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永い屁は止まらない

あきらめていません。
だってまだ、書き始めてもいないのですから。
『目眩まし』という小説を借りて読んでいましたが、「やってるなぁ~」「こんなのアリか」と思いつつ、いとうせいこうさんだって「ワールドエンドガーデン」で同じようなことやっていたし、新出既出を名乗る以上はとうぜん、織り込み済みでなけりゃならない。
ドナルドキーンさんは『日本の文学』で、シーンの細やかな美しさの集積得意とする日本文学は、構成を不得手とする、と端的に指摘なさっていて、だから私もアフォリズムがすきだし『晩年』が好きだし『或る阿呆の一生』がすきなのだなと思いましたし、とにかく『断片の集積』というノートがわたしの創作活動の第一歩だったコクヨキャンパスノート青い表紙にシャープペンシルで控えめに、でも二度も三度もなぞって書いた『断片の集積』は中学二年生の時点で完全に、わたしというものを把握しきっていたのだと、感心してしまいました。
 しかし、『永い屁』は、断片の集積ですませるわけにはいかないのでした。なぜなら、それは断片ではあっても集積ではないからです。集積は不可能な、いわば次元のことなるよしなしごとを、「ナラティブ」の手法で連綿と記そうというものだからです。
 つまりわたしはこれで、中学二年生当時の自分を超えようとしていたのでした。

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