長いお別れ。
現在日本に住んでいる私はと言えば、至極平和に生きています。
私はまだあまり長い年月を生きておりませんので、嬉しいことに死は遠いものです。昨年、初めて曾祖母が老衰のため、この世を去りました。
その前に長くお別れを感じたのは祖母の家の犬が亡くなった時でした。
彼もまた長生きで、死因は老衰でした。
長いお別れとは、何とも不思議な感覚であるものです。私の心なのか脳みその中になのか、故人(故犬)は生きているのに、もう二度と会えないのです。
私の宝物って、なんですか?と自分に問い合わせますと、それは飼い犬のYくんです、と答えが返ってきます。彼は現在12歳。祖母の家の犬は17歳で亡くなりました。
ここ数年、特に彼は年を取りました。私は彼との別れを予見するようになりました。そのたび、精神がおかしくなってしまいそうな恐怖と、絶望が襲ってきます。おそらく、彼がこの世からいなくなる時、私も居なくなります。
そんなこと彼も望まないだとか、前を向いて生きるだとか、そういう御託は聞けません。私の人生において私より寿命の短いものが一番大事になってしまっただけなのです。
愛玩動物の寿命も少しづつ伸びているようですね。人間も含め、野生に生きていたころは1年、1日を生きるのが勝負であったでしょう。
私の住む北の大地には、野生動物がたくさんいます。
人間以外の動物に死への恐怖はないと言われていますが、彼らは厳しい環境下の中の死生観に常にさらされています。彼らは斯くも容易く死にます。そしてその死は絶望的で、痛みに晒されて、生きたまま殺されていきます。
人も、人に飼われ愛される動物も、老衰で死ねるこの時代を尊ぶべきか、あまりにも死から遠ざけられた人間の暮らしに、嫌気がさすか私にはわかりません。分からないと思う事これすなわちすべての始まり、私は浅いようで深く深く考えます。どちらかをそんな考えはありえない、そう思った時すでに思考は止まり思考の停止は苦しく痛い、死んでいることと同義、知りたいもっと知りたい世界の事私の事自分で見つけ考えられることを。誰かに与えられて知って感じたことなどなんの価値もないそれでは私は縛れない。
私の死生観はあまりにも幼い。だからこそ、戦争をテーマにした小説を書いています。世界史を専攻にしたかった学生時代、幾度も幾度も何千年も前から人と人は殺しあってきました。戦で人が死ななかったのはフランス革命バスティーユ牢獄の開放、日本の江戸城無血開城、私はその二つしか認識していません。
あえて望んでいなくても、戦争は起こる。
死ぬことは、何なのか、生きることは、何なのか、突き詰めて考えて行く狂ってしまいそうなこの時間がたまらなく好きです。私がこの小説を書く限り、私の死生観についての考えは終わりません。どうかお付き合いくださる方がいますことを祈りまして、長文の結びと致します。