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やっぱり小説じゃない

映画が表現としての総合メディアという年代ですけれどももはや多分そうではなく

テレビは実家の介護が激しさを増してからは1時間も観ていませんし

音楽ももはやマニピュレート無しで生音で気持ちよく再現できる媒体ではなくなり

動画投稿も特に何も

TikTokですら冗長すぎるという感覚です

ゲームやインスタが唯一総合エンタメの残り香のような存在になるのかもしれません

ところで小説は?

無理でしょう

今のままでは

異世界転生はテンプレこそが没入導入の『かったるさ』をなくすためのものだったのでしょうけれどもそのテンプレすらかったるいものになっているのでは?

じゃあなにが

日常において実際に『やる』のが一番手っ取り早いでしょう

たとえばわたしは今日午後有給休暇を取って実家の父親の介護に必要な地域包括支援センターと介護事業所との契約を結んだのですけれども

その後で実家の地元の人たちに取り囲まれました

わたしの父親がかたくなに地域の役職を辞さないからです

自らが歩行すら困難な状況になっているのに

自ら辞さないその行為こそが認知症の証拠なのに

仕事用のスーツにローファーを履いたままで年配の男女が座る畳部屋に敷かれた紫色の座布団の上で正座して手をついて父親の非を詫びるこのわたしの姿は

事象として起こっているわけですから

何をこれ以上このことについての小説が必要ありましょうか

それはある意味わたしが前職でアフリカに赴任した時にブローカーの用心棒たちがエンターテインのテーブルの下で、それぞれのシルバーやブラックの拳銃を自慢し合っていた暴力が日常にそのままあるあの状況と意味は同じです

だから逆なんです

わたしの書く文章は読むための文章ではなく

そのままそこに居れ、という文章なんです

当事者たれば?という文章なんです

いじめの第三者委員会という言葉がありますよね?

無意味です

いじめに遭った被害者の側の『当事者委員会』でないと

そういう小説をかつて書いておられた代表格は大江健三郎さんでしょう

酷評するひとがおられることも知っていますけれども

そもそもあなたは『跳んだ』んでしょうか?

当事者と自ら言い切れるのは、たとえば、いじめに遭う子

災害に遭ったひとたち

戦災に遭ったひと、戦死したひと

闘病するひと

虐待に遭うひと

犯罪被害者の方

遺族の方

小説は物語じゃありません

自らの苦労を昇華するものでもありません

むしろ自ら跳ぶための

安全地帯に居ずに徹底して損な立場に居続けるための

武器なんです

だからつまりそういう状態になっている文章だとしたら

もはや小説と呼ぶのは失礼なのかもしれません

わたしの恩人の『歌』がそうです

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