今回より #アウトロメモ とタイトルした。これは、twitterのハッシュタグに連動しており、思いついたことをそこいらじゅうに書き散らす癖のある私が、思いつきを一元化して閲覧するのに都合がよかった。
さて、文体だ。
縁あってジャック・デリダを読み進めるうち、そこからリュックナシーを抜書きしていると、とうとう、といったもったいぶった、サウンドトラックならば「メインテーマ」と表題される楽曲の響き(それは重低音だ)とともに彼方から現れる「謎の男トマ」であった。なんと、モーリズ・ブランショが、あちらからやってきた。とうてい歯が立たない。だがおもしろい。おもしろそうだ。論文をいくつか、別冊宝島「このブランショがすごい」的な便覧チックに斜め読みした結果、おもしろいことが判明しているので、「買うべし」とアマゾンなり出版社なり古本市場を詮索してみたが、どうにも「品切れ重版予定なし」であり、「中古程度よし4000円くらい」がもっとも好みにはあうのだが、少し待つ。なぜ待つのか?
小説は、必ず先行する「モデル」を持ち、新しい小説とは「モデル」との誤差においてのみ書かれる意義を見出す。誤差はおおむね時差によって起こる、いわば早い者勝ちルールで、これは覆すことはできない絶対的経時性があればこそ、誤差が生じ、結果てきに新しい小説らしきものが書かれる、と図式化できる。小説らしき、とは何か。先行するモデルに先行するモデルがあり、先行をさかのぼっていくと行き着くのはやはり「今の現実」というところに落ち着くところから、小説とは常に「今」であったかもしれなかった不完全な「今」に落ち着くよりほかなく、そこに落ち着くことができたのなら、小説冥利につきるというものと考えるよりほかない、絶望的かつ悲劇的様相を呈している。
それでも書くのか? 書く。なぜなら、人は「モデル」によって「モデル」を知覚し、知覚した「モデル」を、その「モデル」によって構成改変し続ける「モデル」との誤差を計測することで「我」を発生させつつ、複数の「我」を発生させつつ、上位の「我」と下位の「我」を、経時的序列において、運動会の徒競走でもたされた旗(それは自然数によってのみ構成された数列の加算無限)を手にしっかりと縛り付けられて棒立ちしているだけのわれわれにできる、反抗であるからだ。