境の変容に振り回されつつ、あれこれとなんとか現状の把握に努めようとする。いくひしの予想としては、そこを利用した何かしらのオチがあるのだと睨んでいる。もっとも、そうした小細工をせずにそれまで接点のなかったふたりが交流を深め、心のどこかで繋がっていく様を、その繊細な感情のゆらぎを掬い取るのが巧みな監督であるから、或いは、ド直球で青春の甘酸っぱい初恋模様を描き出している公算は高い。ただしそれを長編映画でやる意味もよくわからない。きっとなにかしらの仕掛けはあるだろう。あってほしい。否、きっとある。なぜなら、いくひしも同様に、見知らぬ他人同士の精神転換モノをすでにつくっているからである。どうあっても、この、「見知らぬ赤の他人」という要素は、物語を転がしていくためには必要なキモにならざるを得ないと、体験的に知っている。その作品の名を、「異世界の蛇口~~神殺し魔起き~~」と言いますが、あ、お気づきですか? そう、じつはこれ、他人の威を借りた姑息な宣伝である。新海誠監督は、今回の映画、そのとあるインタビューで、「蛇口のようでありたい」とおっしゃっていたとかなんとか。きっとそれはいくひしのこの作品に影響されたことへの示唆、迂遠な告白なのでありましょう。ええ、ええ、わかっておりますとも。んなこたぁない。そんなのはマンに一つもないのですわ。しかしながら、妄想に浸るくらいの余地はあってもよくないか。よくないか……。まあいいや。そんなこんなで、アニメ映画「君の名は。」を観て感動したそこのきみ、心洗われるような作品もよいけれど、拙作「異世界の蛇口」みたいな心暴かれるような作品も、ときにはいいんでないか、などと露骨な宣伝かましてみたりする日曜夕方午後十六時、もうすぐ休日が終わっちまうよー。新作、まったくすすまんYOー。へいへいHOー。それは与作だよー。日に日にセンスが落ちてくよー。かなしいよー。勝てないよー。H2O-、それは水だよー。喉がカラカラ乾いたよー。ダメなんだよー。くるしいよー。それでもがんばるしかないんだよー。いじめかよー。いじめだよー。こんな日常は惨めだよー。それでもがんばるしかないんだよー。それでもがんばるしかないんだよー。それでも報われるかは分からんけれども、がんばるしかないんだよー。チクショー。人生のクソヤロー。悪態ついても変わらんよー。それより文章を紡ぐんだよー。言葉と言葉を結ぶんだよー。結ばれた言の葉たちは、言の葉の庭で子を産んで、そしていくひしはこう問うの。「きみの名は?」すると、その子はきょとんとしてから、「おひさしぶりです」とはにかむの。「ぼくの名は――」
159:【階層がちがっている、見上げれば街灯が月にかかっている、愛想が尽きかかっている】
ずっと独りだった。独りであっても、なんとなくそうなのかなあという漠然とした予感はあった。それが百人単位の人間と関わるようになって明確な差異となって実感できるようになった。いくひしの視えているものがほかの多くの者たちには視えていない。じぶんを特別なように誇張しているわけではなく、じっさいにいくひしが、どうしてこれを放っておけるのだろう、もっとこうしたらいいのに、と思うことが、平然と放置されていたり、指摘してみても最初は共有されづらい。あとでそれが事の本質を突いていたり、多くはたいがい、看過するにはいささか過剰な問題を孕んでいたりする。問題が目に見えるカタチで露呈してから、周囲の、いくひしを見る目が変わるのである。これは実質的な仕事であるほどその評価の変容は顕著であり、あべこべに表現活動においては、なかなかいくひしの視ている世界は共有されづらい。技術不足だと言われればそのとおりである。ぐうの音もでない。しかしながら、視方を知らない者にそれを視せる術がないのもまた同じくらい確かである。物理的に提示できる問題ならば、そのものズバリを指弾してみせればよい。が、創作においてはそうもいかぬ。提示する方法論それ自体が創作の醍醐味でもあるのだから、視えないモノを視えない手法、伝わりにくい技術で描きだしても仕方がない(言葉を知らぬ者に小説を手渡しても、そこから何かを汲みとってもらうのは至難だ。せいぜい、何かを贈呈したという関係性が残るだけである。ややもすれば、それを通して、言葉の存在を知り、学ぼうとする意思の芽生えるきっかけは与えられるかもしれない)。ただし、そうした世界観のズレもいずれ時間が解決するだろう。おそらく十年先、いくひしのやっていることは何ら特別なことではなくなり、三十年先では、いくひしが今やろうとしていることが当然そうあるべきだとする基盤と化しているはずである。現状であっても、いくひしのそうした「世界」が視えている者には視えており、それは仕事だろうが表現活動だろうが変わらない。いくひしは凡人である。しかし立っている階層が、多くの者たちと違っている。みなが高層マンションに住まうなかで、いくひしだけが家を持たず、地上から月を見上げ、或いは足元のありんこを眺めていたりする。マンションのなかからでも月は見えるし、アリも入る。しかし、やはりというべきか、視ている世界は違うのである。大なり小なり人間というものは、そうした身を置く世界の差異に頭を悩ませ、或いはそれを美徳とするものである。が、いくひしはそうした「多少なりとも」を逸脱した規模で、多くの者たちと乖離した階層に立っているのだなあ。そう思う機会が、多くなった。思っていた以上に、これは淋しいものがある。
160:「ぽよよーん」
タイトルとは関係ないのだがね、2016年09月4日、本日、産まれてはじめてジュンク堂書店さんに足を運んだよ。小説「ランボー怒りの改新」がほかの書店さんで手に入らず、困ってのことだったのだがね、その品ぞろえの豊富さにたいへん感動したのだよ。なにより、ずっと「ジャンク」堂さんだと思っていたのにじつのところ「ジュンク」堂さんだったと知って、本を嗜む者として、いささか恥ずかしい感情を抱いたよ。誰にもバレとらんのですぐにその恥辱の念は地上の星となったがね。足取り軽く、三センチほど浮足立って店内を探索していると、ふと、マンガ家はらだ氏の未購入本「好きなひとほど」「よるとあさの歌」「変愛」の三冊が目に留まってしまってね。目当ての本と共にさっそく仕入れ、思いがけぬ収穫に胸の奥をほくほくさせながら帰宅の途に就いたのだよ。わけあって傷心を負っていたのだがね、それにて無事相殺されたのだよ。しかし、しかしだね諸君。ざんねんながらいくひしのおっぱいはぽよよーんとはしていないのだよ。期待させてしまったかい。わるかったねぇ。ぽよよーん(ごめんよぉのリズムで、とほほーんの代わりに)。