引き続いて短歌の供養です。2つ目の短歌を載せます。
②水満杯たらいの蛙今朝方は金網の内でなぜかあおむき
こちらの歌は、ちょっと意味がわかりづらいかなと思います。解説します。
主体は、たらいの中で仰向きになっている蛙を見つめる人物です。説明しますと、「主体」とは短歌の中での一人称にあたる存在のことで、語り手と言いますか、小説で言う主人公のことを指して使ったりしてます。
そして、仰向きになっている蛙は恐らくお亡くなりになっています。水を一杯に張ったたらいの中で、逃げ出せない(目の細かい)金網で蓋をされた状態で仰向けになっているのです。
「今朝方は」という言葉から今朝は亡くなっているけれど、昨夜までは生きていたニュアンスを読み取れるかと思います。
「なぜかあおむき」という所に注目していただくと、主体は蛙が死んでしまったことを不思議がっていることがわかるかと思います。もしかすると主体には悪意などはなく、捕まえた蛙を飼育しようとしたのかもしれません。「蛙が水が好きだから」という理由で水をたくさん入れてあげて「逃げていなくなったら困る」という理由で金網を置いたのかもしれません。
蛙の飼育方法を検索して分かったのですが、蛙の中には深い水が苦手な種がいたり、陸地と水辺を作ってあげないといけなかったりするそうです。そういった蛙には陸地がなく手足で捕まれる場所もなく泳ぎっ放しでないと息ができない、水満杯のたらいはきっと地獄の環境だったでしょうね……少なくとも老衰で亡くなったのではなさそう、と思っていただけたらいいなと思います。
主体が良かれと思ってしたことで蛙は衰弱死してしまいました。自分以外の生き物の命を軽々しく扱ってしまった結果、というわけです。主体はただ不思議がったのか、悲しんでいるのかはきっと解釈の余地がありますが、いずれでもすごく勝手ですよね……。
酷いことをしている側はその酷さに気付けないことです、それは作者である私も含めて……。
という歌でした。暗めの解説をしましたが、全く別の解釈をするなら「朝になっても起きない蛙が寝ぼけて仰向けになっている様子」の歌、と捉えてもおそらく蛙がコミカルに見えて面白いですし、間違いじゃないです。
自分がどういった解釈が好みかを知ると、普段の自分の物事に対する価値観が見直せたりして、きっと面白いので気が向いた時にやってみてくださいね。