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 概略である。

   「とある黒人の女優は、以前にオーディションで「黒人だから」という理由で演技を見せる機会も与えられずに落とされたと言う。その悔しさをバネに努力し、そしてそれが認められ、今では当初白人女性を起用する想定であったのにも拘わらず、オーディションで役を勝ち取った。」

 おそらくこれは美談だろう。出自に捉われず能力によって功績を与えられ、逆境を跳ね返したのだ。但し、この美談を美談たらしめているのは一つの悪だ。悪と見做されているものだ。ここでの悪は、以前に彼女を「黒人だから」という理由で落選の裁定を下した人物になる。またはそのような偏見を生んだ社会、歴史そのものだ。しかし、僕にはこれが本当に悪なのか分からない。悪なのであれば、どのような悪なのだろう。どの程度の悪なのだろう。不勉強で経験の浅い僕には分からない。だから、「おそらく」「だろう」も要らない。これは美談だ。と高らかに宣言できないでいる。

 だから皆さまに聞きたい。一緒に考えて欲しい。これは一体どのような悪なのか。

 議論のためにラベリングをする。ケースAとして「映画のオーディションにおいて、白人の募集枠に黒人がエントリーすると、黒人であるからという理由で落選させられる」を設定する。僕は今からこのケースAに似て非なるケースをいくつか明示してみたいと思う。

 まずはケースBだ。コンビニエンスストアでバイトの募集に定員1名のところ二人の募集があった。ひとりは白人、ひとりは黒人。二人に対して面接を行い、店長の判断としては、コンビニで働く分には彼ら二人に差はない。どちらも全く同じ能力を有し、全く同じ条件でシフトに入れる。どちらも共に人柄がよく、好感が持てる。そこで店長は白人を雇うことにした。理由は彼の持つ偏見からだった――「白人よりも黒人の方が犯罪率が高い。という偏見を世間は持っているに違いない」という偏見だ――。であれば、店長にとって黒人を雇うことはリスクになる。なぜなら黒人がレジに立つことで、「白人よりも黒人の方が犯罪率が高い」という偏見を持つ客は足を遠のけるだろうからだ。

 僕にはこのケースBの方が、ケースAよりも許されない行いに思える。ケースA,Bの違いは提供する財・サービスの違いだ。ケースBで提供されるサービスは接客や品出しであり、そこに人種の差が影響しないことはよく知っている。日本のコンビニでは様々な人種の方がレジに立っているが、そのことによって問題が生じることはない。ケースBにおいて、白人が黒人に対して優遇されたのは偏見に起因するもの以外なにもない。
 一方、映画はどうだろう。極端な例を挙げれば、親を演じる役者が日本人であるのに、子供をイギリス人が演じた場合、脚本が一切変わらなくとも話は大きく変わって受け取られる筈だ。もう少し緩和された例では、ラブロマンスの一方を日本人が演じ、他方をイタリア人が演じた場合、二人して日本人であった場合と受け取るニュアンスは異なると思う。映画は観客に与える心理作用を提供するサービスだ。役者の人種によって与えるニュアンスが変わるのであれば、人種という項目もまた採用のためのパラメーターとして働くことに無理はないと考える。

 また話をケースBに戻す。ケースBにおいて店長が黒人を雇ったとしよう。その先に考えられる展開のひとつとして、客足が遠のくことが考えられる。その為に店長は得られる筈であった利益を失うことになる。
 しかし、もしかしたら数か月もしない内に地域住民もその店で黒人が働いていることに慣れ、店に帰ってくるかもしれない。このことは地域住民の「白人よりも黒人の方が犯罪率が高い。だから黒人に近づくのは危ない」という偏見を和らげたことを示す。偏見が軽減されるのはとてもいいことだと思う。であれば、店長は客足が戻って来るまでの数か月間売り上げを下げたことになるが、それは偏見の軽減へ貢献する為に必要だったコストである、という見方も出来る。僕はそのようなコストであれば払って然るべきである様に思えるし、そのコストは道徳的善への貢献として誇らしい様にも思える。
 だが、悲惨な展開も考えられる。店長が黒人を雇うと、それを良く思わない一部の人間が店にいやがらせをし、そのいやがらせの為に店は信用を失い、倒産に追い込まれる。この展開では、店長が店を失う、というコストを払ったにも拘わらず、黒人の偏見は一部も軽減されていない。むしろ黒人に関わったばっかりに不幸になった店長の存在は、偏見を強化するだろう。僕は店長に対し、このようなコストを払うべしとはとても言えない。

 では、この点についてもケースAを見てみよう。制作が白人を念頭につくられた役に黒人を選出したとしよう。オーディションにはより相応しいと制作が考える白人の役者も居たが様々な観点から黒人の方を選んだ。つまり、制作は最高の形で撮影をスタートすることは出来ず、また出来上がった映像も制作の意図から見れば最高のものではなくなった。役者を白人から黒人に変えたことで微妙に映像の与えるニュアンスが変化し、その為に制作としてはやや劣化したものに成った。これは制作の支払ったコストだ。同時に観客の支払うコストかもしれない。制作が思う最高の出来に仕上がらなかった映画は観客が本来得られる最高の映像体験に劣るものになった可能性がある。
 但し、そのような映画、つまり白人や黒人の垣根なくキャスティングされた映画が数多見られるようになることによって観客は慣れていき、黒人への偏見が軽減されるかもしれない。それはとても喜ばしいことだ。であれば、一時的で限定的な映画体験の減衰は支払う価値のあるコストに思える。

 しかし、本当にそうだろうか。映画に限らず創作物の中に偏見は多く出現し、作品に色を与えている。分かり易い例として、ひとりの老婆がいる。髪はすべて白髪で、腰は大きく曲がり、黒いローブで全身をすっぽり覆っている。手には無骨な木の杖を持ち、鼻は大きく突き出した鉤鼻だ。おまけに「ケーヒッヒッ」と笑う。どうだろう。魔女に見えないか。しかし、これは偏見だ。彼女は少し変わった笑い方をする独特な感性を持った老女でしかない。まだ、魔法を使ったところは見せていない。そしてこうした偏見が存在するから「逆張り」も存在する。一見、魔女のような彼女が実は温厚で痴呆の気のあるにこやかな老婦人だと分かれば、そのギャップが花開く。創作物の中に表れる偏見は多岐にわたり、それはそのまま文化の重要なひとつの側面だと思う。
 だとしても、人が傷つく偏見・差別は根絶されるべきだ。そうした偏見が冒頭で示した美談を生むとしても、エンタメの土壌の為に存在を肯定されることはない。僕が言いたいのはそういうことではない。
 偏見と創作物強く結びついているということだ。
 この強い結びつきを見た上で、制作の考える最高の映像体験を代償として黒人役者を起用することは見合うコストなのか、判断しなければならない。最高の映像体験は快楽であり、黒人差別は暴力である。快楽と暴力を天秤にかけるのであれば、当然暴力撲滅のために快楽を犠牲にすべきだ、という正論はまかり通る。しかし、最高の映像体験はあくまで快楽でしかないのだろうか。白人に向けられた役を黒人に割り当てることによって減るものは、単なる快楽だろうか。僕はそうは思わない。制作が最高の映像体験を目指し奮闘することは文化創出のひとつのフロンティアだと思う。だから、この最前線に制限を加えることには慎重にならなければならない気がする。

 この点に対して一つの反論が想定できる。「白人を黒人に変えることで、最高の映像体験が損なわれる。そのように考えること自体が偏見に満ちており、認められることにも尊重されることにも、検討の余地に入れられることにも値しない意見だ」というものだ。だが、これは暴論だと思う。これは偏見を否定するだけでなく、偏見を持つ個人もまた否定し拒絶している。そうした論説はもはや差別的であり、偏見と同様悪しきものの見方だと思う。罪を憎んで人を憎まず。ではないが、偏見・差別は憎むべきであるが、偏見を抱く個人は周りの環境・社会によって偏見を抱くに至った訳であって、個人に落ち度はない。

 また異なるケースを見てみよう。このケースCはケースB以上にケースAに近く、ある意味でケースAを極端に延長させた問題だと思う。ケースAと同じく映画のオーディションにおいて、制作の想定としては白人の女性の役者を起用しようと考えている。そこに生物学的には男であるが、心神は女である者がエントリーしたらどうだろう。「あなたは男性ですから」と演技を見る事なく落選させることは、冒頭の美談と同じく悪だろうか。僕は直観的には、それを悪だとは思わない。それは流石に仕方ない。諦めてよ、と思ってしまう。
 ここで問題となるのは先ほどまでとは異なり、偏見ではなく、「出自に制限されることなく、能力のみで判断されるべきである」というメリトクラシー(能力主義)の主張がこの状況でも適応されるべきか、ということだ。ケースAではメリトクラシーの主張が適応されるべきである、と考えるため、黒人の女性が努力と才能によって白人女性に向けられた役を勝ち取ったことが美談となった。
 ケースAとケースCの違いは何か。それは映像の与えるニュアンスの変化の程度だろう。ケースA「白人女性⇔黒人女性」、ケースC「女性⇔肉体は男、心は女である人」。ケースCの方がニュアンスの変化の程度は大きいように思う。ケースAの方がニュアンスの落差が小さい為に、黒人女性がエントリーするのは良く、むしろオーディションを受けさせないのは悪に見える。ケースCはニュアンスの落差が大きいため、エントリーは控える方が好ましく、オーディションを受けさせないことは致し方ない処置に思える。
 しかし、これはアイデンティティに対し序列を作ることにならないだろうか。黒人女性というアイデンティティは、性同一性障害*というアイデンティティに優遇されることを意味しないだろうか、と不安になる。そしてこれはもうひとつの序列を浮かび上がらせてしまう。「白人女性>黒人女性>性同一性障害」とアイデンティティの頂上に白人女性が来てしまっていないだろうか。

 ケースAでは黒人女性が奮闘し役を勝ち取ったことは美談となった。では、仮にケースCにおいて性同一性障害の方が奮闘し役を勝ち取ったのならば、それはケースA以上の美談となるのだろう。この場合の奮闘とは何だろうか。生物学的には男性である肉体に化粧を施し、場合によっては美容手術をし、女装することだろうか。そうして「女性⇔肉体は男、心は女である人」の落差を小さくし、バックグラウンドを知らない観客にとってニュアンスの変化が及ばない域にまで達することだろうか。
 ケースCにおけるこうした奮闘を要求することは、ケースAにおいて黒人女性に対し、「肌を白く塗り、縮毛矯正をさせ白人然とした仕草」を求めることに類似するように思えた。もし、制作が黒人女性にこのようなことを要求すれば、それは黒人に対する明確な侮辱に当たるだろう。では、「肉体は男、心は女である人」に女性らしい容姿を要求することは侮辱に当たるのか。これには個人差がある、としか答えられそうにない。

 そもそもマイノリティが排斥されている現状を悪と見做すのであるから、マイノリティに対し奮闘を要求することもまた悪であるように思う。

 話したかったことの半分ほどしか話せていない気がする。しかし、書いていて迷子になりつつあり、そろそろ眠る準備に入りたいので、ここで一つまとめておこう。書きさびれたことがまた明確になったら書き足すことにする。
 僕は先ほど、マイノリティに配慮した創作は、ある種の制限になり、それは文化の制限にもなる為、慎重に考える必要がある、と書いた。
 しかし、何時の時代も表現に制限はあったと思う。いつだったか、西欧において彫刻や絵画で裸婦を表現が禁止された時代、表現者は薄く柔らかいベールや風などで女性の肉体に表れる曲線美を表現しており、それは今では芸術技法として高く評価されている。これは一例に過ぎないだろう。表現者は制限や時代に対する葛藤から独自の新たな表現を創出して来た筈だ。
 であれば、今の時代、「マイノリティへの配慮」「差別・悪しき偏見の根絶」という大義に制限された、ポリティカル・コレクトにがんじがらめの表現空間の中で、新しき革新的な表現を見出して欲しい。この時代に抗い、そして適応して欲しい。曰く、「適応こそが独創的」なのである。


 ここまでお読みいただき大変ありがとうございました。
 できれば、読んで感じたことやご意見などをコメント下さいませんでしょうか。
 コメントなさる場合、ここは公的言説の場であることをご留意の上コメントください。
 よろしくお願いいたします。



<* 性同一性障害……ほかに適切な表現の仕方があれば教えてください。あまりこの表現の仕方は好きではないのですが、他に適当な表現が分からないです。

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