多分今わたしが書いているものは小説ではないんだろうと思います
「捨てないんだ」
そういうタイトルの文章です
去年の四月から書き始めて、両親の介護が激しくなったことも大きな要因として途中でうつ病になって
その状態でも書き続けていてとうとう書けなくなって
そうしてなんとかしてある程度症状がおさまって来て『そういう』衝動もなんとか横に置いておけるようになって
再開した時あたりからもはやわたしは一切の躊躇をする必要が無いと考えて、今は四国八十八ヶ所のお遍路をシャムがモヤという女子タクシードライバーと一緒に巡るという内容です
詩、でもなく
敢えて言うならばわたしが生前遭えなかった恩人の歌の注釈書と言えるかもしれません
プロットは言うに及ばず
起承転結すらもどかしい
ほんとうは言語中枢など経由せずに精神をそのまま画像にしたい
絵にしたい
お遍路さんですから弘法大師さまが大きな存在として常にあります
その弘法大師さまが遣唐使として唐に命懸けで渡って異例なほどの短期間でマスターして持ち帰りになった密教はその最重要な真髄は『曼荼羅』として絵に表されます
仏教を哲学として捉える方も多いと思いますが、多分違います
言葉にしようとしてもできない何か
けれどもこう言えば少しはお分かりいただけると思うのですが、エンジェルスの大谷翔平選手はマンダラ・マトリクスという自己管理・自己成長のツールを学生時代から使っていたことは今ではよく知られているでしょう
ほんとうの理論というのは、言葉にするのがとても難しいんです
だからわたしの「捨てないんだ」という恩人の歌の注釈書は、風景描写を多用します
ストーリーもオチも無いエピソードも多く、延々と花の描写に終始することもしばしばです
ところで小説に風景や情景描写は不要だという説が幾度となくありましたが
あまりにも言葉を信用しすぎです
わたしは花の細部までを言葉で表現するのはとても楽しみですけれども、花はわたしがコントロールできるほど単純ではありません
ありていに言えば『インスタ映え』などあり得ないんです
映えているように見えるのはそういう風に撮っている、あるいはほとんどデコレイションのようにアプリの機能を多用して補正した結果でしょう
補正どころか原型を留めない別の絵空事に変換してしまっている結果でしょう
言葉も同じと思いませんか?
だからわたしは小説的な単語や言い回しがどんなに美しい言葉であったとしても、それを使うのではなく、観たまま聴こえるまま匂うままの『ほんとうのこと』をせめて書きたいんです
そのためには構成や起承転結や伏線回収といったものは邪魔ものでしかありません
そして見事なまでにカクヨムさんにおいてはPVゼロの日々が何日も続くことしばしばです
ところが他のサイトではどうしてかPVが一日あたり数百ぐらいのペースでお読みいただいています
この違いが一体なんなのかわたしにはわかりません
多分、カクヨムさんのユーザーさんにとってわたしの文章は必要ないものなのでしょう
今は
人間は自分が強くて他者を護れることに自信を抱くことが多々あるようです
特に一部のインフルエンサーさんや作家さんにそういう傾向があるとわたしは感じています
でも、そんなものは何の根拠もない戯言です
あなたは歳を取らないのですか?
病気にはならないのですか?
認知症にならないと断言できますか?
老いてシモの世話を家族や介護士さんや看護師さんにしてもらうことになった時
あなたは強者ですか?
そもそも、『小説』という表現にこだわる必要は無いのだろうと思います
わたしが今書いているものは、おそらくあなたが人生をもうこんなものなんだと思ってしまう時に、必ずや掬い上げると思います
だって、『捨てないんだ』