カクヨムさまに参加して、初めて月を超えました。
私の元々の生息地はTwitterでした。今とはちがう名前で。
専門職だったのでその関係と、本好きなので読書アカウント、闘病アカウントさん、いろいろな方がフォローしてくださって、大きなアカウントになってしまって。
火種は、子どもの頃から、少なくとも、高校生の頃には確実にまかれていました。
人の醜さと、自分の汚さにとても長い間溺れて、それは完治のない病気というかたちで、無情に結実しました。積み上げたものが壊れるのなんて、ほんの一瞬。
そもそも、資格はとれても、技量としても職業人としても、自分には向いていなかった。
資格はどれも保持しているけど、確実に、二度と現場に立つことはないです。
文芸だけじゃなくて、専門書なんて特に、とにかく半ば病的にたくさん読んでいたから、勉強会もいくつも開いて、講師の仕事も、掛け持ちでやっていたこともありました。
文芸も大好きで、高校生のころには今と同じくらいの本好きになっていました。読める状態は、限られていたのですが。
フィクションは好きだけど、嘘は嫌いです。
5年以上続いたTwitterは、もともとはコテコテの「病み垢」でした。凍結されたのも含めると、10年近く使っています。
でも、いつの間にか、専門職としても、読書好きとしても、一個人としても。
すべてSNS上でとはいえ、リアルの自分の中身とはたしかに一致はしている、けれどどこかで根本的に、決定的に乖離しているアカウントになって。
たくさんの目を意識して、いつしか言葉のどこかに、着色料のように意図して明るい色を足すことを始めだした頃から、自分の居場所は、黒い檻へと逆戻りしました。
ペシミズムでも何でもなく、自分が見たいのは純粋に、引き算をした人間の、世界の姿。ものごころついたときから、何かに怯えていたという、あのころから、ずっと。
「出生外傷」という、古い学説があります。
人間は、生まれながらに、守られた世界(母胎)から生まれてしまうという、心理的な外傷を負うという論を軸にした、はっきり言って今でもあまり相手にされていない学説です。
とはいえ、生まれはどうあれ、当人の意識が不在ではあっても、人は生まれたからには、自分の最期まで生きる以外に選択肢はない。
だから私は、私が見た現実を、見ている現実を、確かめるために、物語の世界にいる彼女たちの手を借りて、書いています。
もちろん応援はたくさんほしいです。PV数なんて、気にしまくってます。
価値のバロメーターなんて、ほしいに決まってます(私の場合です)。
でも、自分が生きるよすがにしてきた「言葉」を、「物語」を、大好きな「物語」を書く場で、妥協して使うことはしたくありません。伴う力が、そこにあろうとなかろうと。
言葉は、なんてこわいものなんでしょうね。
だけど私は、私の「現実」を、言葉に乗せて生きています。
カクヨムさまでの皆さまとの出会いを、そしてこれからあるだろう(と思いたい)出会いを、だから私は、たくさんたくさん、嬉しく思ってます。
お読みくださり、ありがとうございます。
機会がありましたら、またお立ち寄りください。
楽しみにしています。