薄暗い森や低地地帯を歩く農民や旅人たちは、遠くで何かが動く気配を感じると、すぐに互いに目配せを交わし、槍やこん棒を手に取りながら、低い声で囁き合う。
「……骨食み猿かもしれん。下の子や赤ん坊から目を離すなよ」
その言葉に少年少女たちは頷いて、小さな子らを背後にそっと隠し、ナイフを握りしめる。周囲の音に耳を澄ませ、風に混じるかすかな唸り声や、茂みを揺らす影に敏感に気を張り巡らせるのだ。
だが、防備が薄い小さな集落や廃墟に隠れ潜む家族などは、武装した人々とは別の対処法を選ばざるを得ない。
古い市街の一角、すっかり錆びついたバリケードに囲まれた居留地には、碌な防壁も無いまま、テントや掘っ建て小屋が寄り集まるようにして並んでいた。日が沈み、薄暗い空の下で、集落の外れのテントから漏れるわずかな灯りが風に揺れている。外には砂埃にまみれた布きれが、か細い物干し紐に翻っていた。
テントの中では、父親が何度も天井近くの補強された縄を見上げていた。縄には、簡素な罠と、所々に錆が浮いた刃物が吊り下げられている。
「これで十分だと思うか?」父親は低い声で問いかけるが、返事はない。妻は幼子を抱え、テントの隅にうずくまっている。
「……骨喰み猿は、脳を狙うって言うじゃない。寝てる間に襲われたらどうする?」囁きには、焦りと恐怖が滲んでいた。幼子が不安げに母親の胸元に顔を埋める。
父親は言葉を返さず、代わりに布きれでランタンを覆った。漏れ出る灯りを最小限にするためだ。居留地の暮らしでは些細な選択が命取りになることもあれば、救いになることもあった。
「聞いたか?」
父親は耳をそばだてる。わずかな物音にも、神経を尖らせていた。外から聞こえるのは、居留地の片隅で燃え続けるかがり火のパチパチとした音だけだ――いや、違う。火の音に混じって、何か柔らかい布を引っ掻くような音が聞こえた。テントの近くにいる。
「……来たのか?」父親は、手元の棒切れをきつく握りしめた。何度も削り直した先端には、粗雑ながら釘が幾つか仕込まれている。その棒を持ったところで、果たして何ができるのか――父親自身も答えを出せずにいた。
骨喰み猿が現れるとき、最初に感じるのは気配だと言われている。無音の足音、夜陰に潜む影。だが、次の瞬間には奴らはすでに頭上を越えている。脳を抉られ、命を奪われた人々の遺体を想像し、父親は唾を飲み込んだ。
「あなた……!」妻が掠れた声で囁く。子供が不安げに身じろぎすると、外の気配が一瞬、静止したかのように感じられた。家族は息を潜め、祈るような思いでその場に留まった。
テントの外で何かが動いた。それはわずかに揺れる布の隙間から、踊るような邪悪な黒い影として覗いたが、一瞬の後、また風がその影をさらっていった。父親は息を吐いたが、安心には程遠い。暗い夜は始まったばかりだ。夜明けまでは、重苦しい時間が続くだろう。
※※
曠野に蔓延る変異獣《ミュータント》は、別に四足獣型だけとは限らない。低い壁くらい難なく昇ってくる器用な人擬きもいる。中でも危険な種のひとつが、骨食み猿。赤みを帯びた白い肌の人型変異獣で、人の子を。特にその脳みそを好んで食してくる習性から、子連れの旅人や郊外に暮らす農民に忌み嫌われている。
器用かつ俊敏。壁をものともせずに乗り越えてくる。わずかな音や動きでさえも敏感に察知し、鋭い牙と爪で人を襲う危険な人擬きだった。鹵獲した人間の武装や簡単な道具を使いこなす姿から、狩人やストーカーには、退化した人類の末裔だと示唆する者たちもいた。
力はてんで大したことが無く、棍棒を持った成人なら余裕で撃退できる。相手が一匹や、二匹であるならば。
骨食み猿たちは、普段は小規模な集団で行動し、数匹から十数匹程度の群れを形成している。特に標的にされるのは無防備な老人や子供、或いは酔っぱらった農夫などだが、時に非常に大きな群れを組んで人の住居を襲撃することもある。その際の凶暴さと執拗さは尋常ではなく、稀には小さな集落全体を標的とし、守りの隙間を見つけては狡猾に忍び寄り、一気に攻めかかる事すらあった。
骨喰み猿たちは鋭い感覚を活かし、夜間などの見張りが薄くなった時間帯を狙って、静かに囲いを超え、身を低くして獲物に近づく。わずかな隙間さえあれば潜り込み、守りの手薄な住居や家畜小屋などにも平然と入り込む。いったん襲撃が始まると、骨食み猿たちは小さな群れに分かれて集落全体に散らばり、それぞれが異なる場所を襲撃し始める。集落の住人たちは個別に対処を強いられ、誰もが自分の身を守ることで手一杯となり、次第に連携が取れなくなっていく。
こうして一度に襲いかかる骨食み猿たちの"人海戦術"とも言える攻撃により、住人たちは各々が孤立して追い詰められていく。孤立した集落は、猿たちの容赦ない襲撃の前に耐えきれず、数時間のうちに力尽きることが少なくない。襲撃後、人海戦術に沈んだ集落には、荒らされた住居と散乱する物品だけが残され、猿たちは再び静かに闇に消えていくのである。