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「護憲制」軍事基地の典礼と「旧君主制」象徴国家の典礼の壊変

ローマ的な法の在り方とヘーゲルが移植されたような近代的主権概念はどちらも民族霊の神々を民衆の祭典の名として祭り上げることでその贈与と収奪の儀礼を皇帝的な服従の金銭的保障の特権性として誇示している。だからといってこの誇示が革命的な憲法に依拠するような個人的卓越性を示しているとか、世論的な観衆の注目を集めるための身振りを宗教的な唯一性の概念に委ねているとかいうことにはならない。しかし日本の場合は民族の集団的移住の礼拝が植民地として占拠した側として語られると同時に歴史的な占領集団のヒエラルキーを「誇示する」構造的な原則としてもあり、それがアメリカの植民の軍事的流動性から国家法の象徴規定を無視して日本に典礼的な「独立のポーズ」を冷戦的な対立として知識人に民主主義の概念として教育したところに矛盾の多重性があるのである。というのもアメリカが唯一のキリスト教概念として日本に貸し付けを金利と貨幣流通の下落として「援助する」とともに、北朝鮮や韓国側にも日本を輸送経路として盗品の資金還流を行い、その犯罪を日本の民族的な戦争犯罪の歴史として押し付ける宗教的な実践が愛と呼ばれる典礼として売春化しているからである。だから顕示的な君主天皇が悪くて、象徴的に密教的な天皇は平和の使者だ、という分裂が古代宗教の規定にそもそも存在していることになるのであって、それは日本の歴史が恒常的な書き換えで自らの勝者の論理を典礼の名目として利用してきた将軍的な論理の残滓として風俗史的な記載の内に残存している。ここで日本側が「幕府的な」テロリズム論理から戦犯を神々のように称えていることと神々が維新的な論理で国家的な鎮圧の比準を行っていることは宗教と国家の近代的分離として占領の民主的結果だ、ということにされているのであって、そこに放射能汚染が神々の論理として回帰してくる国家法的な腐敗と移民管理の杜撰さとして顕示的になっている「人種混合」があるのである。もちろんそれがおかしいから、文化的なゲームの規範はそれを召喚の量子化として典礼の崩壊的なキャラクターを創造することになる。

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