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書いて、考えてみる。

とりあえず五枚書いて、今日も性懲りもなくネットに転がる話題で気になるものを見つけて考えるのである。たいして意味はないのに。
本屋がなくなると何が困るのか。八百屋がなくなるのと何が違うのか。
これ難問ですよね。
紙の本と電子書籍と地方書店と小さい本屋と大書店とネット通販と、あらゆるものがコンタミして的はずれな話になるんですよ。

書店。書店です。なぜ書店がなくなると困るのか。
考えるだけ考えて、でてくるのは、やっぱ選択肢が減るからでしょうね。その点では八百屋と違わないよ! という感じでしょうか。
それをもう一歩進めると、ライフラインが一本化したときの、つまり寡占状態になったときの危険性が凄まじいからでしょうか。そう私はオール電化全力拒否ヒューマノイド。

冗談はともかく、書店が減る→大型書店が消える→ネットだけになる→そいつらの思惑次第でどうにでもなる、のが困るのはありますよね。
そしてここに絡むのが厄介な言葉、神聖化、神格化。
電子書籍も紙の本も変わらない、紙の本を神格化してはいけないという言説に物申さねばならんのは、媒体が違うんだから体験も違うに決まってんだろという話です。
私なんかネットだと読んでられない知り合いの小説とか読めないのが頭にきて紙に印刷したら普通に読めましたからね! そう私は紙の本の重量に魂を引っ張られるオールドタイプ……。

そして本屋で雑に買うことがない人のほうが圧倒的多数だからという話になると、音楽だろうがなんだろうがほぼ全て同じ論理で無くなってよくなるのでディストピア飯まっしぐらです。そうなったら私は赤茶けた『死者の奢り・飼育』の匂いを嗅いでガン=カタに目覚めなくてはなりません。もうたいがい古いネタだな。

で、知の話になると、やはり児童期に本屋で本を選べる感動は特殊な体験かなと思います。やったことない人も多いだろうし、本屋にそんなに本が置いてない地方民も多いかもしれないし。
いきなりネットから入っても同じことができるかというと、媒体が違うから似てることはできても同じことはできないんじゃないかという仮説。もちろん仮説。新世代の受け取り方はやってみないとわかりませんからね。

そして最後は好事家の論理。
ごく個人的な体験で考えてみると、埼玉県は浦和の周辺でみたとき、それなりの大きさの本屋が大宮はジュンク堂、三省堂、ブックファーストがあって、新都心には紀伊国屋があり、アクセスの悪いとこにブックデポがあり、当の浦和にはやや広の紀伊国屋があるのです。それなりに名の知れたデカい本屋である。だが、これらの書店は普段遣いでしか役に立たねぇのである。いやそれで充分なんだけど、それじゃ足りないのだ。
ネットで大型あつかいされる上の書店を巡っても目当ての本が見つからない。困る。取り寄せればいい。最低でも三日はかかるのだ。ネットで買えば一日で届くかも。

おせぇのだ。読みたいから本屋に行ったんであって、たった一日でも遅れたらもう積まれるか最悪は返品モードである。読書熱という欲求は燃料過多の爆発なので燃え上がった瞬間に使い切らないとプラグがかぶって面倒くさいことになるのだ。

そこで私は、須原屋に行く。埼玉県のごく一部でしか知られていないかもしれない、明治九年に開かれた、大型といっていいのかどうか分からない書店である。
あそこは、私を、裏切らない……!

特に二階の、おそらくはすでに何度も代替わりをしているであろうコミック担当は私を絶対に裏切らない。先の大型書店になくてブチ切れ汗だくで微妙にアクセス悪い本店に行くとあるんだ。絶対に。
なんなら下の文庫小説も大体、私を裏切らないのだ。何度も代替わりをしているであろうにも関わらず、十年ぶりに訪れたにもかかわらず、須原屋の書棚が私に言う。
「こちらをお探しですか?」
おひさしぶりですの一言もいらないのだ。
コミック担当のお姉さんかお兄さんかおっちゃんかおばちゃんかジジババかややもするとガキンチョ様がつくった棚がいうのだ。
「どうせこの巻だけ買い忘れてたことを忘れていたんでしょう? ありますよ、もちろん」
なんなんだこいつ。私の読書傾向と購買傾向を完全に把握してやがるのか?
いや違う。
きっとこれこそが書店体験……おそらくは先の大型書店でも、そこを愛用し続けた人のなかに同じような人がいるのだ。
そして私は勝手に書棚から話しかけられているけれど、同じように話しかけられている客がいるのである。たぶん。
そいつは今、まだ絵本を選んでいて、長じては二階やら三階やらに行き、たまにはバカなんじゃないかと言いたくなるゴリゴリの専門書棚に行ったりとかしちゃって、ふいに進路を決められたりするのである。

こう書くと神格化とか神聖化とかに該当しそうですけど、こんなもんどんな分野でもなんかしらあるでしょって話です。仮に自分に経験がなくても人の経験を否定してはならないのである。多様性の時代だし。たまには説教臭いことも書かないと死ぬ。

で、これ多分、大人視点だとラインナップもすくねぇ地方の小型書店じゃってなるけど、大型を知らない子供からすりゃどこも大型なんだよなと思ったりもします。
私がビビった書店といえば、両親の実家は群馬の、呆れるるほど広い数々の平屋の棚だったりするんですよ。
少なくともネットを知ったり中央に出たりするまでは同じ。知ったとしても媒体で(略)なのでやっぱ別物なんじゃなかろうか。

まあ好事家の論理はアトラクション的な意味合いが強いので、本屋がなくなると困る理由にはなりえないんですけどね。でも須原屋は私を裏切らない。あそこならあるかもという謎の信頼感に支えられて何駅も移動して実際に裏切られなかったし、須原屋になかったら諦めるから。


でもとりあえず、本屋は取り寄せもできるとか取り寄せしようみたいなアピールもっとするべき。できること知らない人が多すぎますって、マジで。


明日のラッキー思いつきフレーズ
『あれは肉なしゾンビ! あっちには霊体化ゾンビに乾燥ゾンビ……包帯なしマミーに骨マミーまでいるぞ!』

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