新たな試みではなく、『永い屁』はモノログとモノログ的ダイアログの二物衝撃、シュールレアリズム的うねりを期待することと、小説が、どこから読み始めてもよく、どこで読みおわってもよい、筋を二の次とした「曼荼羅」の共時性をもたねばならないのではないかと、思い、自由律の、一文一文の窓を持つノマドのようなあり方は、小説にふさわしいのではないかと思ったことによる。
つまり、六文風鈴側の「 」として採用すべき文体を模索しているわけである。
まったくの付け焼刃だ。
10月までに間に合うともおもえないが、とりあえず締め切り日は変更せずにおく。
私は、読んだことのない小説に似た話を書きたい。