自覚はないけど、同世代のひとを見てみると、ぼくほどテレビを見ているひとはいない。テレビだって最近の若い子はテレビなんか見ないと言っている。だからぼくはテレビっ子なのだろう。
ニュースはもっぱらテレビで知る。より細かいところまで知りたくなれば、日経電子版を見ている。ネットニュースは嫌いだ。だからぼくはテレビっ子なのだろう。
いまのニュースはもっぱらウクライナ戦争で支配的だ。コロナの影はうすくなった。きのうの夜も5チャンでウクライナ戦争についての緊急生特番が二時間放送されていた。見た。
さいきん地震があったことも関係しているのかな。3.11のことを思い出した。三月だからテレビは東日本大震災やフクシマのことを取り上げる機会も多い。ウクライナ、チェルノブイリとフクシマを繋げて語られる機会もあった。だからぼくは3.11を思い出していた。
3.11の起きた頃のテレビを思い出していた。CMはどれもJCだった。番組までは覚えていないけど、たぶん華やかなものは少なかったんじゃないかな。「自粛」を知ったのはコロナではなく3.11だった。ぼくより一回り下は、そうか「自粛」をコロナで知っているのか。少し驚きだ。
津波、原発、フクシマと戦争、ウクライナは同じではない。分かっている。でも何だろう。似ている気がする。似ていない気がする。似ていると捉えるべきな気もする。似ていないと割り切るぼくがいる。確かなことがある。どちらも悲劇だ。悲劇で、フクシマ、東北はぼくたちに近くて、ウクライナは遠い。距離も歴史も生活も。いまの日本に自粛雰囲気はない。
ニュースを出ればテレビのどこにもウクライナはない。ニュースの中にもウクライナとウクライナの間に楽し気なCMが挟まれる。緊張の面持ちで不安と願いを語ったアナウンサーは「続いては」と笑顔でカメラを見る。東京で桜が咲くらしいよ。
わからない。
わからない。
わからない。ったら、わからない。
わかるべきこと、感じるべきこと。
わかっていること。感じていること。
その間に何がある。
知らないこと。知らないと分かっていること。は違うって。
みんなが教えてくれる。だよね。知ってる。って答えられる。
自粛すべし。って誰かは言うのかな。聴こえないのか。聞かないのか。
自粛はいやだな。だからぼくはテレビっ子なのだろう。
でも、自粛になって観たいテレビが居なくなったとき
その恨みを彼の人に向けることはできるかな。
自粛すべし。って唱えた人に向けてしまいそうで。