前回に続きまして短歌三首目です。
③標本のクワガタ逃がす磔の最期なんてとなじる盗人
解説をします。とは申しますがこちらを作った時は、なんか怖そう、というのが読んでくださった方に伝われば充分くらいの気持ちで結構自己満足で作った気がします。
こちらは読む時の区切り方で色々と解釈が変わってくるのかなと思いますのでまずは以下のように区切ります。
標本のクワガタ逃がす/磔の最期なんてと/なじる盗人
最初の五・七で、標本のクワガタを逃がしてしまった(盗んだ)のは「盗人」です。「磔の最後なんて」が逃げ切れずに捕まった「盗人」の台詞です。
標本を作っている方(学者とか……)にとっては貴重で大事な標本を盗んだ「盗人」は悪人です。
しかし「盗人」は虫の命を想って、標本にされる(磔になる)最期なんて可哀想だから森に逃がしてあげよう、と犯行に及んだわけです。盗みをしたその人は捕まってもなお周囲を非難しているので自分が悪いことをしたとは思っていません。
ちょっとここで別の解釈をしてみます。
最初の「標本のクワガタ逃がす」とその後の「磔の最期なんてとなじる盗人」がまったくつながりのない情景の取り合わせだったとして見るとどうでしょうか。私は虚しさや無意味さが前と後ろで共通したテーマになるのかなと感じます。
標本のクワガタを逃がす行為は、虫の死骸が生き返ったりしないわけですからほとんど意味を成しません。逃がした側もスッキリするかと言えばしないのかな、と思います。
これから磔の刑に処せられる盗人ですが、刑が決定されてしまった後にいくら周囲を詰り、嘆いたりしても無意味です。
……もしかすると盗人は無意味だと分かっていても詰らずにはいられないのかもしれません。となると、その前にある標本のクワガタを逃がす行動も逃がそうとする人(主体)は無意味だと分かっていても死んだ虫に同情し、逃がさずにはいられないのかもしれませんね。
以上です。区切り方を変えたり、隠れている一人称を変えてみると解釈が変わる短歌は多いので、機会があれば、私の歌だけでなく他の短歌でも試すと面白いです!