「ああ……」
お義父さんは無残に踏まれた絵を手に持ち、呆然と立ちすくんでいた。
肩を落とし、切なさをいっぱい背負った背中が、夕暮れのオレンジ色に照らされている。
そんなお義父さんになんと声をかけていいものか……
「お、お父さん、どんまい!」
つむぎさんが唐突に声をかける。
が、火垂さんはうつむいたままだ。
「お、お義父さん、どんまい!」
僕も一応声をかけてみる。
それでもお義父さんはまだ悲しみを背中に背負ったままだ。
「いいんだよ、慰めてくれなくても……余計にみじめになるじゃないか……どうせ私の絵なんてへたくそなのさ、ハハ分かっていたのに」
お義父さんは絞り出すようにそういうと、クルリと背中を向けて目元をごしごしとぬぐっている。
ああ、なんかすごくかわいそうなことをした気になってくる。
対抗意識なんて燃やさずに、ただただ褒めてあげていれば良かったのかも。
「そんなことないわよっ!」
バンと扉を開け放っておよねさんが戻ってきた。
うん。僕の家なんだからノックとか呼び鈴くらいあってもよさそうだけど、そんなことを言わせない迫力があった。
「え?」
お義父さんがそっとおよねさんにふりかえる。
「たしかに上手じゃないわ」
(けっこうはっきり言うな)
「それに技術もまだまだ」
(さりげなく追撃の手をゆるめないな)
「でもその絵にはあなたの気持ちが込められているはずっ!」
(ちょっと良いこと言ってきたな)
「その絵に込められた気持ちこそが大事なんじゃなくて?」
(お義父さん、感動して泣き出しちゃったよ)
「およねさん、でしたね。あなたの言葉で私は再び絵筆をとることができそうです。そうでした。この絵を描いているとき、私は娘とアキラ君の幸せを願い、それを感じながら描いていたのです。いつの間にか芸術という言葉にとらわれて、絵そのものにある大事な本質を見失っていたみたいです……」
「そう、そうよ! お父さん、ヘタウマだけど、これはたぶんすごくいい絵だわ!」
(つむぎさん、微妙にフォローになってないよ)
それからお義父さんは僕にもチラッと視線を寄越してくる。
なにか褒めてくれ、という無言の圧力を感じる。
「その、なんて言っていいか、僕もまた大事なことに気づいた気がしなくもなくもないです」
(いや、ちょっと遠回し過ぎて意味不明だなコレ)
だがその言葉はお義父さんを励ましたようだ。
ササッと涙を拭きとり、最後にはにっこりと笑った。
「ありがとう、芸術家たるもの、自分の理想を追求するのがなにより大事なことだよな」
「ところでアキラさん、あなたの絵、この絵と交換してくれないかしら?」
そういっておよねさんはA4サイズほどの一枚のカンバスを机に置いた。
そこに描かれていたのはおかっぱ頭に丸メガネの人物と彼にじゃれつく猫だった。
確かにボクの描いた絵と似ているがこれは全くの別物だった。
まぎれもないプロの芸術家による、まっとうな絵画だった。
「ええっ? コレっ! まさか!」
驚きのあまり声が出てしまう。
「あきらさん、有名な絵なの?」
つむぎさんの問いに答えたのはおよねさんだ。
「そうらしいんだけど、あたしもよく知らないの。レオナルド熊だったかしら? なんかそんな名前の人よ。あたしも昔は羽振りがよくてね、ネコちゃん描いた絵を片っ端から集めてたのよ、ホホホ」
(いやいやいや、違うって! 熊じゃないって、藤田、レオナール藤田だって!)
「ところで、この絵と交換じゃだめかしら?」
いやもう、言葉が出ない。
ダメに決まってる。いったいいくらの値が付くのか想像もつかない!
そりゃ貧乏だけど、これはまずいって!
な の に
「ふむ。アキラ君の描いた絵ほどではないが、これもまたなかなかよさそうじゃないか、交換してあげなさい、アキラ君」
ハ、ハハ。たぶんお義父さん、この絵の価値気づいていない!
それでよく芸術家を名乗ってるな! と首を絞めたくなるけど、僕はいまだ驚きで声が出せないでいた。
「どうかしら、つむぎさん? あたしこの絵がとっても気に入っちゃったのよ」
「そういうことでしたら、ね、アキラさん」
つむぎさんにジッと見つめられてはうなずくことしかできなかった。
「これで商談成立ね! この絵どこに飾ろうかしら!」
およねさんは実に嬉しそうに僕の描いた絵を抱きしめた。
もちろん絵具がつかないように、ではあるけど。
「マダムおよね、よかったら私の絵も付けますよ、私の気持ちのこもったこの絵をね」
「ああ、そっちはいいの」
最後にお義父さんが恭しく付け足したが、およねさんはさっさと部屋を後にしていた。
再び夕暮れが、お義父さんの背中をスポットライトのごとく照らす。
僕もつむぎさんも、なんと声をかけていいか分からなかった。
「どんまい、どんまい」
その声は、ちょっと出番がなくなっていた平九郎爺さんだった。