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口無し男と金魚鉢の中の脳

この間から、小説ネタとして思いついた「口無し男と思考遊戯」の事についてずっと考えている。

発想の根幹ってのは実は「日記的なものでも良いから文章を書いた方が良いのではないだろうか」という焦燥感というか不安みたいなものからきていて、「ただノンフィクションで徒然と日々を書き起こすよりもフィクション要素、小説要素は取り入れたいよなあ」というある種の拘りが作用し、「ノンフィクションのようなフィクション」または「現実に紛れた非現実」的な作品にしたいと考えるに至った訳だ。

佐藤踵さんの作品「オスのししゃも」内にこんな台詞がある。「教室でも、図書室でも、自分の部屋でも、鉛筆さえあれば僕は自由なイルカになれた」

レビューこぼれ話にも書いたけれど、この作品を見て朧気だった着想に火がついた。

私は特段無口という訳ではなく、かといっておしゃべりな訳でもない、色でいうと灰色のような、いや、地味さで言えばくすんだ茶色みたいな男である。
しかし脳内は、いつだって雄弁に、時にやかましいくらいにベラベラと何かしら喋っている。つまり考え事が多い。

で、私が特別に「脳内ペチャクチャ野郎」なのかというとけっしてそうではない、ってのを上記「オスのししゃも」を読む事だったり、他作者さんの近況ノートを読んだりする事で再確認できた(あくまでも再確認だ。きっとどこかでわかっていたんだろう)。そしてバラバラな思考に一つの方向性がついた。

水槽の中の脳という思考実験がある。簡単にいえば「私達が見ている、感じている世界は、実は、水槽の中に浮かぶ脳が見ている幻なのではないか」という仮説だ。私の弱い頭ではこの仮説について詳細に語るなんてこと、とてもじゃないができないのだけれど、なんとなーく、上澄みをペロッと舐めるくらいの理解ならできた気がしないでもない。

私の、いや思い切って創作者のと言っちゃおうか。その脳内にはさまざまな物語が渦巻いている。
水槽の中に浮かぶ脳が見ている幻=私達の現実であるとするならば、幻である私達が脳内に描き出す世界=ダレカの、又はナニカの現実だったら面白いよね。
発想がなんだかアクロバティックで、思考実験を使った思考遊戯でしかないのだけれど。

私の現実なんてのは、きっと水槽ほど大きくない、金魚鉢くらいのサイズに浮かぶナニカのしょうもない幻かもしれないけれど、それでも、ちょっと飾り付けたり誤魔化したりなんかすれば人に見せる事が出来る程度には格好がつくかもしれない。

なんて。

もしまたウダウダと書く機会があったら、「口無し男」の部分についてを少々。




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