だれに乞われなくても独りでぶつくさ言うのだけれども、詩を書く上で心がけているのは、風景を提示するということです。少なくとも、『憧憬』に収録される詩はそう。
これはひとつには、文章表現について悩んでいた時期が10年と少し以前にありまして、そこで一人のフォークシンガーの作品に触れたことと無縁ではないのですね。
友部正人。
彼はお構いなしに個別的な状況を詩に交ぜ混んでいく。公約数まで落とさないで個別の数のまま自分を歌う。
『また見つけたよ』や『誰も僕の絵を描けないだろう』といったアルバムを聴いていると、彼の旅(放浪と言った方がいいかもしれない)が目に浮かぶ。
彼の歌には今しかなくて、「なってしまうことですべてはじま」る。歌い出すとき、歌詞が現在として聴く者にやって来る。しかもそこには歌っている現在もあり、メロディに反抗する声の現在があり、ギターの現在があり、笑いや吃り(これが一番驚いた)といったノイズの現在もあって、それぞれに走っている。
ああ、これはべつの話だ。
つまるところ、私は感情移入音痴で、風景を教えてくれるもののほうに惹かれるんだと。まあ例外も多くあるけど。
あとは同じ時期書こうとしていたのは、五感で知覚できるものだけで読む人に、自分がそのとき感じたのと同じ感情を喚起する文章だったのですね。
これなんかは、高村光太郎の「レモン哀歌」や「山麓の二人」が成功している例として私にはあります。
とまあつらつら書いたのは、風景が見えない(たぶんそれは、読者がぶち当たっている境遇が風景なのでしょう、なので私には見えないのですね)詩を読んでも、感想が出てこない。ふわふわと、油のように水面を漂う不定形としてだけ見えるのです。ふさわしい境遇に落ちたときに、ようやく読めるようになるのだろうと思う。
なんのこっちゃで長々書いとりますが、私は私で風景を書いていくのでした、という話でした。なんのこっちゃかわけわかめ。