室町幕府が京の都にあったので、将軍に仕えるために守護は都に在住し、領国の支配は守護代が行なっていた、ということは以前に触れましたが、では、東国の守護も都に住んでいたのかとなれば、さにあらず。
室町幕府は東国支配のために、鎌倉府(または関東府)と呼ばれる機関を設置しました。そこの長官が鎌倉公方(または関東公方)で、それを補佐するのが関東管領です。東国の守護は鎌倉公方に仕えるために、鎌倉に在住していました。
しかしその体制も、永享の乱や享徳の乱によって崩壊し、守護は鎌倉を離れて領国に在住するようになり……と、室町幕府の体制が応仁の乱で崩壊するのと同じようなことが、室町幕府より30年ほど早く起こります。
より詳しく知りたい方は、鎌倉府や鎌倉公方、永享の乱などについてお調べください。
なお、中世から近世にかけては将軍のことも「公方」と呼ばれており、さらには、中世だと荘園領主を「公方」と呼ぶこともありました。鎌倉公方だけを指す呼称ではないので、その点は少し注意が必要です。