政治的代表制の制度をゲームのルールのように教えることができ、したがってその信任された人物の道徳的評価を定めることが何らかの意味での生活についての制度的言及の適格性に繋がるという主張が疑わしいのは、その不正が道徳的な意味で見逃されてもいいということを説得するためではなく、その個人的責任の追及が金銭操作のゲームのルール次第で裁定可能な法律の機構に縛られている限りにおいての制度的な評価であるからだということ。だからある人間の政治的批判言説が道徳的に望ましいものであり、その主張に金銭的な疑いが関与していないとしても、その主張の正義はあくまで憲法の制度の適格性に依存するような制度の道徳的規範であり、それは占領の従属性に帰属する転向の責任を無視するような意味として機能する。これをそのような批判をする人物が特定の政治的な代表制に依拠していないと言って非難することで、その人物の適格性が法律的なルールに従っていないことを示すような例示とはそれ自体抑圧的な制度の占領の防衛である。ここで法律を破ることがそれ自体望ましいかどうかとか、金銭的な搾取が構造的に腐敗しているとかの言及は、法律的な例示と矛盾するとは限らないし、それを契約的に破棄しようとする態度がゲームのルールの道徳的非難に値するということはかなりありそうなことであると思われる。明らかにゲームのルールをある特定の遊戯目的で教えることと同じように道徳の立法の適格性を教えるということは、禁止の意味を全く異なる文脈で追及することを個人の責任として追及することになる。結局日本の場合、ある政治家の信任はその国民性を代表する人間の立法の個人的信任だということになるのだろうか?私には全くそうであるとは思われない。むしろ生活の合意の犠牲者の役割を演じさせる構造的な腐敗者を弾劾する共犯性を演出することに批判の名目がかかっている。それが道徳的な立法の立場から見てどれほど許容しがたいとしても、自己防衛の等価物を生産する生活の動機がその人物に類比される要求なのでない。そうだとすれば兵器を生み出す機構とは、犠牲者の役割を家族の構造に転嫁する責任追及の防衛として憲法が設定している世界の意味の書き換えにあると言える。これを壊滅することは私秘性の召喚がその自己防衛の等価物を焼尽させるまで正当化の価値を構築の意志に回帰させるかということにあり、税を国民の財源の生活保障の位置に共同性の機能として能力の全能性から反復的に徴収するという適格性には存在しないということがキャラクターが壊変されるゲームのルールに従うことの道徳性にならなくてはならない。