あるカクヨムユーザーさんの影響でカミュの異邦人を読んだので、それについて書こうと思います。
全部読んだのははじめてだと思います!
また、自分の体験と重なるところがあったので、それも合わせて書かせていただきます。
▼書籍
出版 新潮文庫
作品 異邦人
作者 アルベール・カミュ
訳 窪田啓作
▼読んだ感想
現代社会において、素直というのは愚かと同義にされてしまう!というのが刺さってきました。
「今日、ママンが死んだ」という有名すぎる冒頭からはじまる本作。
作中では、ステレオタイプ的な神や正義や良心というものが、太陽の光という形で主人公ムルソーを追い詰めていきます。が、ムルソーはどこか、客観的にとらえています。
中盤で人殺しの罪で裁判がはじまります。この裁判も、笑ってしまうほどムルソーが正直に、本音を言っていきます。判事とかが激怒していきます。
周囲の人たちは、母親の葬式で泣かないようなやつは極悪人で、更生の余地がない、という論調なのです。
それに対して、実際に泣かなかったムルソーは、そんなことと裁判がなぜ関係するのか、理解できずにいます。
ムルソーはすべてに対して、客観的、受動的なのです。(正確には、一般的に主体的になるべきところで、受動的、無感覚的とされてしまう言動をしているだけで、本当の意味ではふつうの人間だと思いますが)
ムルソーは、社会とは大掛かりな芝居みたいなもので、なんら実体がないととらえていたのではないかと思います。
だから真剣になりようがなかった。
一方、死を直前にして、あらゆる前提を取り払ったときに、怒りとともに、『演じなくていい』ということが人間の平和であり幸福なんだと確認したのかな、と思いました。
▼自分の体験から、、
僕の父は水難事故で、僕が高校生のときに突然、一瞬でなくなりました。
そのときも、僕は泣きませんでした。
通夜や葬式のときも、やってきた友達とかと馬鹿話をしたりして、平然淡々としていました。そんなんで、大丈夫なのかな、とか、冷酷すぎないか?と自分自身が不安になりました。
ただ、かわいそうとは思いました。苦しかったかな、かわいそうだな、という気持ちがありました。
だから無感情だとか、サイコパスではないかなと思います。(別にサイコパスでもよいのですが)
また、通夜などの席で、その場その場でこういう微細な感情を表明するというのはとても面倒なことでもありますね。
だから、都度、社会のいろいろなイベントに対して、周りが期待するリアクションができたら、万事スムーズなのでしょうけど。
という記憶が、異邦人の読後におそってきました。
自分の心で考える、というのが、幸せのひけつなんでしょうかね。そうしないと、どんどん心が窮屈になってしまうから。
ムルソーという青年の造形に、かなり親しみを感じましたし、そういう人は多いのではないでしょうか。